歴史のかけら
9
西美濃を歩き回っていた藤吉朗は、「三人衆」の筆頭格である安藤 伊賀守 守就に調略の狙いを付けていた。
藤吉朗は、守就に使いを送って感触を確かめ、脈があると見るや自ら何度も足を運んで直接に面会し、斉
藤家に固執することがいかに無益であり、織田家に属することがどれほど利になるかということを懇々と説いた。し
かし、守就もさすがに大物であり、どれだけ説いてもなかなか首を縦に振ろうとはしなかった。 「西美濃三人衆」というのは斉藤家が興る前――土岐家の頃から美濃の太守に仕える由緒ある家柄で、斉藤家 では家老に列せられるほどの分限であり、安藤守就に到ってはその筆頭である。これほどの人物を寝返らせると なると相当の恩賞を用意するのが当然であるのだが、守就はその恩賞の多寡と織田家における待遇に拘っていた。 「『寄らば大樹の陰』という言葉があり、『良禽は棲む木を選ぶ』とも申す。わしも武士である以上、 父祖以来の家を守るためとあらば、織田家に属すること、なるほど考ぬでもない。しかし、上総介殿(信 長)がどれほどの誠意をお持ちであるのかが解らぬ上は、とても話にならぬ」
と、守就は言ったという。 藤吉朗から調略の経過報告を受けた信長は、守就のこの言い様に対して嫌悪感を持ったらしい。 (強欲者め・・・!)
と露骨に不快そうな顔をし、寝返りの恩賞についても一切明言しなかった。 (滅ぼさずにおいてやるだけでも有難いと思え!) というのが信長の本音であり、この上多額の恩賞を要求するなどは分をわきまえぬ所業ということに なる。 「本領安堵は認めてやる。人質を送れと言ってやれ」
と言ったのみで、信長は藤吉朗がどう取り成そうと聞く耳を持たなかった。 手詰まりになりつつあった藤吉朗に、あるとき半兵衛が、 「何かのついでで結構ですから、この手紙をことづかっていただけませぬか」
と手紙を託した。 藤吉朗が守就を訪ねてその手紙を手渡すと、守就はその場で披見し、無言のまま沈毅な顔で長考し、手紙を灯 明の火で燃やしてしまってから、 「稲葉、氏家とも相談したきことがござる。今しばらく時間を頂きたい」
と言って、その日は藤吉朗を引き取らせた。
「ようした! 猿、加増してやる!」 という表現で自分の喜びを表したという。信長はひどく吝嗇な性質で、手柄があった者に銭や物を与えること はあっても即座に領地を加増するということはめったになかったのだが、「『三人衆』の内応」に加え半兵衛ま でもを連れて来たのだから、この時ばかりはよほどに嬉しかったのだろう。 藤吉朗はすかさず信長の言葉尻を捕らえ、 「いやいや、これしきのことでご加増などはもったいのうござりまする」 とニコニコしながら言った。 「ご褒美は頂きませぬ。その代わりというわけではござりませぬが、たった1つ、猿めの無心を聞いてくださ れ! お願い申し上げまする!」
額を擦りつけるように土下座したから、藤吉朗が大手柄を挙げてきた直後であるだけに、信長も聞くだ
けは聞いてやらねばならなくなった。 「言え!」
とだけ言った。 「半兵衛殿を頂きとうござりまする!」 「なに?」 「半兵衛殿を、猿めの寄騎に加えることをお許しくだされませ。いやいや、寄騎というのがご無理ならば、猿め の目付け(軍監)でもよろしゅうござる。なにとぞ半兵衛殿の知略と武略を、猿めにお貸しくだされま せ!」 配下である「寄騎」でも、監視者である「軍監」でも良いから、半兵衛を自分の傍に置いてくれ、と藤吉朗は 言っているのである。 「・・・・・・・・・・・・・・」 信長はしばらく考えている風だったが、やがて藤吉朗の後ろで平伏している半兵衛へ顎を向け、 「半兵衛か」 と甲高い声で言った。 「お初にお目に掛かり、恐悦至極に存じまする。竹中 半兵衛 重治でござります」 半兵衛は一度だけ顔をわずかに上げ、折り目正しく再び平伏した。 「若いな。それに顔色が悪い」 信長は独り言のように感想を口にし、 「墨俣におったというのは聞いている。これは猿の知恵か? お前の知恵か?」 と、質問を投げかけた。 「木下殿の下に付くこと。これは、怖れながら、それがしがあらかじめ木下殿にお願い申し上げていたことでござ ります。しかしながら、今日のことはすべて木下殿の才覚でござりまする」
それを聞いて、信長は藤吉朗を睨み据えた。 「この・・・横着者めっ!」 ひっ、と首を縮め、藤吉朗は一回り小さくなったように小肩を震わせて平伏したまま、顔の前で両手を合わせ、 信長を拝み倒した。 「願い上げ奉りまする! どうか半兵衛殿を、猿めにくだされませ!」
藤吉朗が真剣に訴えれば訴えるほど、その姿には頭でも小突き回してやりたくなるような滑稽さが滲む。見る
者を思わず微笑させてしまうこの愛嬌こそが、藤吉朗が持って生まれた最大の美質であり、財産であり、武器と
言うべきであろう。さしもの信長も、つい苦笑してしまわざるを得ない。 「猿、加増はなしぞ!」
信長は怖い顔で言い、すべてを藤吉朗の意のままに許しやることにした。 小一郎が聞いた話では、藤吉朗はこうして半兵衛を手に入れた。
「皆、心せよ! 勝負は二度あらじ!」
と叫んで抜き手も見せぬような早業で美濃へ侵攻した。
この美濃侵攻が、永禄10年の8月初旬である。
稲葉山から峰続きの瑞竜寺山に駆け登り、ここに本陣を据えた信長は、旺盛な戦力をもって正面から総攻撃を
掛けた。さすがに天下の堅城と謳われた稲葉山城であり、その猛攻を楽々と跳ね返していたが、わずか10日ば
かりの抗戦で斉藤竜興は事態を諦め、命の無事を条件にして開城した。東美濃、西美濃ともに織田家に降ってし
まっている以上、どこからも援軍は来ないのである。城に篭ってどれほど粘ったところで、先はない。 こうして信長は、長年の念願だった美濃をついに手中に収めたのである。
藤吉朗は、墨俣砦の全軍を率い、織田勢の先頭に立って稲葉山城に攻め寄せた。
ちなみに『絵本太閤記』などによれば、このとき藤吉朗は、蜂須賀小六ら7人の決死隊と共に城
の搦め手の断崖を這い上がり、城の外廓に潜入。城内に放火した上、大手門の閂を内側から外し、小一郎に率い
られた木下隊を城内に引き入れ、落城のきっかけを作る大活躍をした、ということになっている。 しかし、藤吉朗がこの美濃攻略に重要過ぎる役割を演じたことは間違いがなく、信長は、 「われは美濃攻めの功名第一ぞ!」
と言って藤吉朗の働きを諸将の前で激賞した。 木下藤吉朗の名が、歴史におおっぴらに登場し始めるのは、まさにこのときからである。
|
この作品は、 「ネット小説ランキング」さんに登録させて頂いております。
投票していただけると励みになります。(月1回)