歴史のかけら
86その足で加古川城に入城した藤吉朗は、播磨の国衆を集めて毛利攻めの軍議を開いている。この 軍議が行われた正確な日時は解らないが、おそらく二十四日か二十五日であったろう。 この日に合わせ、小一郎が会場のセッティングと国衆の招集に手を砕いたことは言うまでもな い。 軍議の場となった加古川城は、この当時、“糟屋(加須屋)が屋形”と呼ばれていたらしい。
「屋形」とは、一般に守護大名が住する守護所のことを指す。領国の家来や領民が、守護
のことを「お屋形さま」などと尊称するのもこれが転じたものである。察するに、遠い鎌倉の時
代には、この加古川に播磨の行政府が置かれていたのだろう。
守護所の名残を引く加古川城は、加古川の川辺に作られた広くもない平城で、城地の東と西に加
古川の本・支流が流れて外堀の役を果たしていることを除けば、要害は一重の土塁と空堀があるの
みである。本丸の主殿と櫓門だけは二階建てだが、城というより居館というに近い。 ついでながら余談に触れておくと――
藤吉朗が初めて播磨入りした昨年の十月、糟屋朝正は、異父弟の志村数正を藤吉朗の小姓に加え
て欲しいと懇請している。小姓といえば体は良いが、要するに人質に出したわけである。「信長の
代官」たる藤吉朗との繋がりを深めておこうというのは小豪族にすれば当然の処世であったろう。
話を少しばかり先取りすると、糟屋朝正はこの翌月に起こる別所氏の反乱に同調して織田に叛き、
三木城の篭城に参加し、羽柴軍との合戦の最中に討ち死にしたと伝えられている。つまり糟屋氏は、
別所氏と運命を共にして滅ぶことになる。 この兄弟の人生の変転を思えば、運命というものの玄妙さに感じ入らざるを得ない。
軍議の当日、藤吉朗の触れに応じ、播磨中の豪族たちが続々と加古川城に集まって来た。
広間は板敷きである。床板は滑るほど黒々と磨きこまれていた。
小一郎は、上座の段を降りたすぐの右側の壁際で蜂須賀小六、浅野弥兵衛と並んで着座し、広間
に集う人々を眺めていた。 「毛利征伐がまさに始まろうという時に、ここで半兵衛殿に倒れられてはかなわんわ。養生専一で当 然じゃ。何なら京から腕のええ医者を呼べ」 と、小一郎の措置に賛成してくれた。 広間に詰め掛けた人間は、羽柴家の人間を除いても優に四十人を越えているであろう。 (播磨の豪族が一堂に揃うと、さすがに壮観じゃな・・・・) 見渡して、小一郎はあらためてそう思った。
良く見知ったところでは、小寺官兵衛の顔があり、別所重棟の顔がある。別所氏傘下の東播磨の
有力豪族としては、端谷城の衣笠範景、明石城の明石左近、魚住城の魚住頼治、野口城の長井長重、
神吉城の神吉頼定、志方城の櫛橋伊定(これさだ)、淡河城の淡河定範、高砂城の梶原景行など
の姿があり、英賀の三木氏、飾磨郡の宇野氏、神崎郡の堀氏、高橋氏、揖保郡の島津氏などとい
った播州西部・北部の地侍や豪族たちも軒並み顔を揃えていた。
人々は、左右の者と互いに雑談しながら会議の始まりを待っている。
約束の刻限を少し過ぎた頃、糟屋朝正に導かれて別所吉親が最後に広間に入って来た。 (結局、小三郎殿(別所長治)は来んのか・・・・)
大きな落胆と共に小一郎は思った。 (別所はあるいは毛利に寝返る気か・・・・) そう疑っても仕方ない状況であろう。
別所長治の不参は、播磨の豪族たちの心理にも大きな影響を与えた。 (マズいなぁ・・・・・) 主催者側の小一郎にすれば居たたまれない雰囲気であった。
やがて――出席者が全員揃ったことを小姓から知らされたのであろう――別室で控えていた藤吉
朗が広間に現れた。 そういう国衆たちの不満を知ってか知らずか、 「よくぞお集まりくだされた。いやいや、お楽になさってくだされよ」 席についた藤吉朗は満面の笑みであった。 「此度、安土なる上様がいよいよ毛利を成敗なさるお腹を固められ、この筑前を大将として播磨に 遣わされたことは、おのおのもすでに存じの通りでござる。右大臣家に無二の忠節を尽くされよう というおのおの方の衷心、この筑前、感じ入っており申す」
なぞと如才なく挨拶する。 (下郎あがりが、何を偉そうに・・・・) という不快感しかなかったであろう。 「されば、さっそくに軍議に移り申そう。まずは、どこから馬を進めるが良いか、おのおのの腹 蔵ないところをお聞かせ願いたい」 藤吉朗が問いかけたが、座は水を打ったように静まり返っている。 (これはいかん・・・・)
小一郎は思った。 「どなたか意見をお持ちの方はないかな」 しばらくは一座を見回して待っていた藤吉朗だが、沈黙に耐えられなくなったのか、 「山城殿――」 と、最前列に座る別所吉親に呼びかけた。 「この十年にわたる別所の無二の忠節、さらに此度はまた中国征伐に合力くださる事、上様もまこ とにご満悦でござった」 信長の名を出して機嫌を取ると、吉親は芝居気たっぷりに畏まり、 「仰せの如く、此度の中国征伐につき、我が主・長治、若年にしてまた身不肖でもありまするが、御 意の趣きに従いて右大臣家の御旗の元につき申したてまつる上は、何事もお下知の通りにあい勤 める所存でござりまする」 と殊勝な言葉を並べた。 「別所は弓矢の名誉の家ゆえ、良き思案もござろう。思うところを包まず申されよ」 藤吉朗が発言を促した。 「軍議に臨みて思うところを包んで申し上げぬは、妄士の業(わざ)でござるな・・・・。されば 仰せに従い、我が所存を憚(はばか)りなく申し上ぐべし――」 吉親はそう前置きし、たっぷり間を置いて語り始めた。
その内容を聞いて、小一郎はほとんど耳を疑った。吉親の口から湧き出したのは、赤松氏代々の
軍功の話だったのである。 小一郎は口を半ば開いたまま、呆れるような想いでその口上を聞いていた。 (この男は何を考えておるんじゃ・・・・?) 気でも触れたのかと思ったが、喋っている吉親の目は正常そのものである。 (百姓あがりのわしらに対する当てこすりか・・・・?) 氏も素性もない藤吉朗に、別所がいかに由緒ある家柄であるかを説き聞かせようというのなら確 かにこれ以上の厭味もないが、わざわざ総大将の不興を買うことに何の意味があるというのか―― それでも辛抱強く半刻ばかりも話の成り行きを聞いていた藤吉朗だったが、いつまで待っても話 が毛利攻めに絡んで来ないことにさすがに苛立ったと見え、 「山城殿、そのあたりでもうよい。なかなかためになるお話ではあったが――」 吉親の口上を大声と手振りとで遮り、ここで重大過ぎる失言をした。 「戦の指図は大将であるわしが行おう。おのおの方は先陣である。大いに槍を働かせ、先駆け の武功をお立てくだされ」 『播州太平記』の記述を借りれば、 「所詮軍之法は大将の役に有り。此方(こなた)より指図致すべし。おのおのはただ先陣の役を専 らに致さるべし」
と言ったことになっている。 たとえば同じ織田家の武将でも、織田家譜代の重臣である柴田勝家や土岐源氏の名流である明智 光秀などがこの言葉を吐いたのであれば、そこまで深刻な影響は与えなかったであろう。藤吉朗に その自覚はなかったが、他の誰でもなく、藤吉朗がこれを言ってしまったというところに問題の根 源があったのである。
「羽柴 筑前守 秀吉」という存在は、信長という天才が創り出したいわば「武士の奇形」であっ
た。生まれの卑賤にも門閥にもまったく囚われない信長であればこそ極端な能力主義に偏った人材
登用と抜擢人事を行うことが出来たわけで、そうでなければ百姓の子が一軍の大将になるなどとい
う話はお伽噺の中にすらそんな事例はなく、武士というものが日本に生まれて以来、こんな奇跡の
ような現象は今の織田家以外ではまったく起こり得なかった。 吉親は血の気の失せ切った顔に目ばかりギラギラと怒らせ、 「毛利は大敵でござる。一国一城の小競り合いとは違い、五度や十度の勝ち戦を重ねても勝ったこ とになりますまい。あの毛利を滅ぼすほどの勝ちを得ねばならんというに、戦評定もせずに敵国に 攻め入ろうとは――いやいや、恐れ入る」
皮肉をたっぷり込めてそう言った。 「筑前殿が喩え神の如き知恵をお持ちであろうとも、これほどの大戦でござる。我らのような智鈍 き田舎者の話もよくお聞きになった上で評定を重ねられ、さらなるご思案あってしかるべしと存ず るが・・・・」 「・・・・・・・・・」 地理地勢をもっとも良く知る地元の人間の意見を聞かず、軍議もせずに毛利と戦う気か、と突っ込 まれれば、さしもの藤吉朗にも返す言葉がない。
藤吉朗はよほど腹が立ったのであろう、不快げな表情のまま無言で席を立ち――驚くべきこと
だが――そのまま評定を打ち切ってしまった。 (どえりゃぁ事になってまった・・・・・)
小一郎は、ただ呆然とそれを見送るしかない。
この直後に起こる別所氏の離反は――豊臣秀吉の人生において最大の苦境を招いたとも言える大 事件だが――橘川真一氏の『別所一族の興亡―「播州太平記」と三木合戦―』によれば、羽柴側の 軍記である『播磨別所記』(『播州御征伐之事』)でも、別所側の軍記である『別所記』でも、こ の「加古川評定」が決定的な要因になったという書き方がなされているらしい。これは『播州太平 記』でも同様であり、『絵本太閤記』では評定の場所が加古川ではなく姫路になっているものの、 やはり軍議での決裂によって別所が離反したとしている。 筆者の知る限り、これと別の見解を採っているのは『武功夜話』のみである。 『武功夜話』では、藤吉朗が播磨に初めて入った昨年十月からすでに別所離反の兆候があり、「加 古川評定」には別所から誰も人が来なかったことになっている。別所氏は、評定に参加しないこと で毛利加担を天下に表明したとになり、藤吉朗にとっても小一郎を含めた羽柴家の幕僚たちにとっ ても、別所氏が毛利につくことは予測された既定路線であったとしている。 筆者はこの説を採らないが、そういう記述をした史料もあるということだけは付記しておく。
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