歴史のかけら
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荒木村重の部隊に続き、まず大和の筒井順慶、敦賀の武藤舜秀(きよひで)などを派遣し、丹波
攻略に使っていた丹羽長秀、明智光秀、滝川一益の軍団を播磨に回し、さらに嫡男・信忠、
次男・信雄、三男・信孝に美濃、尾張、伊勢の軍勢を率いさせ、稲葉一鉄、氏家直通、安藤守
就(伊賀伊賀守)、蜂屋頼隆などを付けて送り込んだ。これに加えて摂津 石山の本願寺を包囲し
ていた佐久間信盛までを増派している。
丹羽、明智、滝川、筒井などの諸軍は上月の羽柴軍に合流し、その数は五万弱というところまで
増えた。数の上では、毛利軍に対抗できるだけの兵力が整ったことになる。
尼子党が篭る上月城から半里ほど東方にある高倉山が、織田方の本陣である。山頂の砦には「妙
法の旗」と藤吉朗の軍旗である“総金”の大旗、“金瓢”の大馬印が掲げられ、五葉の木瓜(も
っこう)紋の織田家の旗が数百本も風に靡いている。その周囲の高地には、“水色桔梗”、“金の
短冊”、“総白”、“諸手梅鉢”といった諸将の軍旗と“織田木瓜”の旗が山並みを埋めるように
立ち並んでいた。
戦況は、完全な膠着状態と言っていい。 「尼子の衆を見捨てるようなことは絶対にせん。必ず救い出す」
藤吉朗は銅鑼が鳴るような大声で日に何度もそう言った。小一郎が傍で見ていて気の毒なほど、
この兄は焦りに焦っていた。 双方が大軍をもって堅固にその陣地を守っているこのような場合、先に仕掛けた側が圧倒的に 不利になる。まして山襞が入り組んで地形が複雑なこの上月では、大軍を一気に動かすことがで きない。狭隘な平地を小部隊でぞろぞろと進むほかないが、そんなことをすれば四方の高地から毛 利軍が押し寄せて来て袋叩きにされるであろう。それこそが、この山岳地帯に陣を構えた毛利方の 軍略なのである。
明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、荒木村重といった百戦錬磨の将たちは、こんな不利な戦で怪我
をするのはまっぴらという気分であるらしく、積極攻勢に出るような戦意はまったくなさそうであ
った。 「あんな小城のために勝算も立たぬ大戦をするなぞ愚の骨頂じゃ」
と軍議の席で露骨に言い放ったりした。 (こんなつまらぬ手伝い戦で大切な子飼いの将兵を死なせられるか) と考えるのが当然の人情であったろう。
要するに、藤吉朗がどれほど上月救援を吼えても、誰もこれに賛同しようとはしないのである。 (どうにもならん・・・・) 豊臣秀吉の生涯において、この時期ほど狂おしく焦燥したことはなかったに違いない。 (やはり上様にご出馬頂き、直々に指揮をとってもらうほかない)
軍団長クラスの重臣たちの手綱が取れるのは、この地上に信長ただ一人なのである。 「この筑前は、人に敬われぬ者でござれば――」
とまでこの男は書いている。 この膠着した戦局を動かすには、それより手はないであろう。
武力による決戦が行えない以上、主眼はもっぱら調略である。
毛利氏にとって外様大名である清水宗治は、義理堅く清廉な人物として知られ、毛利の重鎮・小
早川隆景などからは毛利本家の重臣と変わらぬほどの厚い信頼を得ていた。もちろん、今回の
合戦にも兵を率いて加勢に来ている。とても寝返りが見込めるような相手ではないが、高松城の留
守を預かる清水氏の重臣のうち二人が、主君の宗治と不仲であるという情報を掴んだ。藤吉朗は小
寺官兵衛を使ってそれらを調略し、宗治不在の高松城で謀反を起こさせたのである。
この謀略は上手く運んだようにも思われたが、しかし、反乱自体はあっという間に鎮定されてし
まった。 また、備前の宇喜多直家にも調略の手を伸ばしている。 毛利軍の軍容を探ったところ、出陣して来ている宇喜多軍の中に、大将の宇喜多直家が居ないと いうことが解った。軍勢の指揮は重臣に任せ、自らは病気と称して備前の居城・岡山城に引き篭も っているらしい。 直家が戦場に出て来ていないのは、この戦で目立つほどの働きをして織田の恨みを買ったり信長 の心証を害したりしたくないからではないか―― 「これこそがかの男の迷いの表れであり、毛利と織田を両天秤に掛けておる証拠(あかし)と申す べきでござろう」 小寺官兵衛がそう指摘し、調略で宇喜多を味方に引き込むべきだと強く進言した。 宇喜多直家は稀代の権謀家であり、札付きの利己主義者であるという。いま彼が毛利家に属して いるのも別に忠義からではなく、保身と利害計算の成り行きからであるのは間違いない。その直家 が、今度の戦に限って毛利氏のために利害を超えて挺身するとは考えにくい。もし織田が勝ちそう なら、機を見て寝返る腹であると考える方がやはり自然であろう。 「宇喜多が織田方に寝返れば、毛利軍は背後を扼され、糧道も断たれる。とても播磨に留まっては おれなくなりましょう。結果として上月城を救うことにもなります」
官兵衛の言葉の通り、停滞し切っている戦局を大きく動かす契機になるのは間違いない。
藤吉朗は官兵衛の献策を入れ、官兵衛と半兵衛、蜂須賀小六にその仕事を命じた。
この調略は成功した。
しかし、宇喜多直家はさすがに利害計算には慎重で、すぐさま織田に寝返るというほど腰が軽く
はなかった。 いずれにしても、半兵衛たちは明石親景の内応は取り付けたものの、肝心の宇喜多直家を動かす ことはできなかった。
実はこの間、小一郎も調略で大きな成果を挙げている。
小一郎は、先に半兵衛が示してくれた策に従い、但馬守護・山名氏の一族で味方に引き込めそう
な者を物色していた。
これらの事情を知った小一郎は、この山名豊国に調略の目標を定めた。 織田に敵対した但馬・山名氏はいずれ滅ぼされることになろう。その時は、貴方が山名宗家を継 いで但馬と因幡の守護となり、織田家の後ろ盾をもって毛利と戦えばどうか――
小一郎がそう匂わせると、軽率なほどの腰の軽さで話に飛びついて来たのである。
しかし、これらの謀略・調略は、膠着した上月の戦局にはほとんど影響を与えなかった。 (信長さまさえ播磨に来てくだされば――)
羽柴家の幕僚たちは、渇いた者が水を欲するようにそのことを思った。
現状、藤吉朗は完全に打つ手を失っている。 その当の信長は――ほんの一月前には自ら出馬すると豪語していたにも関わらず――どれほど藤 吉朗がせっつこうともなぜか動こうとしなかった。
信長は五月上旬、実際に播磨出陣の陣触れをし、諸国の軍勢を京に集めてはいた。 信長の播磨入りを心待ちにしている藤吉朗とその幕僚たちにすれば、主君のこの煮え切らない態 度はたまったものではなかったであろう。 「手紙(ふみ)では埒が明かんわ・・・・」
高倉山から上月城を遠く眺めることしかできない藤吉朗は、苛立ちを隠せない。 使者は、播磨の情勢と織田軍の現状、藤吉朗の窮状といったものを熟知し、あの信長を相手に不 快感を与えずそれを説明でき、出馬を説得できるだけの優れた弁舌と機知の持ち主でなければなら ない。それほどの者となると藤吉朗の幕僚の中では半兵衛か官兵衛しかないが、織田家の臣ですら ない官兵衛では信長との縁が薄すぎるから、その御前で言うべきことを言い尽くすことは難しいで あろう。 「私が参りましょう」 半兵衛が自ら志願した。 「いや、しかし・・・・。長旅は身体にこたえよう」
藤吉朗は危ぶんだ。 「病はもう癒えております。お気持ちは有難いですが、ご配慮は無用に願います」 半兵衛はいつもの微笑を残してその日のうちに上月を発ち、京へと駆けた。
「半兵衛か、久しいな」 上座に現れた信長は、少し物憂げに口元だけで笑い、平伏する半兵衛に顔を上げるよう命じた。 「ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じまする」 「つまらぬ挨拶はいらん。話があるなら話せ」 「されば――」 半兵衛は――藤吉朗の仕事の成果を強調するために――まず成功した高松城の謀反の件を語り、 明石親景を内応させた件を語り、さらに因幡の山名豊国が味方についた件を語った。 「なかでも因幡がお味方についたことは、御当家にとってまことに瑞兆と申せましょう」
別所氏が敵に回って以来、播磨からはこれまでほとんど吉報が聞かれなかったから、これらの話
は信長をそれなりに喜ばせた。 「いま上様が御自ら播磨にお入りになれば、播磨は言うに及ばず、因幡、但馬までがたちどころ に上様のご威光に靡きましょう。備前の宇喜多直家も御当家に寝返るやもしれず、毛利を追い返す ことも容易かろうと存じます」 しかし、信長が動かねばそれは難しい――と、半兵衛は続ける。 「我が殿では御当家のお歴々の手綱を取れませず、毛利との戦はままなりませぬ。このまま悪戯に 日を過ごせば、孤軍奮闘しておる上月城は兵糧が尽き、惨めに落城とあいなりましょう。万一、尼 子の者どもを見捨てるようなことになれば、御当家は天下に信を失いまする。御当家に靡こうとし ておる者たちも、興を醒まさぬとも限りませぬ。我が殿は、上様の一刻も早いご出馬を祈るように して待ち望んでおりまする」 藤吉朗が何度も手紙で書いているのと同じ内容であり、そんなことは信長は百も承知している。 信長にとっては耳の痛い話であるだけに、それを聞いているのがだんだん不快になってきた。 「播磨には――いずれ馬を出そう」 何となく言葉を濁し、 「が、今しばらくは無理である。お前も見た通り、山城、南近江は水害が酷く、この後始末を せぬことには戦どころではない。上月のことは筑前に任せてある。良きようにせよと申し伝え よ」 ついに自らの出馬を明言しなかった。 「しかしながら――」 半兵衛はなおも食い下がろうとしたが、 「もうよい。大儀であった。下がって休め」 と命ぜられれば、それ以上どうしようもない。 (やんぬるかな・・・・!)
己に対する無力感に打ちひしがれざるを得なかったであろう。 「上様よりの下され物でありまする」
と言って、藤吉朗に黄金百枚、使者の半兵衛には銀子百両を当座の褒美として置いていった。
察するに信長は、毛利氏との主力決戦で勝つ自信がなかったのであろう。
実際問題、狭隘な山岳地帯の高地に陣城を構え、守勢に徹する毛利軍を打ち崩すのは、たとえ信
長が総大将であったとしても難しい。信長の脳裏には、防御陣地を構えて守勢に徹し、武田軍に壊
滅的打撃を与えた『長篠の合戦』の記憶が浮かんだであろう。無理に攻め寄せれば大怪我は確実で
あり、毛利軍があくまで守勢に徹するようなら、泥沼の消耗戦に引きずり込まれる公算が高いので
ある。
本音を言ってしまえば、信長は上月城など落ちてしまっても構わないし、尼子の残党がどうなろ
うが知ったことではなかったであろう。信長の頭の中は、徹頭徹尾、現実的な利害計算で出来上が
っているのである。わざわざ敵が有利な地点で決戦するなぞまっぴらであったろうし、織田軍の足
枷にしかならない上月城はむしろ早く落ちろと思っていたかもしれない。 が、これはさすがに口に出すわけにはいかなかったであろう。
信長は、安土の水害を視察すると言い残していったん京を去った。 つまるところ、やはり播磨には行きたくなかったらしい。
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