歴史のかけら
10
明治期に改修工事がなされたため、この三本の一級河川は現在でこそ完全に分流しているが、戦国当時は下流で
すべてが合流し、一つの川として乱流していたらしい。川が運ぶ膨大な水と土砂が広大な堆積平野を作り出し、濃
尾地方の豊穣な穀倉地帯を育んだのであろう。
河川が、国と国、地域と地域の境になることが多く、結果として誰からも支配されない緩衝地帯になっていた、ということは先にも触れた。
本願寺というのは戦国期に爆発的に普及した一向宗を宗旨とする宗教団体で、後に信長の最大の敵となって10年
に渡る徹底抗戦をするに到るのだが、この頃はまだ織田家と表立って対立をしていたわけではない。 この長島の存在は、信長にとって邪魔以外の何物でもなかった。
信長は、桶狭間で今川義元を破り、三河の徳川家康と同盟して以来、その矛先を北と西――美濃と伊勢へと向け
ていた。
この永禄10年(1567)、信長は稲葉山城を攻略し、ついに美濃を手に入れた。美濃を南下すれば伊勢は陸続き
であり、もはや織田勢の伊勢侵攻を遮るものはない。
養老山地を右手に見ながら、揖斐川に沿って延々と伸びる古街道を、1万近い人馬の群れが往く。 (どんだけ信長さまが働き者でも、ほどっちゅうもんがあるわ・・・) 小一郎は、声に出さずに毒づいた。
信長の凄まじさは、稲葉山城を陥落させたその翌日、そのまま北伊勢へと攻め込むよう諸将に命
じたことであったろう。美濃という大国を手に入れた以上、普通に考えれば数ヶ月はその内治に忙殺されそうな
ものだが、信長という稀代の仕事好きには、そんな常識はまったく通用しないらしい。 「上総介さま(信長)は、噂に違わぬ働き者ですね」
馬格の小さい馬を静かにうたせながら、傍らにいる半兵衛が笑って言った。 「辛いところです。昨日の今日で兵は疲れきっておりますし、死んだり怪我をしたりした者たちの交代も済んでは おりませぬ。何より兵糧、矢弾をまた掻き集めねばなりませぬし・・・」 稲葉山攻めがわずか半月で済んだとはいえ、最前線でもっとも苛烈に働いた木下隊の損耗は想像以上に激しか った。軍勢が十全の戦力を発揮するためには兵糧と矢、鉄砲の弾薬や火縄などの補給が不可欠だが、木下隊の場 合、これらの宰領はすべて小一郎の役目になっている。 「・・・まったく・・・頭の痛いことじゃ・・・」
本来なら、こういう愚痴は大将である藤吉朗にこそぶつけるべきであろう。しかし、あの兄は呼ばれもせぬ
のに何かというと信長の周りに詰めているから、移動中の隊の指揮などは小一郎や蜂須賀小六に任せっきりなので
ある。 「せめて2、3ヶ月、間を置いてくれても良さそうなものではありませぬか・・・」 「伊勢にいる者たちも、当然そう思っておりましょう。だからこそ、とうぶん織田は攻めて来ぬと油断してい る。上総介さまは、その虚を衝くおつもりなのですよ」 「それはその通りでしょうが、兵糧がなければ戦はできませぬし、矢と弾薬がなければ戦になりませぬよ・・・」 小一郎は、ため息混じりに呟いた。 「肝心の美濃さえ、まだ完全に静まったとは言えませぬのに、ここで他国に大軍を出して長く国を空けるよ うなことをするのは、危険なのではありませぬか?」 それくらいのことは、小一郎でも考え付く。 美濃の国主であった斉藤竜興が伊勢の長島へと退去すると、もともと竜興に信服してなかった美濃国内の地侍や豪 族たちはことごとく織田家に降り、人質を差し出して信長に忠誠を誓った。信長は快くそれを許し、国中の豪族たち の領土を安堵してやったから、今のところ大きな混乱もなく美濃は静まっているように見える。しかし、織田家と斉 藤家は実に20年にわたって戦争を繰り返してきたという歴史があり、その戦争によって親兄弟や親類を殺されたとい う者は両国に無数にいるのである。無論、戦は私怨で行うものではないし、大いなるものには従うのが武家の宿命で あるとはいえ、心から信長に信服していない者はあるだろうし、織田家に従うことに抵抗を感じる者も少なくないであろ う。織田勢の主力が国を空けている隙を衝いて、信長に反抗を企てるような者がないとは言い切れないのである。 しかし―― 「あぁ、その点は大丈夫でしょう」 と、半兵衛は軽く答えた。 「この伊勢攻めはせいぜい4、5日で終わります。たとえ織田家に従うことを面白く思わない者があったとしても、 これだけ話が急では何もできないと思いますよ。それに、此度の我らは役目が後詰め(予備隊)でありましょうから、 兵糧、矢弾は、墨俣砦に蓄えてあったものの残りで十分に賄えるはずです」 まるで預言者のようである。 「な・・・なにゆえそのように思われるのですか?」 小一郎が聞くと、 「上総介さまが、非常な知恵者であられるからですよ」 と言って半兵衛は笑った。 「気短かなお方と聞いておりましたが、上総介さまの戦のやり様は、なかなかどうして気が長く、『時機を待 つ』という事もちゃんと知っておられる。美濃攻めの様子などを見ておりますと、それがよく解ります。周到に 手はずを整え、東美濃にせよ稲葉山にせよ木下殿が下ごしらえを終えたと見るや一転して火の如くに侵略する。緩 急自在と言いますか、実に理に適っています」 これは、まさに半兵衛の専売特許であろう。軍略家としての信長を、半兵衛なりに研究し抜いているらしい。 「それを踏まえて此度の戦を考えてみますると、伊勢での下ごしらえはまだ到底済んだとは言えませぬから、上総介さ まにしてもまさかこの時点で一気に伊勢全土を我が物にできるとまでは思っておりますまい。つまり、此度の戦の目 当てというのは、伊勢の征服ではないのです」 「・・・・・・・・・・・」 馬の手綱を操っているだけに腕組みすることこそできないのだが、小一郎は話の意外な成り行きに考え込ま されていた。 「私の見るところ、此度の戦の目当ては2つあります。まず、伊勢に一撃を加え、織田家の武威を見せ付けて伊勢の 諸豪を驚かせ、こちらに靡かせる、というあたりがその1つ・・・」 「・・・織田家の脅威を肌で感じれば、こちらが黙っていても擦り寄って来る者も出てくるし、調略で寝返るような 者も増える、と・・・?」 「ご明察です。そして狙いのもう1つは、新しく織田家に属した美濃の者たちを、尾張衆と共に新たな目標に向か って働かせること。つまり、伊勢という敵を作り、尾張衆と美濃衆の心を戦の中で1つに纏めるてゆくこと」 「ははぁ・・・」 この点は、小一郎がまったく考えも及ばぬ解釈であった。 「臣民の不満を逸らせ、国内を纏めるのに一番有効な方策は、他国と戦を始めることだと唐土(もろこ し)の書物にあります。 上総介さまがそういうことをご存知かどうかは知りませんが、解っておいでではあるようですね」 半兵衛は思慮深げに笑った。 「どちらにせよ美濃の仕置きは早急にせねばなりませんから、長帯陣はできません。北勢の数郡を押 さえれば、この戦の戦果とすれば十分。そして、目当てをそこに置くならば、長々と時間を掛けて敵 に戦支度の暇を与えるよりも、思いも掛けぬような奇襲で一気に事をし遂げてしまう方が・・・」 合理的、かつ経済的だ、という意味のことを、半兵衛は言った。 「だからこそ、今、この時期に伊勢を攻めるのだと、私は思います」 藤吉朗以外に、信長の行動をこれほど論理的に分析できた人間を、小一郎は知らない。 (しかし、画餅と実物とはまた別じゃ。兄者は半兵衛殿を怖ろしいほどの知恵者じゃと評したが、果たしてそ の読みの通りに事が進むかどうか・・・) こりゃ見物じゃ、と、小一郎は思った。
滝川一益は、もともと近江国(滋賀県)甲賀の生まれで、若い頃に国を捨てて諸国を放浪し、たまたま尾張で信
長に拾われて織田家の臣になったという変り種であった。才気があり、特にその軍事的才能と外交手腕を愛されて
信長に引き立てられ、今では押しも押されぬ織田家の重臣になっている。信長が青年の頃からこれに近侍してい
たというから一益の経歴は古く、その能力に対する信長の信頼も厚い。
織田勢の先頭にたって北伊勢へ雪崩れ込んだ滝川一益は、多度、員弁、桑名などの地域に散らばる豪族たちを
あらかじめ施してあった調略によって寝返らせ、恭順しない者の城は卵でも潰すような勢いで次々と陥落させた。 半兵衛の予言の通り、この電撃作戦はほんの数日で終わった。信長は伊勢に橋頭堡を築いたことで満足し、それ 以上深く侵攻することなく兵を引き上げたのである。後詰めに回された木下隊はほとんど働く場所さえなく、新 たな怪我人を出すことも武器弾薬を浪費することもなかった。この点でも、半兵衛の予言は的中したと言うべきで あろう。 (なんとも・・・呆れるほどの鮮やかさじゃな・・・) 揖斐川に沿って帰路を辿りながら、小一郎は半兵衛の先見の明に舌を巻く思いであった。 (知恵才覚では誰にも引けを取らぬと自負する兄者ほどの男が、焦がれるように半兵衛殿を欲しておったわけが、 今ならば解る・・・)
氏も素性もない藤吉朗の最大の悩みは、成り上がりの典型のようなその経歴のために、質の良い家来を召抱える
ことが非常に難しいということであった。 しかし、今、藤吉朗は、半兵衛という自分にも匹敵する知性を得た。信長という難物に仕えていかねばならない 藤吉朗にとって、これほど頼りになる参謀というのは他には見当たらないに違いない。 (まして半兵衛殿は、人柄が誠実な上に淡白で、欲心が浅く、腹黒いところもない・・・・) そういう人物が相手なら、どんなきわどい相談ごとであっても疑心暗鬼になることなく安心して打ち明ける ことができる。大将を補佐する人材として、これ以上の資質はないであろう。 (半兵衛殿は、兄者の大きな力になる。わしなどとは比較にならぬほどに・・・) ほんの少しだけ寂しいが、小一郎はそれを認めざるを得なかった。
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