歴史のかけら
7三層の天守がそびえる大多喜城も、整備された城下町もみな忠勝が縄張りしたものだし、忠勝自 身が出かけて行って領地を隅々まで検地し、名主や百姓の話を直に聞いて公正な税を課す一方、貧 民を救済し、不正を取り締まり、治安の維持や灌漑などにも気を配った。旱魃や冷害が出た年は、 税を軽くしたり城の蔵を開いて無利子で米を貸し与えたりしたし、領地を歩くときは気軽に百姓た ちに声を掛け、直接触れ合うことでその撫育に務めた。 大多喜に住む百姓、町人たちは、このため忠勝には非常によく懐いており、中には、 「殿様にお食べいただきとうございます」
などと言って、季節ごとに自分の村で取れた作物を持って城にやってくる者さえいるほどであ
った。 本多家の発祥の地である三河を知らず、徳川家が長く本拠を置いた浜松での生活も短かった忠朝 にとっては、この大多喜こそが、物心つくころから慣れ親しんだ故郷であった。家康は、そういう 事情をよく心得た上で、忠朝にこの住み親しんだ大多喜城と5万石の領地を与えたわけで、これは 家康のとびきりの好意と言うべきであろう。
忠勝は、本多家の家臣団を引き連れて桑名へ移封ということになった。このことは大多喜の人々
を大いに嘆かせたが、新領主が若殿の忠朝だということが伝わるや、人々は安堵して平静を取り
戻した。彼らは遠乗りや鷹狩で見る忠朝の姿を知っていたし、その磊落で優しげな人柄について
も聞き知っていたのである。 忠朝の大名としての新生活は、順風満帆だった。
ところで、徳川幕府というと陰湿で固陋で排他的で風通しが悪いというイメージがあり、これが
すなわち家康という人間のイメージに結びつくのだが、対外国政策というものを見るとき、家康個
人が取った政策というのは、むしろ解放的であった。 ちなみに、この徳川幕府が日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を全面的に禁止し、オランダと 中国以外の外国との交易を廃止するいわゆる「鎖国政策」を取って世界との接触を閉ざすの は1635年であり、これは三代将軍の家光の時代のことであって、家康とはなんの関係もない。 さて、慶長14年(1609)――忠朝27歳のときのことである。 数日雨に降り込められ、やっと天気が秋晴れの空を取り戻した9月の晦日、忠朝が早朝から日 課の馬責めと弓の稽古をしていると、 「殿! 一大事でござりまするぞ!」 と、家老の一人が血相を変えて忠朝の元へ注進に来た。 「この太平な世に、一大事とは何事じゃ?」 忠朝が苦笑すると、 「い、異国の船が、岩和田(現 御宿)の沖で浅瀬に乗り上げ、身動きが取れなくなっております由、 近くの村の者から早馬が参っておりまする!」 「なんと・・・!」
これは、さしもの忠朝も仰天した。
岩和田沖で座礁していたのは、乗員・乗客373人を乗せたサン・フランシスコ号というスペイン船
であった。
このサン・フランシスコ号には、スペインの前ルソン総督代理 ロドリーゴ・デ・ビーベロ・イ・
ベラスコという男が乗船していた。ロドリーゴはスペイン政府の高官で、この後日本に1年ほど
滞在し、家康や二代将軍 秀忠に会い、この時まだ国交が確立されていなかった日本とスペイン
の友好と通商のために尽力し、家康が命じて作らせた日本初の洋式船サン・ブエナベントウーラ
号(日本名 安針丸)に乗って帰国。帰国後、『日本見聞録』という著作を発表する人物である。 忠朝という男の人柄が偲ばれるエピソードとして、面白い。
兄である忠政から急飛脚が来たのは、その年の9月のことであった。 忠勝は、死の直前まで意識がはっきりとしていたらしい。自らの死を悟って遺書を書いたり もしてあったのだが、二人の息子が久々に揃うと、これを枕頭に呼び、遺言をした。 「もはや改めて申し聞かせることもないが、侍たらんと思うならば、上様(将軍 秀忠)のためにい かに死ぬかをのみ考えよ。侍の手柄など、忠義に勝るものはなく、忠義とは、つまりは上様の命に 従って死ぬことができるかどうかだ」 忠勝は、苦しげな息の中で続けた。 「我が本多家は、大御所様(家康)のご恩によって大名と呼ばれるほどになったが、どれほどの大 身になろうとも、徳川のお家の譜代の郎党であることに変りはない。徳川家のために死ぬことを、 わしへの忠孝の道と心得よ」 「お言葉、肝に命じましてござります!」 二人は声を揃えて言った。 「忠政は、嫡子でもあり、本多家を継ぐことはすでに決まっておる。この桑名の城と領地、武具、 馬具、茶道具にいたるまで、わしの物はことごとくその方に譲る」 忠政は頷いた。 「軍陣に備えるつもりで、わしは今まで掛かって一万五千両を蓄えた。忠朝にはくれてやる物も ないゆえ、その黄金を与えて遣わす」 忠朝も頷いた。 「家を出たとは言え、血を分けた同じ本多じゃ。忠朝、兄をよう援けよ」
それだけ言うと、忠勝は瞑目し、顎を振って二人に退出するよう促した。その後、しばらくして
静かに息を引き取った。 ところで、忠政は、この忠勝の遺言に対しては不満を持っていた。 (父の物は、嫡子のわしがすべて相続するのが世の道理ではないか)
この頃は嫡子相続が当然であったから、忠政の想いにも一理はある。
忠朝は、そんな経緯は解らない。 「実は赫々然々で・・・・」 と、言い辛そうに忠政の意向を伝えた。 「・・・左様か」 話を聞いた忠朝は、さっぱりとした笑顔で言った。 「兄者の申されておることが道理じゃ。あの軍資金は、本多家のいざという時のためにこそ使うべ きである。まして兄者は大身で、家士も多く抱えており、軍馬の蓄えはいくらあってもあ り過ぎるということはあるまい。父上は、わしを可愛いと思ってあのような遺言をしてくだされ たのであろうが、その父の言葉に甘えておっては義にもとる」
ちなみに黄金1万5千両というのは、現在の価格に単純に直すとおよそ45億円にもなる。もち
ろん当時の物価の安さを考慮に入れれば、貨幣としての実質価値はそれよりも遥かに高かったに
違いない。
忠政は、この忠朝の言葉を伝え聞き、その清々しいほどの無私な態度を知り、こんなことを言い出し
てしまった自分をひどく後悔し、恥じた。すぐさま忠勝の遺言に通りにすることを決意し、そのことを
忠朝に伝えたが、今度は忠朝が固辞して受けようとしない。 しかし、忠朝は、 「もし万が一のことがあれば、その時は改めてお願いしますので・・・」 と言ってついに自分の取り分を受け取ろうとはせず、桑名城の蔵の中にそのまま預けて封印し、 生涯びた一文手をつけなかったという。
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