歴史のかけら
80明り取りの障子の外は黎明。寝所はまだ薄暗い。 夜具から身を起こすと、朝の空気は肌寒さを感じるほどに冷えていた。秋が、気付かないほど ゆったりとした歩調で、しかし確実に日ごと深まっているという当たり前の現象を、小一郎はあ らためて実感した。
小一郎が暮らす屋敷は、長浜城の二の丸にある。
矢場のことを、古語で「あずち」と言う。 小一郎は、このあずちで弓を引くことを朝の日課にしている。
弦を弾く音。矢が風を切る音。それがハッシと的に刺さる音。
百姓生まれの小一郎が、幼い頃から武芸に縁がなかったことは言うまでもない。しかし、藤吉朗
の家来になってから、槍の使い方や弓の引き方などは懸命に習い覚えた。さほど上達したとも思って
ないが、騎射(馬上で行う弓射)以外なら一通りのことはなんとかこなせるようになっている。
矢の回収と片付けを小姓に任せ、小一郎は冷えた手ぬぐいで全身をぬぐった。
母屋に戻った小一郎は、ようやく朝食を取る。 (兄者はどうせ昼まで起きてはくるまい・・・・) 溜まり部屋を覗いて歩きながら、小一郎は思った。
藤吉朗は、北陸から戻り、信長から謹慎を命ぜられて以来、酔いが抜けるヒマとてない。昼間か
ら酒宴に明け暮れ、夜は夜でやれ観月だの薪能(たきぎのう)だのと何やかやとイベントを作って
は酒を飲み、あるいは白拍子なぞを寝所に引き入れては自堕落な生活を続けているのである。 藤吉朗が城に篭って静まり返っていれば、想い鬱して謀叛の準備でもしているのではないかと、 かえって信長に邪推されぬとも限らないであろう。謹慎中にも関わらず大胆な乱痴気騒ぎを演じてい るのは、信長に対して反逆の心がないということを示すための擬態なのである。 そんなわけで、藤吉朗は連日深酒を繰り返しており、この三日ばかりは昼まで起きて来ない。 「殿は、まだ御寝(ぎょし)なされておるか?」 一応、宿直(とのい)の近侍に確認すると、 「先ほど書院で朝餉(あさがれい)を召し上がっておられました」
意外な返事が返ってきた。 (寝なんだのか・・・・?) とも思ったが、二人きりで密談するには良い機会である。
本丸天守の二階にある書院の前の広縁に小一郎が立った時、藤吉朗は部屋の奥で、脇息を抱え込
むような姿勢で開け放たれた右手の襖から朝日に輝く琵琶湖を呆然と眺めていた。 「殿――」 「ん? ――あぁ、小一郎か」
兄は大儀そうに脇息ごと向き直り、無言のまま顎で「入って座れ」と促した。 「二人だけで話がしたい。お前たちは下がっておれ」 近習たちを遠ざけて人払いをした。 「なんじゃ。藪から棒に」 「――――」 覗き込むようにして見詰めた兄の顔は、思いのほか疲れていた。いかに信長に謀叛の疑いを抱か せないようにするためとはいえ、さして強くもない酒を連日こうも痛飲していればしんどくもなる だろう。ただ、その目には濁りがない。睡眠不足のためか多少充血しているが、理性の光が確かに 灯っていた。 「だいぶ疲れておるようやなぁ」 「こう篭っておるのは気が滅入っていかんな。蟄居を命ぜられてまだ十日も経っとらんが、 戦場の空気が恋しゅうてならんわ」 「事情を知らん母ちゃんなぞは、北陸で兄者に狐狸が憑いたモンと本気で思うとるようやぞ」 母の なか は、狂ったように日ごと馬鹿騒ぎを繰り返すようになった藤吉朗の豹変ぶりに驚き、 真顔でそんな心配をし始めている。 「信心深い母ちゃんらしいて」 まばらに生えた無精ひげを撫でながら、藤吉朗は苦笑した。 「で、なんじゃ。なんぞ新たな遊びの趣向でも思いついたか?」 「まぁ、そういうことや」 小一郎は本題を切り出した。 「どうせ能狂言をやっておるなら、いっそ安土の猿楽師を呼んではどうじゃろな。安土の猿楽師 は信長さまのお抱えやで、それらにこの城の裡(なか)を見てもらえば、兄者が戦支度をしておら ぬということを、信長さまに知っていただけるとも思うんやが・・・・」 「・・・・ふむ。悪ないな。よう気付いた」 「これから安土に出向いて要路の方々に頭を下げてくるつもりやで、そのあたりの手配りも一緒に やってこようと思うとる」 藤吉朗はいわば未決の罪人だから、自分では動けない。陪臣の小一郎では信長に逢う資格すらな いわけで、信長の周囲に侍る人間たちの間に藤吉朗に対する同情論を喚起するくらいしか手の打ち ようがなかった。ともかく一人でも多く味方を作り、藤吉朗の気持ちを代弁してもらい、その立場 を擁護してもらうと共に、あらゆる伝手(つて)を使って信長に誠意を伝え、詫びを入れようとい うのである。 「近習の者たちは若いのが多いで、手土産は物ではなく銭にしとけ。惜しまんと、撒けるだけバラ 撒けよ」 小一郎は頷いた。 「それと、武井夕庵(せきあん)殿には特に懇(ねんご)ろにな」 と、わざわざ藤吉朗が念押ししたのは、武井夕庵が信長の側近筆頭だからである。
武井夕庵はもともと祐筆(書記官)あがりで、美濃 斉藤家三代に仕え、斉藤家が滅ぶとそのまま
織田家に仕えた。温雅にして誠実な人柄で、その頃すでに五十代の老齢だったが、その卓越した記
憶力と優れた調整力、実務力などを信長に認められて様々な仕事を任されるようになり、近習とし
て秘書的な役割を果たすことはもちろん、謀臣を持たない信長の知恵袋のようになって内政・外交
などの分野で非常に重用された。 「あのご老人には銭では生臭いで、姉川のヤマメなり小谷山の松茸なり、うちの領地で採った物を 土産にせい。信長さまにも召し上がっていただけるよう、それとのう念押ししておけよ」 「解った」 そういう藤吉朗の気遣いがふとしたところから話題になれば、信長も不愉快ではないであろう。 (相変わらず、抜かりない才覚をするもんや)
と、小一郎は舌を巻いた。 そこで兄はひとつため息をつき、眉尻を下げた情けない顔でしみじみと言った。 「・・・・お前(みゃぁ)には、なんやかやと余計な面倒を掛けてまっとるなぁ。わしのせいで、 下げんでも済む頭を下げて回らにゃならん」 藤吉朗はあらためて小一郎に頭を下げた。 「・・・・すまんが、堪忍したってくれよ」 「なにを言うとりゃぁすの」 わざと尾張訛りを丸出しにし、小一郎はことさら明るい表情をしてみせた。 「家来が殿様のために働くんは当たり前やて。そんだし、兄者の尻拭いをわしがすんのは、今に始 まったことでもにゃぁでよぉ」 それが、本来の自分の役割であるとさえ、小一郎は思っている。 「んなことは気にせんと、せいぜい陽気に遊んどってくれりゃええて。そんでも、義姉上の手前も あるで、女遊びだけはほどほどにしといてくれなイカンで」 冗談めかして言うと、兄は片眉をつり上げて苦く笑った。
このときに解ったのは、信長の元にはすでに柴田勝家からの報告の手紙が届いるということで
あった。 そんな中で、武井夕庵老人は少なからず藤吉朗に同情してくれ、 「四方に敵を抱え、諸事多難なこの時に、筑前殿ほどの仁を座敷牢に入れておくなどは、御当家 にとって損と、わしも思うておった。なに、上様もそこのところはよくお解かりであろうから、ご 勘気の解けるのも、いずれ遠いことではあるまいよ」 と、優しい言葉を掛けてくれた。
夕庵は七十歳近い枯れた小男で、すでに頭も丸めている。風邪気味でもあるのかしきりに咳払い
をしたが、足腰は達者なようで背も曲がっておらず、実に矍鑠(かくしゃく)としていた。その身
分は信長の側近筆頭であり、官位も法印という二位の正規の僧官職を持っている。無官にして陪臣
に過ぎぬ小一郎などに対してはその権柄を背景に頭高く出ても良さそうなものだが、この老人は好
々爺然として常に柔和な笑みを絶やさず、実に愛想良く応接してくれた。 「上様へのお取り成しを願うには、我らは武井さまのみが頼りでござりまする。なにぶんとも、よ しなにお願い申し上げまする」 小一郎は両手をつき、這い蹲るように土下座した。 「もちろん、折を見て申し上げるつもりではおるのだが・・・・。ただ、世情の噂では、筑前殿は 蟄居の身でありながら、長浜では連日酒宴に耽り、猿楽なども催しおると聞く。筑前殿の普段のご 気質を思えばわしなどにはにわかに信じられぬが、もしそれが事実であるなら、上様の手前、いか がであろうかなぁ・・・・」
老人はやんわりと藤吉朗の素行を批判した。 「いや、我が殿は、『上様はわしのここ数年の多忙をお哀れみになり、しばし骨休めをせよとい う有難いお心遣いから閉門を申し付けてくだされたのじゃ』――なぞと申しまして、この時を無駄 にせず、飲んで騒いで鬱を散じ、英気を養うておくこそ武士の心得であると・・・・」 「ほほ、筑前殿はそんなことを申されておるか」 老人は乾いた声で笑った。 「しかし、よくよく考えてみますれば、神のごとき知恵をお持ちの上様が、諸事多忙なこの時に 無駄なことをなさるはずがないとも思われますし、あるいは我が殿の申されることにも真実(まこ と)の一端はあるのやもしれぬと――」 「なるほどなるほど。確かに上様の深きお考えは、我らのような者には計り難きこともある。筑前 殿は知恵深きご仁ゆえ、その言葉にもなにやら寓意があるのやもしれんなぁ」 小一郎には返事のしようがない。 「まぁ、どちらにしても、筑前殿が陽気に過ごされておるのを聞いたのには安堵致した。短気を起 こさず、気鬱にならず、しばらく辛抱なさるよう、よくよく筑前殿にお伝えくだされ。松永弾正の 例もある。一時の気の迷いで、長年積み重ねてこられた武功を無駄にするようなことはあってはな らんでな」 謀叛なぞゆめ考えるなよ、と老人は釘を刺したようである。こういう言葉が漏れるということは、 信長の周囲でも、藤吉朗が謀叛を起こすかもしれぬという懸念を持っている者が皆無ではなかった のであろう。
信長は、藤吉朗がこれまで織田家のためにどれだけ尽くしてきたかをもっとも深く知る男である。
藤吉朗が無断撤退を起こした真情は、柴田勝家とソリが合わないということはあったにせよ、それ
より多分に自分と織田家の危機を本気で心配した末のことだと理解していたし、藤吉朗が自分に対
して反逆を企てるなぞとは考えもしなかった。 (不埒なヤツめ・・・・) と腹を立てはしたが、同時に安堵もしていたわけである。
信長にすれば、藤吉朗が自分の命令より己の判断を優先したというそのつけ上がり様が不愉快で
あり、無断撤退によって北陸方面軍の士気を大いに疎漏させたであろうことが腹立たしかったが、
中国征伐を間近に控えた多忙なこの時期に、藤吉朗ほど有能で忠良な男を殺すようなつもりは元か
らなかった。
信長が、いつ藤吉朗への勘気を解いたのか、この日時は正確には解らない。 この間、羽柴軍が去った北陸では、大きな動きがあった。
柴田勝家を総大将とする北陸方面軍は、九月中旬ごろにようやく小松城を攻略し、背後の安全を
確保すると、満を持して手取川を渡り、加賀北部に攻め込んだ。この日時ははっきりしないが、九
月二十日の前後であったと思われる。
柴田勝家は、上杉軍が目と鼻の先に布陣していることを川を越えてからようやく知り、ここで初
めて七尾城の陥落を悟ったわけで、このことは戦場諜報の不備と断ぜざるを得ない。
勝家は加賀の南端まで逃れて大聖寺城で敗勢を建て直し、さらなる上杉軍の襲来に備えたが、
上杉謙信は不思議なことに追撃で戦果を拡大しようとせず、手取川の線で進軍を留め、加賀北部の
一向一揆勢力の吸収と地侍の家臣化などの戦後処置を済ますと、あっさりと越後に帰ってしまった。
ともあれ、上杉謙信が去り、北方の脅威がなくなったと判断した信長は、松永久秀退治に本腰を
入れることを決め、九月末に北陸から増援軍を呼び戻し、この軍勢をそのまま大和(奈良県)に
移動させ、松永久秀が篭る信貴山城を攻め滅ぼすよう命じた。
北陸増援軍が近江に帰陣したのが、これと同じ十月三日である。
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