歴史のかけら


王佐の才

 竹中半兵衛が墨俣砦に腰を落ち着けてからも、藤吉朗は相変わらず忙しく歩き回っている。
 半兵衛が来てからの藤吉朗の動きというのは、それまでとほとんど変らない。砦には留守がちで、どこぞに出か けたと思えばふらりと戻って来、今度は信長がいる小牧へ帰ってみたりと、少しも腰が落ち着くことはなかっ た。
 その代わりというわけでもないのだろうが、藤吉朗は留守を守る小一郎に半兵衛を付け、その補佐と教育を頼 んだ。

「小一郎、われはゆくゆくわしの名代となって千里の使いもせねばならぬし、戦となれば一軍の将ともならねば ならん」

 と、藤吉朗は言った。

「幸い半兵衛殿は、わしらと違って由緒正しき武家の出じゃし、天下に二無き軍略家であられる。いろいろ と教えていただき、よう物に慣れよ」

 その日から、小一郎は半兵衛とよく時間を共にするようになった。
 半兵衛は、教え上手な男であった。小一郎に対してさえ少しも尊大ぶるところがなく、なにより人を教育すると いうようなことが好きでもあるらしい。藤吉朗が在城しているときは、半兵衛は浪人の姿に身をやつし、小一郎を 連れて山を歩き、川を渡りながら、物見の方法や敵状の見方、戦の陣立ての仕方などを解りやすく教えてくれた し、砦の留守を守っているときは、武士としての礼儀作法は言うに及ばず、字の読み方から軍令書の書き方、兵糧 荷駄の帳面の付け方まで手を取るようにして教えてくれた。

「小一郎殿は、木下殿を縁の下で支えてゆく重要なお立場ですから、読み書きができぬというのはやはり不便であ りましょう。書く方は祐筆(秘書官)に任せるとしても、読む方はぜひ努力して身に付けられるが良いと思いま す」

 元が百姓の小一郎はほとんど文盲という状態だったのだが、半兵衛にそう指摘され、読み書きの修練を始める ことにした。

 親しく接するようになって小一郎が驚かされたのは、半兵衛の知識の広さだった。
 半兵衛は好奇心が旺盛な性質で、ささいなことにも興味を持ち、しかもそれを納得するまで探求してゆかね ば気が済まないようなところがあるらしく、結果として雑学知識が非常に豊富であった。ことに半兵衛はこの 時代の武将には珍しい読書人で、本邦や中国の古典に造詣が深く、『孫子』、『六韜』、『三略』といった中国 の兵法書はその内容を暗唱するほどに精通していた。折りに触れてそれらの一節を小一郎に紹介し、具体例を踏 まえて解りやすく内容を説明してくれたりする。
 また、たとえばあるとき、

「これは、算盤というもので・・・」

 現在のそろばんの元になったものを小一郎に渡し、

「数を算用するに便利なものです。私は先日まで美濃を出て近江で暮らしていたのですが、そこで接した近江の 行商人たちはみなこの算盤を使いこなしておりましてな。無聊を慰めるのに使い方を習い覚えたのですよ。帳面 の付け方も彼らは独特で、なかなか工夫がなされている」

 と言って、簿記の原型になったものを小一郎に伝授してくれた。それまでの小一郎のやり方が、買った もの、消費したものを単純に記録してゆくだけだったことに比して、品物ごとに分類して帳面付けしてゆくこの 方法は非常に解りやすく使いやすいから、兵糧や備品の管理が飛躍的に楽になった。

(若いくせに、なんでもよう知っておられるご仁じゃなぁ・・・)

 感心するよりも呆れてしまうほどである。
 それでいて、半兵衛には自らの博識を鼻に掛けるようなところが微塵もない。

「ほんの余技ですから」

 自分にとっての関心は、武略――軍略や兵法――を極めることのみであり、それ以外の ことは片手間の暇潰しのようなもので、遊びに過ぎないというのである。そういう台詞が少しもキザに聞こえない あたり、どうやら本心からそう思っているらしい。

 半兵衛は、小一郎が何を聞いても嫌な顔ひとつせずに熱心に真摯に指導してくれる。
 いつしか小一郎は、半兵衛を信頼し切るようになっていた。


 そうこうしているうちに、平穏のまま、半年ほどが過ぎた。
 年が明けて永禄10年(1566)になり、雪が解けて野に緑がはじける様になっても、斉藤家による反攻はまったく 見られなかった。

(なんだか拍子抜けじゃな・・・)

 常に慎重で用心深い小一郎でさえそう思ってしまうほどだから、砦の守備兵たちの気分はよほど緩んでいるの だろう。砦をこっそり抜け出して近在の村に女を漁りに行ったり、深酒の末に喧嘩騒ぎを起こしたりするような 者がそろそろ出始めていた。

 織田家の大将である信長は、軍紀に峻烈すぎるほどの男である。何が嫌いといって部下の非行や怠慢 ほど信長が嫌うものはなく、織田家では、たとえば軍兵が1銭の銭を盗んだだけで首を刎ねられる。こ の時代、戦争時の略取略奪というのは兵たちにとっての暗黙の権利なのだが、信長は自分が特に許可し ない限りはそれさえ一切許していないのである。それほどの織田家だから、信長の苛烈さを知っている 織田正規兵というのは考え方が物堅く、規律に忠実な者が多い。
 しかし、この墨俣では少しばかり事情が違う。
 墨俣砦に在城する者は、野武士あがりの連中が実に多かった。彼らはもともと野稼ぎや落ち武者狩り、まれには 野盗を働くなどして暮らしを立てていたような連中だから、厳粛な風紀を保つことが非常に難しいのである。それ が、小一郎の頭痛の種にさえなっていた。
 幸い彼らの棟梁である蜂須賀小六が出来た人物だから、どうにか手綱を取ってくれており、これまで大事に は到っていない。しかし、軍紀と風紀が乱れ、兵の心に油断が生じてしまっている以上、砦の守備にとっては もっとも危険な時期に入っていると言わねばならないであろう。しかも、大将である藤吉朗は相変わらず留守がち なのである。

 そんなあるとき、

「半兵衛殿のことじゃが・・・」

 蜂須賀小六が小一郎の部屋にのっそりとやって来た。

「あの仁は、何か役に立っておるのか?」

 と、直球勝負で聞かれたから、これには小一郎の方が困ってしまった。

 確かに小六の言う通り、半兵衛は墨俣に来て以来、特に何をしたわけでもない。小一郎の教育係をやっている ことを除けば為すこともなくひたすらブラブラとしているわけで、陽気が良い日は砦の外堀である長良川に釣り 糸を垂れたり、川舟を操る老人を掴まえて日がな一日話し込んでみたり、調練をする兵たちの動きをボーっと眺め たりしているし、雨が降れば部屋で書見をし、あるいは砦の兵糧倉に篭って終日出てこなかったりと、まるで時 間を潰しているかの如くに過ごしているのである。半兵衛が墨俣砦のためにしたことと言えば、砦の防衛上の意 見をいくつか述べたくらいのもので、たとえば軍議の席でも、藤吉朗の隣という諸将を見下ろす位置にいながら 人から促されなければ発言することさえなく、いるかいないのか解らない、というくらいに影が薄い。
 稲葉山城を奪い取った稀代の軍略家――相当な切れ者――という先入観が強かっただけに、人々は半兵衛の昼 行灯ぶりに最初は当惑し、やがて不満を持つようになっていた。
 そういう不満が、小六の口を通じる形で噴出したものであろう。

「わしなどは、藤吉が半兵衛殿を連れて来たのは、西美濃衆の調略に使うためであろうと読んでいたのだが、かの 仁がこの墨俣から一歩も動かず、悪戯に日を送っているのを見ると、首を捻りたくなる」

 小六は渋い顔で言った。

(ははぁ。なるほど・・・・)

 この意見には、小一郎はかえって感心した。小六は東美濃の調略に活躍した男であるだけに、半兵衛という男 の役割をそういうところに置いて見ていたらしい。
 そう言われてみれば竹中氏は、「西美濃三人衆」――安藤氏、稲葉氏、氏家氏のいずれとも婚姻関係をもって おり、半兵衛自身も安藤氏の当主である伊賀守 守就の娘婿である。西美濃衆を調略して回るにこれほどうって つけな男もないであろう。

 しかし、

(あの半兵衛殿が、そんな役は引き受けまい)

 と、小一郎は思うのである。

 もともと斉藤家の家臣であった半兵衛と、独立の土豪であった小六とは、立っていた場所がまるで違う。斉藤家との縁が薄い小六であれば、斉藤家の旧知の豪族たちを懐柔して回っても倫理的な問題はありは しないだろ うが、半兵衛は数年前まで歴とした斉藤家の臣だったわけで、その半兵衛が斉藤家の武将たちを調略して織田家 に寝返らせることは、斉藤家の側から見れば昔の仲間を敵に売る悪辣な所業ということになるであろう。半兵衛 がそういうことを平気でやれる人間なら、そもそも稲葉山城を奪い取ったときに信長に城を売ってしまっていた に違いない。

(そういうことをしないところが、半兵衛殿の香気じゃ)

 とさえ、小一郎は思っている。
 短い付き合いではあるが、小一郎が見るところ、半兵衛は平素から人と言い争うということがなく、我を通そ うとするような頑迷さもなく、名門の村落貴族の出でありながらそれを鼻にかけて尊大ぶるようなところもない。 欲心が薄いために多少浮世離れした部分はあるもののその人柄はあくまで誠実、温厚、かつ淡白であり、陰謀が 似合うような腹黒さや油ぎったアクの強さといったものが微塵もないのである。だからこそ半兵衛という人間に は春風のような心地良さと清水のような涼やかさがあるのだが、それほどの半兵衛が「父祖以来仕えてきた旧主 を売る」などという武士として恥ずべき行為を自分自身に許すとは、小一郎にはまったく思えない。

「なにゆえ藤吉は、半兵衛殿を遊ばせておくのか・・・」

 と、小六は納得できぬ様子で言うのだが、小一郎はなんとなく解るような気がした。
 人間を理解することにかけて卓抜している藤吉朗であれば、半兵衛の人柄については知り抜いているであろう。 藤吉朗ほどの男が、その半兵衛に向かって「西美濃を調略してくれ」などと露骨に言うはずがない。

(あぁ・・・・そうか――)

 そこまで考えて、小一郎は得心した。

 藤吉朗は、半兵衛の昼行灯ぶりとその不評判を聞いても、批判めいたことを言ったことがない。

「ええんじゃ。ええんじゃ。半兵衛殿はこの墨俣におってもらうだけでええ」

 と、外野の意見を封じ込めてしまっている。

(兄者は、なんもかんも解っておるのじゃな・・・)

 半兵衛は、信長が旧主の斉藤家を滅ぼそうとしていることも知っているし、藤吉朗が西美濃衆を調略して回っ ていることも知っている。積極的でないにせよ、自分が墨俣にいることそのものが旧主の滅びに手を貸すことに なっているということも、当然解っているであろう。
 それを黙認していながら、なお、

(主家を裏切るようなことはしたくない――)

 と思ってしまう感情の矛盾こそが、おそらく半兵衛にとって触れられたくない部分なのである。
 そして藤吉朗は、そういう半兵衛の苦衷をちゃんと見抜いているらしい。

(だからこそ兄者は、半兵衛殿を使うことなく、信長さまの元に連れてゆくこともなく、自分でせっせと汗をか いて西美濃衆を調略して回っておるんじゃ・・・)

 もし半兵衛を信長の元に連れていって正式に織田家の臣にしてしまえば、信長は半兵衛の気持ちなどは微塵も 斟酌することなく西美濃衆の調略を命じるに違いない。信長とはそういう合理主義者であり、それが解っている からこそ半兵衛は、信長の招きを拒み続けていたのであろう。
 藤吉朗は、人間の心の機微というものに誰よりも通じている男である。半兵衛を墨俣に連れてくるにしても、 裏切りなどという人の倫理観を刺激する言葉はいっさい使わなかったろうし、それを匂わすこともなかったであ ろう。藤吉朗は、ただ陽気に半兵衛を師として遇し、墨俣にいてくれることを感謝するだけなのである。考えて みれば、これほど繊細な心配りもない。
 そして、そんな藤吉朗の痛ましいほどの気遣いは、半兵衛に伝わっている。だからこそ半兵衛は、あえて何も 言わずに墨俣で日を過ごし、過ごすことによって無言のまま藤吉朗の仕事を援けてやっているのではないか――

 藤吉朗と半兵衛が、常人では看取できないほどの玄妙な信頼関係で結ばれているということを、小一郎はよう やく理解した。

「わしは思うのですが・・・」

 小一郎は小六に言った。

「半兵衛殿は、この墨俣におってくださるだけで、その役割を立派に果たしておるのではないでしょうか」

「ふむ?」

「半兵衛殿の人柄とその知略の程というのは、縁戚である西美濃衆はちゃんと知っておりますでしょう。その半 兵衛殿が、墨俣におる。このことを知れば、西美濃衆はなんと思うでありましょうや」

「・・・・・・・・・・」

「当然、『あの知恵者の半兵衛が斉藤家の将来を見限り、織田家についた』と見るでしょう。西美濃衆は斉藤 家に居続けることを不安に思い、逆に織田家の将来に期待を持つ。織田に寝返っておくが上策と考える者も出て くるかもしれませぬし、そこまでいかなくとも半兵衛殿がいると思うだけで織田家に対する親しみが増しましょ う。西美濃衆を調略しておる兄者はよほど楽になるのではありますまいか」

 半兵衛の名をその程度に利用することは、藤吉朗も当然やっているだろう。

「まして、半兵衛殿は稲葉山城を奪い取ったほどの軍略家です。斉藤家の軍法も知り尽くしておりましょう。そ れが墨俣にいるとなれば、どんな策を構えているか知れぬと勘ぐり、下手に攻めては怪我をするかもと不安に 思い、墨俣を攻めにくくなっておるやもしれず、だからこそ墨俣が平穏無事でおられるのかもしれませぬ。 兄者が『半兵衛殿は墨俣におってくれるだけでええ』と言い続けるのは、そういうことも全て含めておると 思うのです」

「ふむ・・・なるほどのぉ・・・」

 小六は太い腕を組んで考え込んでいる。

「これは見くびった。小一郎は、意外に知恵が回るの」

「とんでもない。わしに知恵などありはしませぬが・・・」

 小一郎は少し照れた。

「半兵衛殿の平素の過ごしよう・・・あれは、待っているように思えるのです」

「何を待っておる?」

 小六は身を乗り出すように訊いた。

「時機・・・ですかな」

 小一郎は答えた。

「今わしが申し上げたようなことは、半兵衛殿は先刻承知であると思うのです。自分の名と存在を、兄者が西美 濃衆の調略に使うであろうことは、竹中半兵衛ほどの男であれば当然解っているでありましょう。しかし、半兵衛 殿は動けませぬ。斉藤家がなくなってしまわぬうちに半兵衛殿が表立って動けば、それは『父祖以来の国を売る裏 切り者』という汚名を着ることになる。だから、じっと動かず待っている」

「斉藤家が滅びてしまうことを、か?」

「心安く動くことができる日を、かもしれませぬが・・・・」

 小一郎は笑った。

「いずれにせよ、兄者が遠からず何らかの結果を出してくれましょう。それまでは、このまま静かに 見守っておるのが良いと思うのです。さし当たってわしが兄者から任されておる仕事は、この墨俣を 守ることでござりまするが、これは小六殿が骨を折ってくださらねばどうにも立ちゆきませぬ。この 小一郎を援けると思うて、どうか今しばらく、よしなにお頼み申しまする」

 両手を合わせて頭を下げる小一郎を見て、小六は苦笑した。
 物事を丸く丸くと収めながら、しかも小六を立てることも忘れない。小六は、織田-斉藤という大勢力の狭間 の小豪族という立場で長年苦労してきた男であるだけに、そういう小一郎の気遣いがよく理解できた。

「おことは、年若いくせになかなかやるのぉ。藤吉めは・・・・」

 小六はここで言葉を改め、

「わしらの御大将は、過ぎた弟御を持たれたようじゃわい」

 と感慨深げに言った。




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