歴史のかけら
89年末は三河まで鷹狩に出かけ、天正六年の正月は安土でのんびりと茶会なぞをして過ごし、一月 中旬には尾張や三河で再び鷹狩に興じている。二月の下旬には近江中から三百人の相撲取りを召し 出して安土城で相撲大会を催し、これを見物したりしているし、三月上旬には安土近辺で三日に わたって鷹狩を楽しんでいる。この間、執拗なほど勤勉なはずのこの男が――藤吉朗を播磨に送り 込んだことを除けば―― 一切の軍事活動を行っていない。あるいは外交や記録に残りづらい内政 に専念していたのかもしれないが、少なくとも表面上、信長はほとんど半年にわたって沈黙を守っ ていた。 ところが、 上杉謙信死す―― その確報を掴んでからの信長は、眠りから覚めたかのように猛烈に動き始めた。
まず三月二十三日、信長は自ら上洛し、諸国に大動員を掛けた。岐阜の嫡男・信忠、伊勢の次
男・信雄、三男・信孝を筆頭に、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、佐久間信盛ら軍団長クラスまで
総動員し、近江、尾張、岐阜、伊勢はもとより、五畿内、若狭などの大小名にことごとく出陣を命
じた。その規模は、八万を優に超えていたであろう。主立つ武将でこの動員から漏れたのは、柴田
勝家の北陸方面軍と、藤吉朗・荒木村重の播磨進駐軍の諸将のみである。
織田信忠を総大将に戴いた織田軍は、摂津に侵攻し、本願寺の石山御坊に攻め寄せた。 そうして本願寺を攻めながら、信長は外交でも次々と手を打っている。
上杉家の分国となったばかりの越中や能登の豪族たちは、上杉謙信の死に激しく動揺したらし
い。“軍神”謙信あればこその上杉家である。その巨大なカリスマが死んだとなれば、当然、織田
方の猛烈な巻き返しが始まるであろうことは容易に想像がつく。越中も能登も織田領の加賀に隣接し
ているから、この際、織田に誼みを通じておきたいという者が少なくなかったのである。 一方、信長自身は自ら播磨へ馬を出し、毛利氏と決戦するつもりであったらしい。そのことを三 月二十七日づけの書状で藤吉朗に伝えている。
信長は、摂津 石山の包囲と監視を再び佐久間信盛に任せると、暴れさせた織田軍をわずか三
日で京に呼び戻し、今度は明智光秀、丹羽長秀、滝川一益らに軍勢をつけ、丹波に出陣させた。
この間、播磨の藤吉朗も無論じっとしてはいない。
「それは危のうござる」 小寺官兵衛が渋い顔で何度も諌めた。 「面倒でもまずは周囲の枝城から落とし、三木城を裸にするが肝要かと・・・・」
敵の本拠である三木城を一気に衝くというのは、戦略的に見てかなりの無理がある。三木城は
難攻不落を謳われる堅城であり、これに七千とも八千ともいう敵が篭っている以上、力攻めで短時
間で抜くことはまず不可能であった。三木城の周囲には別所氏傘下の小豪族の城が無数にあり、そ
れらを放置したまま三木城を囲めば、城を囲む羽柴軍の背後を敵に襲われる公算が大きい。城に篭
る別所本軍が出戦してきて挟み討ちに逢えば、いかに羽柴軍が数で勝るとは言っても苦戦は免れな
いであろう。 播磨の豪族たちは、備前までやって来ている毛利軍・七万の武威と、上洛を噂された上杉謙信の 武名とによって織田家の将来に対して不安を抱いていた。しかし、謙信の死によって織田を取り巻 く政治状況は劇的に変化しており、信長は自ら兵を率いて播磨に出陣することを公式に表明してい る。 十三万の兵を引き連れて信長が播磨入りする――
藤吉朗は軍議の席でもそのように吹聴し、諜者を使って上杉謙信の死の報と共に播磨中にこの噂
をばら撒かせた。 三月二十九日に書写山を出陣した羽柴軍は、翌三十日に三木に到った。
三木城は、三木の野にこんもりと盛り上がった釜山に築かれた平山城である。 (難攻不落と聞いておったが――大した要害でもないではないか・・・・)
初めてその城を遠望した藤吉朗は、そう楽観した。 別所重棟や小寺官兵衛などに詳しく聞いてみたところ、三木城は釜山全域を要塞化しているため に城域はなかなかに広く、本丸、二の丸、三の丸、東の丸、西の丸、中嶋丸、平山丸などの曲輪が 切られているらしい。しかし、城内へと通ずる道は大手、搦め手を含めてわずか数箇所しかないそ うで、それらはいずれも小道のように細いという。ここに数千もの兵が篭っているとすれば、力攻 めで落とすのは容易なことではないであろう。頭上から攻撃を受けながらあの急斜面を登攀するに はよほどの被害を覚悟せねばならず、無理に攻めれば味方にどれほどの死傷者が出るか知れたもの ではない。 三木城に迫った羽柴軍は城下の集落を焼き払い、一度は大手口がある北側から城に寄せてみた が、応戦に出た別所軍の矢弾が激しいために美嚢川さえ越えられず、まったく攻め倦んだ。 (こりゃ無理じゃな・・・・)
藤吉朗は日暮れと共に兵を引き、城から少し離れた鳥町というところに本陣を据え、軍勢は四方
に配って城を遠巻きに包囲する態勢を敷いた。 (力ない者は、いざとなれば長いものに巻かれようとするもんじゃ)
と、藤吉朗は高をくくっていた。 が、これはまったく藤吉朗の読み違えだった。
この時、東播磨の小豪族の多くがすでに城を捨て、一族郎党を引き連れて三木城に入ってしま
っていた。自分の居城で篭城していたのは、独自の防戦能力がある有力豪族だけだったのである。
四月五日、野口城の長井長重、志方城の櫛橋伊定(これさだ)、神吉城の神吉頼定、高砂城の
梶原景行ら有力豪族たちが連携して千余の兵を集め、三木城を囲む羽柴軍の背後から夜襲を掛け
たのである。
大村坂の羽柴軍の軍兵たちは――おそらく二、三千の規模であったろう――前後も忘れて寝入っ
ていたらしい。藤吉朗ほどの男が旗下の将兵に夜警の注意をしなかったとは思えないが、『播州太
平記』では、軍兵たちは昼間の城攻めの小競り合いで疲れ切り、夜の酒宴で酔い伏していたことに
なっている。 急を聞いた藤吉朗は本軍を率いてすぐさま出陣したが、駆けつけた時には大村坂には陣屋の無残 な跡があるのみで、すでに敵兵は影も残っていなかった。 (なんなんじゃこの醜態は・・・・!) 己の見通しの甘さと兵たちの気の緩みに対し、後悔と怒りとで腸が煮えるようであったに違いな い。
三木城を囲い続ける危険を痛感した藤吉朗は、いったん三木から兵を引き、糟屋氏が三木城に入
ったために打ち捨てられた加古川城を接収してここに本陣を置いた。
この現実を受け、藤吉朗は小寺官兵衛らと協議し、戦略を変更することを決めた。
野口城は別所氏の重臣・長井長重の居城で、わずか五百ほどの人数が篭る小城だが、城の三方を
泥田や沼に囲まれているために攻め口が一筋しかなく、ひどく攻め難い。
半兵衛は、四月に入ると咳が収まり、血色もずいぶんと良くなった。 「病はもうすっかり癒えましたので――」 半兵衛は自ら隠居屋敷を出、姫路城に詰めて小一郎を補佐してくれるようになった。
小一郎と半兵衛は姫路から東方の羽柴軍の別所攻めを見守っていたわけだが、一方、西方・備前
に腰を据えていた毛利軍は、同じく四月上旬、ついに行動を開始した。播備国境を越えて上月の地
に続々と兵を集結させ始めたのである。吉川元春と小早川隆景が率いる軍団に宇喜多氏の援軍を加
えた五万ほどの大軍で、さらに毛利輝元が率いる本軍・二万が後詰めとして備中に控えているらし
い。 (尼子は絶対に捨て殺しにするわけにはいかん・・・・) 小一郎は思った。 尼子党はそもそも出雲人の集団で織田家の家臣ではない。毛利征伐を目指す織田家と「毛利打 倒・尼子家再興」を目指す尼子党の利害が一致したために彼らは信長を頼ったわけで、織田家の側 が尼子党を利用するだけ利用し、その危機を救わず、これを見捨てるようなことをすれば、今後織 田家を頼ろうとする者はいなくなり、いま味方になってくれている外様衆――官兵衛の小寺氏や播 磨守護・赤松氏、別所重棟など播磨の国衆たち――も織田家を白眼視し始めるであろう。
小一郎からの急報を受けた藤吉朗も、小一郎が危惧する程度のことには当然ながら気付いてい
る。 (すぐにも東から上様の援軍がやって来てくださるはずじゃ。たとえわしらがこの場を退い ても、別所はうかうか城を出戦できまい・・・・) 別所は確かに厄介な相手だが、織田にとって本当の敵はあくまで毛利である。毛利軍さえ播磨 から追い返せば、別所は播磨東部に孤立することになるわけで、やがては勝手に立ち枯れてゆく だろう。
藤吉朗は、五千ほどの兵を奪った小城にそれぞれ篭め、別所方の動きを掣肘すると、本軍を率
いて書写山に駆け戻った。大急ぎで軍勢を再編成し、残る全軍を率いて上月城救援に出陣したの
である。
羽柴軍が上月に到着し、高倉山に陣を敷いたのは四月下旬である。 高倉山の山頂の砦から敵陣の様子を遠望した小一郎は、 (なんじゃこれは・・・・) 半ば呆れるように思った。 上月城を守る尼子党は、千にも満たないのである。五万の毛利軍が本気で攻めれば、山中鹿之介 らがどれほど奮戦しようと羽柴軍到着の前に城は落とせていたであろう。しかし、毛利軍はそれを せず、兵の一部で上月城をああして締め上げながら、せっせと防御陣地を築いていたということに なる。 「猫どころか――虎が鼠をいたぶるような話ではないか・・・・」 小一郎は呻いた。 「上月城は、いわば我らをおびき寄せる餌――」 小一郎の傍らに立った半兵衛が言った。 「無理攻めをせず、ああしてただ囲んでおるのは、上月救援に出て来る我らを叩こうという軍略な のでしょう」
この上月周辺の地形は、平地が狭隘で大軍を進退させるに不利である。不用意に上月へと向かえ
ば、周囲の高地に布陣した毛利軍が一斉に山を駆け下り、四方から羽柴軍に攻め掛かるであろう。 「しかし、これで敵の意図がはっきり見えました」 半兵衛が事も無げに言った。 「毛利は、負けぬ戦をするつもりなのでしょう。播磨に深く踏み込んで来るほどの気概は、もはや ないのだと思います。上杉謙信殿が卒したからかもしれませんね」 もし毛利が、信長の播磨入りの前に羽柴軍を潰し、別所と合して播磨を併呑しようと考えていた とすれば、上月城は力攻めで一気に落とすか、あるいは抑えの兵を二千ほども残し、無視して播磨 平野に雪崩れ込んだに違いない。毛利軍は五万であり、羽柴軍を滅ぼすには十分過ぎる兵数がある。 羽柴軍とすれば野戦では勝ち目がないから、書写山に篭城して時間を稼ぎ、信長の援軍が来るまで 敵を支える、という展開になっていたはずだ。 「しかし、毛利はそれをせず、ああして陣城を堅固に構えている。我らが毛利を怖れる以上に、敵 は安土様を怖れておるということです」 半兵衛はそう言って微笑した。 「どういうことですか?」 「広い野で戦えば、戦は兵の数が大きくものを言いますからね。毛利とすれば、この山間で織田の 大軍を迎え撃ちたいのでしょう」
いかに毛利が大軍でも、兵の数を競えば織田にはかなわないのである。 「慎重な上にも慎重――おそらく小早川隆景殿の軍略でしょうね」 毛利軍は、山陰では吉川元春、山陽では小早川隆景がそれぞれ主導権を握るというのが慣例らし い――という意味のことを半兵衛は続けた。 毛利輝元の叔父である吉川元春と小早川隆景は、“毛利の両川”と謳われ、共に中国屈指の名将 として名が高いが、その個性は水と油ほども違う。武勇に優れる吉川元春は積極果断な軍略を好み、 知略に優れる小早川隆景は重厚で慎重な軍略を好むという。 「あのように守勢に徹せられては迂闊に手出しもできません。此度の戦は――どうやら気長な対陣 になりそうですね・・・・」 小一郎は苦しげに眉根を寄せた。 「上月城の兵糧は、せいぜいあと二月ほどしか保ちません。それまでにこの状況をなんとかせね ば――」 尼子勝久、山中鹿之介はじめ城内に篭る尼子の遺臣たちは、残らず餓死せねばならなくなるであ ろう。
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