歴史のかけら


戦鬼の血脈

 島津隊の突撃の様というのは、悪鬼か羅刹のようであった。

「チェストォォォ!」

 猿叫と言われる高い雄叫びを上げ、彼らは槍を、太刀をかざしてまっしぐらに駆けてくる。男た ちの顔はどれも決死の相が揃い、狂気が憑いているとしか思えない。
 この島津隊の目的は、敵の重囲を突き破って関ヶ原を抜け、南東を指して伊勢街道まで突っ走 り、どうにかして維新入道 島津義弘を戦場から落とし、無事に帰国させるというこの一点であっ た。島津家の武士たちにとって島津義弘というのは人と言うより生きた武神と言うに近く、これを 守るためであれば彼らは喜んで命を捨てた。

 この島津隊を率いる侍大将は、島津豊久という男であった。
 島津豊久は、島津家の太守 島津義久の実弟の子で、島津維新の甥に当たる人物である。身は2 万8千余石を領する大名でありながら、性質は薩摩隼人の典型のような愚直な朴強漢で、まだ30歳 と若いが戦場の経験に不足はなく、ことに小部隊戦闘の指揮能力と統率力に優れ、秀吉の北条征伐 や朝鮮出兵などで数々の戦功を挙げている。

 豊久は、島津維新の副将としてこの関ヶ原に臨み、島津隊の半数の指揮を任されてその先鋒に なっていたのだが、この退却戦にあたり、主将である島津維新を守護するために百人の屈強な戦 士たちを選んでこれを囲ませ、自ら先鋒となって残る全軍を率いて関ヶ原を駆けていた。
 この島津隊の勢い、兵気の鋭さというのは凄まじく、東軍のほとんどの将士が戦うことなく道を 開けた。

 忠勝は、揮下の徳川勢1万をもってこの島津隊の真正面に立ちふさがった。

「忠朝、よう見ておけ!」

 傍らの忠朝に呼びかけた。

「これから槍を交えるは、日の本一の勇者どもじゃ! これがわしらの『関ヶ原』よ!」

 忠朝は、驟雨の中から猛進してくる男たちを注視していた。

 忠勝の指揮の下、徳川勢が次々とこの島津隊に挑みかかり、道をさえぎっては押し包み、鉄砲を 猛射した。
 一斉射撃のたびに、十人、二十人といった風に薩摩人たちがバタバタと打ち倒される。
 繰り変わった槍隊が穂先を揃えてこれに突き懸かり、崩そうとするが、島津隊は槍隊と激闘 し、その重囲を突き破っては裂け目から脱出し、しかも突撃の速度は少しも衰えない。
 忠勝の正確無比な下知(命令)が飛び、3陣、4陣と徳川勢の秩序だった攻撃が続く。
 しかし、島津隊の猛進は止まらない。鉋で削り取られるようにして次々と脱落者を出しながら、 その兵気はますます鋭さを増してゆく。

(・・・・これが薩摩隼人というものか!)

 忠朝は、この薩人たちの驚異的な強悍さと超人的な勇気に感動した。

「我らも、この武士(もののふ)たちに負けられませぬぞ!」

 忠勝も、鳥肌の立つような想いでいる。
 この時代の武士の多くは、「良き敵」というものに対してスポーツマンシップにも似た 尊敬と友愛の情を持っている。これに巡りあえることは無上の喜びであり、幸せであった。

「ならば忠朝、お前が我が本多勢に下知して敵に攻めかけよ! 薩人たちに劣るな!」

「承知つかまつった!」

 忠朝は、忠勝が腰に下げていた采配を譲り受け、それを天に掲げて絶叫した。

「懸かれぇ!」

 その声と同時に、本多隊5百が怒涛のごとく敵に向けて駆け出した。
 忠朝の下知というのは、ただ「懸かれ懸かれ」と絶叫する単純無類のものだった。しかし、こ の声を聞いた本多隊の男たちはモノにでも憑かれたようにまっしぐらに島津兵に向かって突き進 む。

(・・・おお!)

 将の一声で、兵たちが生と死を忘れる。これこそが、将にとってもっとも重要な資質であろう。 なぜなら、戦の知識や兵の動かし方といったものは戦に古りた者が大将を補佐すればどうにでも なるが、この将器という資質だけは、人間としての魅力に関わるものであるだけに後天的に身につ けることが非常に難しいのである。古今のいかなる名将も、この資質を持ち合わせなかった者はな い。

(やはり、忠朝は将の器ぞ!)

 忠朝の傍らで馬を駆けさせている忠勝は、嬉しかったに違いない。

 忠朝は陣頭に立ち、本多隊を叱咤して敵に突撃させると、采配を口に挟み、自ら槍をとって薩 摩兵に突きかかった。
 忠朝は、手柄が欲しかった。
 父 忠勝の名に恥じぬ活躍をせねばならぬという気負いがあることはもちろんだが、初陣で目の 覚めるような武功を挙げれば、その者は「天晴れな勇者よ」ということで人に強烈に印象され、敵 にも怖れられ、しかも武運に愛されているということでこれに従う士卒は大いに頼もしがる。しか し、初陣が捗々しくないと、「武運の悪い男よ」ということで人が頼りなく思い、後々多少の武功 を挙げてもたいした印象を残せないものなのである。
 その意味で、この島津隊との戦闘に賭ける忠朝の意気込みというのは凄まじいものがあった。
 戦というものを誰よりも知っている忠勝は、そんな忠朝の気持ちが解っている。忠朝の傍らで 馬をうたせつつ、その働きを静かに見守ってやっていた。
 忠朝の器量を測るには、決死の島津兵というのはこれ以上ない敵であろう。この超人のような 強悍さを持った男たち相手に気後れしなければ、この後、どんな困難にぶつかることがあったとし ても、気持ちで負けるようなことはないに違いない。

 忠朝は、めぼしい騎馬武者を見つけては自らそれに挑みかかり、長槍を片手で振り回して大暴れ した。その気迫は敵の薩摩人たちになんら劣ることはなく、馬の運び、槍の捌き共に絶品としか言い ようがない。このとき忠朝に馬から突き落とされた島津隊の騎馬武者は、4騎や5騎では済まな かったであろう。
 しかし、忠朝の奇妙さは、それらの敵の首を獲らないことであった。忠朝は敵を馬から突き落と すと、近くを駆けている本多隊の侍たちにその止めと首を譲り、すぐさま次の敵を求めて駆け去っ てしまう。

 その忠朝の働きぶりをつぶさに見ている忠勝は、

(忠朝め、武辺というものをよう心得ておるわ)

 と、むしろ関心した。
 たしかに一騎駆けの武者の武功とは、敵の首で決まるであろう。しかし、忠朝は武将であり、将 の武功というのはその率いる隊が挙げた活躍を指す。つまり忠朝自身が首を獲らずとも本多隊が 取った首というのは忠朝の武功になるわけで、ことさら1つ2つの首を家来と争って匹夫の勇を誇 るよりも、それらの首を譲ることによって家来に手柄を与え、大将の器量を示し、彼らの信頼 を得るほうが武将にとっては得るものが大きいのである。忠朝自身がどういう働きをしたかという のは、戦場で共に駆け働き、忠朝に首を譲ってもらった武者たちが実際に見ているわけだから、た とえ敵の首を1つも持って帰らなくとも武勇を疑われることなどはあろうはずがなく、その家来 思いで無私な働きぶりというのは、むしろ美談として人々の口に上るであろう。
 これほどまでに冷静に、堂々と戦場で働いている忠朝は、この「関ヶ原」が初陣なのである。

(本多家の侍大将にこの男がある限り、わしも安心して老いられる)

 忠朝の勇姿を見ながら、忠勝はそんな感慨を持ったに違いない。


 島津隊に立ちはだかったのは、忠勝率いる徳川兵団1万と、井伊直政に指揮を任された混成兵 団9千だった。島津隊はこれらの執拗な攻撃で実に千人以上が討ち死にし、戦闘力をもって駆ける ことができる者というのはわずか2、3百人を残すのみとなった。
 驚異的なことに、それでも彼らの足並みというのはまったく衰えない。重囲をどうにか突破し、 家康の本陣の前をすり抜けるように駆け、南宮山を左手に見つつ南東を指して走りに走る。
 本多隊を含め、総勢2万近くの軍勢がこれを追撃した。

 島津隊の先頭に立ってもっとも苛烈に戦った島津豊久は、ここでは自ら殿(しんがり)になり、 追撃してくる徳川勢を打ち破っては退け、その隙に退却し、逃げては戦い、戦っては逃げ、比類な い働きを見せた。激闘は1時間以上にわたって続き、ついに関ヶ原南端の烏頭坂(うとうざか)と呼 ばれる地点まで辿り着いた。
 烏頭坂というのは、南宮山と松尾山の斜面にはさまれた谷状の間道で、ここで陣を敷く限り敵 は正面からぶつかってこざるを得ず、四方を包囲されることもなく、敵の攻撃を防ぎとめつつ味 方を逃がすことができるという絶好の地点であった。
 島津豊久は、生き残った13人の武者と数十人の雑兵と共にここに踏み止まり、徳川勢の追撃を 防ぎ止め、押し返し、さんざんに戦った。

 混雑する味方の部隊を追い越し追い越し、凄まじい速度で敵を追いかけていた忠朝率いる本多 隊は、この島津豊久の殿部隊とついに激突した。

 真正面から本多隊を突撃させた忠朝は、自ら敵の中に突っ込み、

「大将は、いずこにやある!」

 と大音声で呼びかけた。
 忠朝が目指すのは、敵の総大将 島津 維新入道 義弘をおいて他にない。

「我こそは、島津維新なり!」

 黒糸縅の古風な甲冑に身を包み、猩々緋の陣羽織を羽織った島津豊久は、叔父の名を名乗るや 馬上で強弓を引き絞り、巨大な鏑矢の先を忠朝へと向けた。

「一槍お相手願おう!」

「推参なり(呼びもせぬのに出てくるな)! 若造づれにわしの相手が務まるかよ!」

 叫びざま、これをひょうと射た。
 鏑矢は凄まじいうなりを上げて飛翔し、忠朝に襲い掛かる。
 と、その忠朝の前に馬を入れた忠勝が、名槍“蜻蛉切”を一閃させてその鏑矢を叩き落とした。 すると、鏑の先が真っ二つに割れ、その一方が、いかなる偶然か忠勝の乗馬――二代将軍 秀忠か ら拝領した名馬“三国黒”――の平首に突き刺さった。
 たまらず馬が棹立ちになり、断末魔の叫びも凄まじく横倒しにどうと倒れる。
 百戦錬磨の忠勝ではあったが、槍を振るった直後であるだけにバランスを崩し、そのまま地面に 投げ出されてしまった。

 忠勝の背中側からしか事態が見えない忠朝には、状況が解らない。
 瞬間、忠勝が自分を庇って矢を受けたと錯覚し、意識が焼き消えるほどに激怒した。

「おのれ!」

 前後の見境もなく、ただ1騎で豊久へと突撃した。

「いかん! 忠朝を援けよ!」

 忠勝が叫び、馬廻り(親衛隊)の武者たちが忠朝を追って走り出す。
 糸を引くような凄まじさで豊久へと突進した忠朝は、そのままの勢いで必殺の槍を突き入 れた。
 とっさに弓で槍を払った豊久だったが、うなるような槍先を払いきれず、肩口にそれを受け、 そのまま跳ね飛ばされるように馬から転がり落ちた。
 忠朝の槍というのは豊久の背中まで抜け、そのあまりの衝撃に柄が半ばから折れ砕けてしまっ ている。

 豊久を守る島津家の武将たちがたちまち間に割って入り、忠朝を押し包んで討ち殺そうとし つつ、別の者が負傷した豊久を抱えるように後退させた。

「おのれ! 逃げるな!」

 忠朝は反射的に太刀を引き抜き、次々と突き出される槍を懸命に払いつつ豊久を追おうとする が、5、6騎の武者に行く手を阻まれ、どうにもならない。
 すぐさま本多隊の武者たちが駆けつけて島津の武者たちと乱戦になり、その中の一人が忠朝の馬 の口を取り、引きずるようにして馬を後方へと下げさせた。

「島津維新っ! 返せぇ!」

 馬上の忠朝は絶叫したが、島津隊の生き残りの武者たちが次々と本多隊へ突撃してくるため、 その姿はついに視界から消えた。


 島津豊久を失った島津隊は、それでも本多隊の猛攻をよく防ぎ、13人の武将と雑兵たちが全滅す るまでこの場を支え、島津維新が退却するための時間を稼いだ。

 本多隊が烏頭坂の殿部隊を壊滅させ、敵の侍大将に深手を負わせたことを知った井伊直政は、

(平八郎(忠勝)一人に手柄を渡すは名折れじゃ。この上は島津維新の首を挙げるのみ)

 と、執拗に島津維新を追った。

 島津隊は、その後、「捨て奸(すてかまり)」という独特の遅滞戦術を繰り返して徳川勢の追撃を 食い止めた。
 捨て奸とは、敵が来るであろう道に座りこんでたった1人で敵を待ちうけ、これを至近距離まで 引きつけ、鉄砲をもってめぼしい武将を狙撃し、怯んだ敵に向けて槍を構えて突っ込み、闘死する まで時間を稼ぐという捨て身の戦法で、これをする者は確実に死ぬという玉砕戦術なのだが、生き 残った島津兵たちは島津維新のために次々と身を犠牲にし、撤退のための捨て石になった。

 この捨て奸という戦術は、気負い立って敵を追撃する軍勢にはことさら効果が大きいらしい。 追撃部隊の真っ先に立って島津隊を猛追した井伊直政は、大将であるにも関わらずこの捨て奸の狙 撃兵のために銃弾を受け、あろうことか意識を失うほどの重傷を負ってしまい、追撃を断念せざる を得なくなった。直政はこのとき受けた傷のために、後日、命を落とすことになる。
 また井伊直政と共に島津隊を追った家康の四男 松平忠吉も、この戦法に掛かって銃創を負い、 味方の士卒に庇われつつ後送された。

 薩摩武士たちの死を賭したこの「捨て奸」によって、徳川勢の追撃は、潰えたと言っていい。


 家康が全軍に追撃の中止と戦闘の終結を指示したのは、この日の午後4時ごろであった。
 1千5百を数えた島津隊は、この時わずか80数人を残すまでになってしまっていたが、彼らは 見事に武士の責務を果たしきり、大将である維新入道 島津義弘を生きたまま戦場から離脱 させることに成功したのだった。

 ちなみに、この退却戦で鬼神のような働きをした島津豊久は、忠朝の槍によって重傷を負い、こ の失血のために戦闘不能となり、近隣の農家に担ぎ込まれていたのだが、

「わしがおっては皆の足手まといになる」

 と言って、その場で自ら腹を切り、命を断った。

 その働き様と死に様というのは、「武士」としか評しようがない。




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