歴史のかけら


王佐の才

98

 姫路に戻った官兵衛は、留守を守っている父の宗円から詳しい状況を聞いた。

 ちなみにこの宗円入道というのは官兵衛の実父で、名を兵庫助 職隆(もとたか)という。 君子然とした穏やかな風貌を持ち、肌は煮しめたように色黒い。背格好は官兵衛とそう変わ らぬ小兵である。この時まだ五十五だが、なんとこの男は四十四歳の若さで隠居を宣言し、 頭を丸めて一線を退いている。病気でもなくこの壮齢で本当に引退してしまった戦 国武将というのもなかなか例が少ないが、宗円は、我が子である官兵衛の器量を見抜き、自 分より息子の方が何事にも優れていると判断したらしい。自ら隠居することで黒田家のすべ てを官兵衛に譲り、官兵衛が自由に動ける環境を整えてやったのである。
 官兵衛は、そういう宗円の深謀によって二十二歳の若さで黒田氏の家督となり、同時に父 の跡目を継いで小寺家の老臣筆頭となった。小寺氏は播磨第二の実力を持つ有力豪族であり、 官兵衛はその実権を握ることで驥足(きそく)を存分に展(の)ばすことができ、播磨とい う画布に様々な絵を描くことができたのである。そういう意味では、官兵衛がこの時期の歴 史の舞台に華々しく登場することができたのは、すべて無欲で聡明なこの父の自己犠牲があ ってこそと言える。

「まだ表立って織田に敵対の色を見せておるわけではないが――」

 と断った上で、宗円は人を走らせて探った御着の様子を淡々と語った。
 小寺政職は、姫路の守備のために寄騎として黒田氏につけていた家来を御着に召還し、陣触 れして近在の者を城に呼び集め、兵糧なども運び入れているらしい。

「どうも摂津守殿(荒木村重)から誘いがあったらしいのだ。摂津守殿が毛利方に寝返ったと なれば、播磨は四方を毛利の与党に囲まれたことになる。殿やその左右の者たちは、遠からず 始まるであろう毛利方の反攻に脅え、腰がぬけたのじゃろう」

 御着にも個人的に宗円と昵懇の者があり、城内の情報を漏らしてくれているらしい。

「やはり摂津守殿と通じて――では、すでに御着の寝返りは明白か・・・・」

 官兵衛は呆然とした。怖れていたことを現実として突きつけられた感じである。

「そなたは、己で思うておる以上に殿のまわりの者どもから憎まれておる。そなたに対する反 感も手伝ってのことであろうよ」

 この言葉は官兵衛にとって耳が痛い。
 確かに官兵衛は、政職の周囲の侍る人間たちを愚物と見、家中における小政治を軽視し、そ れらに対する根回しや配慮を怠ってきたようなところがある。官兵衛は小寺家の重臣の中で飛 びぬけて若く、しかもその才知が人に抜きん出ているために、どうしても周囲から浮いてしま う事が多かったのだが、そういう場合、官兵衛はただ主君の政職に話を通すだけで物事を動か してきた。政治という人間の営みが細心をどこまでも積み上げてゆくことで成し得るものだと すれば、若い官兵衛には老獪さが足りなかったと言わねばならない。

(殿はすでに毛利につくと決めてしまわれたか・・・・)

 こうなると、官兵衛は黒田氏としての態度を決めねばならない。主家である小寺氏と運命を 共にするか、小寺氏から離れて織田方に留まるか――

「御着の殿はあのようなお人だが――」

 この父子の間では、「あのようなお人」で十分意味が通る。
 官兵衛らの主君である小寺政職は、暗愚とまでは言わぬまでも庸人としか評しようのない 平凡な男であった。この乱世に生まれながら戦場では一隊の指揮もできず、たとえば天下の 趨勢を見通すような能力はまったく欠如している。多少の取り柄があるとすれば、若い頃 の政職には人材を見る目とそれを使う器量があったことであろう。官兵衛の祖父を在野から 家中に組み入れたのはおそらく政職の父だが、その子・宗円の才気を見抜いていきなり小寺 家の老臣筆頭に抜擢し、小寺の姓を与えることまでして厚遇したのは他ならぬ政職である。 若き日の政職は、己の凡庸さを自覚できる程度の謙虚さを持っていたということであろう。 さらに言えば、大名が家を守ってゆくには、有能な人間に大きな権力を与え、家の舵取 りをさせるに限るという機微を、古くから続く家系の知恵として心得ていたのかもしれない。
 しかし、その政職も老いた。すでに六十の坂を越え、若い頃にはあった精神の瑞々しさや 思考の柔軟さを失い切っている。今の政職は顎がなくなるほどに肥えた醜い老人であるに過 ぎず、すっかり保守的になったその頭には肥大した自己愛と名門意識と防衛本能しか残って いない。

「あのようなお人だが、わしにとっては大恩ある主君(あるじ)じゃ。幼少の頃からおそば に仕え、兄を佐(たす)けるような気持ちで四十余年過ごしてきた。すでに骨肉の情がある」

 だから、政職がどれほど愚かな選択をしようとこれを見限ることはできない――と 宗円は言う。

「じゃが、そなたは別だ。若いそなたはわしに比べれば主君への恩愛は薄かろう。黒田の家 は、すべてそなたの思うままにせよ」

 このあたりが宗円の知恵深さであるかもしれない。
 宗円は広く天下を知るような位置にはないが、聡明にしてものがよく見える男で、官兵衛と 様々に語り合ううちに「織田と毛利の争いは結局は織田の勝利に終わるであろう」という官兵 衛の観測がもっともなものだと思うようになっている。つまり、黒田家の保全という観点から すれば織田についてゆくしかなく、小寺氏が毛利方に奔るという以上、小寺氏から離れるしか ないということは、いわば自明の理として解っている。
 しかし、解ってはいても、宗円にすれば小寺政職に恩も情もあり、とてもこれを見捨てるこ とはできない。宗円は後年、落ちぶれ果てて諸国を流浪している政職をわざわざ庇護し、その 窮状を救ってやっているほどだから、この気持ちに嘘はない。
 だからこそ、官兵衛の判断にすべてを任す、と宗円は言うのである。官兵衛ならば、織田に 留まるであろうということまで、この賢明な男は見通している。

「御着は、我らにとってあくまで主家です」

 官兵衛は苦しそうに言った。

「主君(あるじ)が間違いを犯そうとするなら、命を賭してでもそれを諌めるのが忠義の道 というものでしょう。まずは御着に赴き、殿を説きます」

 この一言に、同席していた黒田家の重臣たちは仰天した。

「いま御着にゆくは、殺されにゆくようなものではござらんか!」

 と叫ぶ者もあり、

「何の遠慮なさることやある。御着が毛利につくというなら、いっそこれと一戦なさればよ いではござらんか。なぜそのお覚悟をなさらぬ」

 と官兵衛を唆(そそのか)す者もいた。
 彼らにすれば、この期に及んでも御着に対する忠誠心を捨てない官兵衛が歯がゆく、腹立 たしささえ覚えたであろう。
 時は戦国の大乱世である。力ある者が下克上で主家を乗っ取ることさえ珍しくもないこの 時代、黒田氏のような半ば独立の小豪族は、あくまで自家の利害損得の範囲の中で主家に対 する忠節がある。主家がその小豪族の存続にとって著しく不益な選択をするなら、小豪族の 側が主家を見限るのはむしろ当然で、自家を滅ぼしてまで主家に尽くすべきであるというよ うな倫理観はない。
 官兵衛は小寺家の家来ではあるが、同時に個人としては黒田氏という小豪族の当主である。 豪族の当主たる者は自家の生き残りを最優先にするのが当たり前であり、このことに議論の 余地はない。黒田家に仕える者たちにすれば、そういう当主であってくれねば困るのである。

 しかし、それでも官兵衛の決意は揺るがなかった。

「私には主家を裏切ることはできない。ましてこれを討つなど思いもよらぬ。それに御着は まだ公然と叛旗を掲げたわけでもない。今なら、まだ説得で思い止まらせることもできるや もしれん」

 官兵衛にとって主家に対する忠節は、損得利害や是非善悪を超えた信念のようになってい たのであろう。
 同時に、「家来は主家に叛くな」ということを、黒田家の家来たちに実地に教育しようと したのかもしれない。家来は主君の好む侍になろうとするものであり、主君のやることを真 似るものであるから、家風とはその家の当主の個性で決まってくる面が少なからずある。黒 田家当主の官兵衛にすれば、裏切りが黒田の家風というようなことになっては困るわけで、 主家に対する忠節とはどういうものであるかを示すために、命を張ってみせねばならなかっ た。
 何より官兵衛は、自分の弁舌に絶対の自信を持っていた。説得すれば必ず成功するはずだ という自己への過信と、自分が説けば必ず解ってくれるはずだという主君・政職への親しみ と信愛が、官兵衛が吐いた言葉の主たる論拠であったに違いない。

 宗円は、官兵衛の言葉を聞いて静かに頷いた。

「人数を引き連れてゆくか?」

 と訊いたのは、武力を背景に脅しを掛け、いわば力づくで変心を迫るか、という意味である。 黒田家の兵は小寺軍の主力である。小寺氏が戦えば勝ち、守っては常に敵を撃退できたのは、 宗円や官兵衛に率いられた黒田家の軍兵があったればこそであり、その活躍によるところが大 きい。常に黒田の兵に守られ、その後方に居た御着衆にとって、黒田の兵の槍が自分たちに向 くことは脅威に違いない。

 これに対して官兵衛は、

「いえ、私一人でゆきます」

 と答えた。あくまで家来として筋を通すという。

「あぁ、それがよかろう」

 宗円は再び頷いた。
 御着にゆけばその場で官兵衛は殺されてしまう可能性さえある。それを解った上で頷くあ たりが宗円の凄まじさであり、武家の当主として戦国乱世を生きた者の覚悟であったろう。
 つまり宗円は、とっさに、

(官兵衛が殺されたとしても仕方がない)

 と肚(はら)を据えた。
 当主の殺害という事実は、黒田氏が小寺氏から離れる十分な大義名分になる。
 官兵衛の跡継ぎとして子の松寿丸はまだ幼いが、官兵衛には弟が三人もいるし、一時的な措 置として宗円が現役復帰して幼君を後見するという手もある。いずれにしても、やっていけな いということはないであろう。

「あとのことは、すべて父上にお任せします」

 と言った官兵衛も、己の死をその視野の片隅に入れている。
 我が子が殺されれば、宗円としても情誼をもって小寺氏に味方するということはできなく なるであろう。黒田氏は小寺氏と敵対せざるを得ず、つまりは織田方に留まらざるを得なく なる。

 この父子は、主家に対する忠節を論じながら――裏切りなどという生臭い言葉をひとつも 使わぬまま――黒田氏の織田加担という大方針を確認し合ったと言っていい。


 『黒田家譜』によれば、官兵衛は二度まで御着へ赴き、小寺政職を説得している。

「これは、我が子・松寿を人質に出しておるから申すのではござらぬ。もし御当家のため に不為(ふため)とあれば、我が子なぞ牛裂きにされても、この官兵衛、悔いは致しませ ぬ。しかし、末はどうあれ、信長公は必ず天下の主になりまする。毛利などは頼むに足り ませぬ。御当家は播磨でもっとも早くから織田方を標榜し、信長公の覚えもめでたいので すから、この縁をお大事になさるべきです。まして、織田との盟を破りましては、背徳・不 信の汚名は免れませぬ。御当家は天下に信を失い、後世までの物笑いとなりましょう」

 説かれる政職は、むしろ迷惑であったろう。
 小寺氏が毛利方につくことは、すでに内々ながら決まっている。荒木村重にも毛利氏にも 本願寺にも将軍・足利義昭にもそのことを確約してあり、もはや引き返せないのである。

(官兵衛め、余計なことばかりしくさって・・・・)

 という憎しみが、政職とその側近に渦巻いている。
 そもそも官兵衛が親毛利の気分が強かった小寺家を引きずり、織田に投じたところから間 違いが始まったのだと彼らは思っていたであろう。

(別所に続いて荒木までが毛利についておるに、今さら何が織田か・・・・)

 織田方に残留することは、そのまま滅びることではないか。
 毛利方についた小寺氏の元には、荒木村重を通じて毛利氏の大反抗が近いという情報が入っ ていたであろう。
 摂津の本願寺と荒木村重、播磨の別所氏、丹波の波多野氏というこの四勢力が巨大な壁とな って織田の中国侵攻を防ぎ、織田方を奔命に疲れさせ、機を見て後方から毛利氏が大軍団を軍 船で摂津に送り込み、四勢力や紀州・雑賀党などの兵力を糾合して、織田と一大決戦をする――
 いかにも雄大な戦略だが、実際にはまったく机上の空論である。しかし、少なくとも本願寺 や荒木村重は、この毛利氏の戦略構想を信じていたフシがある。荒木村重までが信じたという なら、小寺氏あたりがこれを信じてしまったとしても無理はない。

(いま毛利についておかねば、小寺は毛利方の勢力の中に孤立し、擂り潰される)

 という恐怖が政職やその側近にはあり、いわばその恐怖が彼らの判断の基礎になっている。 恐怖というのは感情であるに過ぎず、感情で物事を決断するとろくなことにはならないものだ が、多くの場合、感情は理性の働きを凌駕するものらしい。

 二度目に官兵衛が御着に登城した時、政職の肚はすでに決まっていた。

(官兵衛を殺す)

 ということである。
 理由はしごく簡単で、官兵衛は毛利方につくという小寺家の方針に絶対に従わないだろう。 これを生かしておけば今後も事あるごとに織田加担を説きに来るに違いなく、鬱陶しいこと この上ない。小寺氏が毛利加担を決めた以上、織田方の羽柴秀吉に深く密着している官兵衛 は敵であり、これを殺すことは小寺家中に毛利加担を徹底することにもなる。
 ただ、御着で官兵衛を殺してしまえば――つまり政職自らが手を下して官兵衛を殺したと いうことが世間に知れれば――姫路の宗円入道が黙っていまい。宗円は官兵衛に劣らぬ戦上 手であり、そのことは政職もその重臣たちもよく心得ている。

「どうすればよいか」

 ということを、政職は重臣たちに諮った。

 政職を補佐すべき小寺家の重臣たちというのは、ほとんどが政職の血縁・親族たちだが、 これがまた揃いもそろって無能な人々で、たとえば戦場で名が挙がるような者は一人もおら ず、小寺家の勢力拡大にはこれまでほとんど役に立っていない。しかし、そういう者に限 って家中の小政治には心血を注ぐもので、他人を陥れることは得手であったりするから始 末が悪い。
 実際、彼らは官兵衛が考えもしないようなあざとい謀略を思いついた。

 官兵衛を荒木村重の元に行かせて、有岡城で殺してもらおうというのである。
 毛利方の村重が、のこのこやって来た織田方の人間を殺すことは、あり得ない話ではない であろう。官兵衛が有岡城で死んだとなれば、これはいわば事故である。小寺氏が官兵衛を 殺したことにはならない。

 政職はこの「名案」を喜んで採用し、登城した官兵衛を罠に嵌めた。

「わしが心ならずも織田方を離れ、毛利に味方すると決めたのは、すべて摂津守への義理 からで、他意はなかったのだ」

 と政職は言う。
 荒木村重への義理というのは、小寺氏が最初に織田に誼(よし)みを通じた時、その申し 次として仲介の労を取ってくれたのが摂津の村重で、以来、藤吉朗が播磨に入るまでの期間、 信長からの書状なども村重を通じて届けられていたし、たとえば天正四年に小寺氏が毛利氏 の水軍に攻められた時――これは官兵衛の活躍で撃退したのだが――急を聞いて援軍に駆け つけてくれたのも村重であった。そういう意味では、政職は、藤吉朗より村重に親しみを持 っていたかもしれない。

「よう考えたが、そなたの申すことはまったく道理に叶うておる。しかし、もうすでに摂津 守に同心すると決め、それをかの者に通じてしまっておるのだ。再び変心するというのでは、 わしとしても摂津守に対して心苦しい。それで困っておる・・・・」

 下座で畏まる官兵衛に向け、政職は懇願するように言った。

「官兵衛、摂津守の心を変えられぬか。かの者が心を改めて織田方に戻るというなら、わし もそれに従って織田方に戻れる。このこと、何とかならんか」

 官兵衛は、これほどの策士にも関わらず、人がいい。何とかしてくれと頼られると、つい つい世話を焼いてやりたくなるような性格なのである。

「・・・・解りました。難しいとは思いますが――何とかやってみましょう」

 と請け負った。
 官兵衛も、何やらキナ臭い匂いを感じてはいる。
 しかし、二十余年にわたって仕え、心身を捧げて尽くした主君の政職が、村重に自分を 殺させるというような悪辣な罠を構えているとは――政職がそこまでの「悪」を為す人間 であるとは――さしもの官兵衛も夢にも思わない。

(摂津守もまさか私を殺すようなことはしまい)

 と信じた。
 使者はたとえ親の仇でも殺さぬのが武士の作法であり、現に村重は信長からの使者を誰 一人殺してはいない。礼厚く遇し、ちゃんと無傷で帰している。官兵衛は村重とは何度も 面談した経験があり、その誠実そうな人柄を知っていたし、キリシタンという信仰を共に する仲間ということもあって、人並み以上の親しみを持っていたのである。

 いったん姫路に帰って宗円と黒田家の重臣たちに決意を伝えた官兵衛は、さらに平井山 に駆け戻って小一郎と半兵衛に経緯(いきさつ)をくわしく説明し、藤吉朗に対し ては手紙をしたためて状況を伝えた上で、わずか二人ばかりの従者を連れたのみで摂津に 入り、伊丹へと向かった。

 すでに月が替り、天正六年(1578)は十一月に入っている。
 藤吉朗はこの時、織田軍と共に京にいた。五万を越す軍勢を引き連れて自ら出陣した信 長は、京で軍を留め、藤吉朗、明智光秀、松井友閑を使者に立てて再び村重の説得に当た っていたのである。
 摂津一国を押さえる村重を滅ぼすとなれば、これは容易なことではない。信長も相当の 覚悟を必要としたに違いなく、できるならば交渉で穏便に事を収めたかったのであろう。

 しかし、藤吉朗らの説得も結局は不調に終わった。
 最初は謀反に迷いがあった村重も、事態が進んで来るにつれて覚悟を固めざるを得なく なったらしい。
 官兵衛はまさにこの時期に摂津に入り、藤吉朗にも逢って手紙の内容について直に報告 し、その許可を得た上で、村重がいる有岡城へと赴いた。

 この時、すでに村重の元には、小寺氏からの書状が届いている。

「官兵衛をそちらに行かせる。この者、どうしても毛利方に同心せざるゆえ、そちらで捕ら えて殺してもらいたい」

 という内容を読んだ村重は、さすがに顔を歪めた。

(味の悪いことを・・・・)

 と思ったに違いない。
 しかし、小寺氏からの依頼である以上、これを無下に断ることは村重にはできない。村重は 小寺氏を毛利方に引き入れた張本人であり、せっかく同心してくれた小寺氏の信頼を裏切るわ けにはいかないし、小寺氏を織田方に戻そうと奔走する官兵衛を庇うというのは、毛利方の村 重からすればおかしな話になる。
 が、村重にも武人としての誇りがあり、こういう謀殺の先棒を担ぐのは己の美意識に合わ ない。まして官兵衛は村重と同じキリシタンであり、格別の親しみもある。

(シメオン殿は殺せぬ・・・・)

 シメオンというのは官兵衛の洗礼名である。

(不憫だが、悪く思わんでくれ・・・・)

 村重は有岡城に単身やって来た官兵衛を捕らえさせ、城内の牢に幽閉した。

 毛利方の村重にすれば、これは官兵衛に対する精一杯の厚意であったろう。官兵衛を殺 す気にはなれないが、かといって小寺氏の依頼を無下にはできないから、官兵衛をそのま ま有岡城から出すわけにもいかないのである。生死不明という風にしてしまうしかなかっ たのだろう。

 穿った見方をすれば、この村重の措置のお陰で、官兵衛は死なずに済んだとも言えるか もしれない。もし村重が官兵衛をそのまま城から帰していたとすれば、官兵衛は小寺氏に よって改めて暗殺された可能性が極めて高い。まさに万死に一生の境をギリギリのところ ですり抜けたようなものであった。
 実際、官兵衛は後年、自分を殺さなかった村重に対して、恩人として深い感謝を示して いる。

 ただし、命ばかりは永らえたものの、官兵衛は陽も差さぬ狭く湿った土牢に一年近く幽閉 され、地獄のような苦しみを味わうことになる。
 有岡城が落ち、ようやく官兵衛が救い出されるのは、この翌年の天正七年十月である。
 そのとき官兵衛は、まさに半死半生という姿だったらしい。肉が落ちて見る影もなく痩せ さらばえ、ほぼ全身が皮膚病に侵され、頭髪はまばらに抜け落ち、片足の膝が曲がったまま 伸びなくなり、立つことさえできなかったという。

 ともあれ、そういう事情で官兵衛は有岡城に入ったきり消息不明となった。




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