歴史のかけら
6そこには1万近い遺体が散乱し、旗やのぼりが無数に捨てられ、主人を失った放れ駒が数百頭も うろうろと彷徨っている。動いている人間といえば、戦場掃除を仕事にしている黒鍬者か、討ち死 にした武者の武具を漁りに来た土民かのどちらかで、すでに主戦場には東西の武士は1人も居なく なっていた。
家康は、島津隊が視界から消えるや本営をさらに前進させ、天満山に布陣していた宇喜多秀家の
陣屋を通り過ぎ、さらに南西に進んで藤古川の台地部分に移動した。ここは周囲の木々が切り払わ
れて東軍諸将の軍勢からよく見える場所である上、大谷吉継の陣小屋だった建物が残っており、雨
を防ぐのにも都合が良かったのである。これから東軍諸将の戦勝祝賀を受けねばならない家康にす
れば、どしゃ降りの雨の中で濡れながら、というのではどうにもならない。
「殿様よりのお言葉でござりまする!」 使番の武者が、各隊の武将たちに家康の言葉を伝えて走る。 「この雨では米を炊ぐことも出来かねるので、今よりただちに米を水に浸しておき、戌の刻(午後8 時)になってよりそれを食うように。腹を壊してもつまらぬゆえ、飢えても決して生米を食うことは ならぬ、というお言葉でござる!」 百戦を経た男だからこそできる心遣いと言うべきであろう。東軍の将士はみな、家康の優しさと 士を思う心に感動し、この大戦の直後でさえこれだけ細々とした指図ができるその余裕と度量に感 嘆した。 「殿さまは、さすがに物に古りたお方でござりまするな」 忠朝が言うと、 「この日の本に、我が殿ほどの戦歴を誇る大将は、もはやおるまいよ」 と言って、忠勝は笑った。
戦後、家康は本陣ですぐさま首実検を行った。諸将の戦功を明らかにしておかなければ後の論功
行賞の際に差しさわりが出るし、そうなれば諸将の不満も溜まる。士卒に公正な賞罰を与えるのは
大将にとってもっとも大事な仕事であり、ことに豊臣家の諸将を徳川家の私兵としなければならな
い家康にとって、これは重要な政略でもあった。
この「関ヶ原」で、わずか5百の本多隊の挙げた首というのは実に90余にも及び、これは徳川勢
の中では群を抜いた数字であった。 忠朝は、家康の前に出るとき、抜き身の刀を持ったままであった。 「その刀、如何にしたのじゃ?」
刀を背に回し、御前に跪いた忠朝に向け、家康は優しく問うた。 「島津勢とやり合うたときに槍が折れ、それからはこの太刀を抜いて働いておりましたが、使う うちに刃が曲がり、鞘に収めることができぬようになってしまいました」
と、恥ずかしそうに答えた。
その後、本多隊で兜首を挙げた者を本陣へ呼んだ。 「怖れながら、この首はそれがしの手柄にはござりませぬ」 と恥ずかしげに家康へ報告した。 「この者は、若殿(忠朝)の槍にて手傷を負い、馬から転がり落ちたるところをそれがしが首を掻い ただけのことにて、いわば『貰い首』も同然でござる」 家康は、自身の栄達にこだわらないこういう正直者が格別に大好きで、 「本多の者どもは、よくよく三河の気風を残しておるわ」 と、この事をたいそう喜び、大いに褒めた。
家康は、忠勝から島津隊の追撃の様子などをつぶさに聞いたが、そのとき本多隊の指揮を執って
いたのが忠朝だったと聞き、驚き、かつ喜んだ。 「忠朝の武功は、これが初陣などとはとても思えぬほどで、見事としか言いようがない。行く末、 きっと平八郎(忠勝)にも劣らぬ男になるであろう」
家康は、忠朝を激賞してやった。
家康は、この機会に忠勝の本多家を加増しようとした。 しかし、忠勝はこの加増を受けようとはしなかった。 「それがし、さしたる働きも致しておりませぬゆえ・・・」
と、頑として受けようとしない。 家康は、 「関ヶ原でよう働いた忠朝に、大多喜で5万石を与えよう。平八郎(忠勝)には桑名を押さえてもら わねばならぬ。これまで通りの10万石を領するが良い」
というところで、折れた。 忠勝にすれば、「本多家の武威」というものを考えたとき、長男の忠政を総大将として本陣に 据え、次男の忠朝が侍大将となって10万石の兵を率いる、という形が理想であった。忠朝の気性 と器量は、あくまで陣頭に立つことこそが相応しいであろう。 (しかし、それも哀れか・・・)
とも、忠勝は思うのである。 今回の家康の提案は、忠朝に家康から直接領地を与え、「徳川家の直臣にする」ということで あった。これは、忠朝が分家して本多家とは別の家を立てるということであり、忠政の支配を離 れ、自らが独立の「徳川家の大名」になるということなのである。この形であれば、忠政と忠朝 は「家康の家臣」として同じ土俵に立てることになる。 だからこそ、忠勝は迷った。 忠勝も、人の親である。二人の息子はどちらも同じように可愛いが、ことに自分と似た臭いをも っている忠朝に対する愛は深い。これを、「本多家の家臣」で終わらせることなく、「徳川家 の大名」にしてやりたいという親心が、当然ある。 熟考の末、忠勝は家康の申し出を受けた。 この瞬間、忠朝は本多宗家を出ることになり、大多喜で5万石を領する大名となることが決まった。
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