歴史のかけら
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信長は、この帰路、泉州 佐野に堅固な防御拠点を築くよう命じ、佐久間信盛、明智光秀、丹羽
長秀、藤吉朗、荒木村重らの軍勢・総計二万ばかりをここに留め、築城に当たらせている。雑賀党
の再蜂起とその北上を怖れたのであろう。
ほどない五月下旬、今度は北の越前で、大規模な一揆が起こっている。
かつて朝倉氏の領国であった越前は、信長が朝倉氏を滅ぼして制圧した後、一向一揆の蜂起によ
って国が転覆し、織田方の大名たちが追い出され、“一揆の持ちたる国”になった、ということは
この物語でも以前に触れた。
越前は、北陸方面軍の軍団長である柴田勝家の領国で、府中・十万石は「府中三人衆」と呼ばれ
た前田利家、佐々成政、不破光治の三人が共同統治していた。ここで蜂起した一揆勢は佐々成政の
居城である小丸城を攻めたらしいが、藤吉朗の親友でもある前田利家が、佐々勢と共にこの一揆を
見事に鎮圧したという。
「此書物、後世二御らんしられ、 という八行の文章が刻まれていた。 「この書き物を、後世にご覧になり、語り伝えていただきたい。去る五月二十四日、一揆が起こ り、そのまま前田又左衛門殿(利家)が一揆勢の千人ばかりを生け捕りにした。ご成敗は、磔(は りつけ)に掛け、釜に入れて炙(あぶ)り殺すなどした。このことを、一筆書き留めておきます」
という意味である。 越前の門徒たちが暴発して一揆を起こすというこの政治現象は、つまるところ、上杉謙信の西上 の風聞がそれだけ北陸に響き渡っていた、ということを物語っている。
能登は畠山氏という伝統ある守護大名の領国で、春王丸という幼児が当主に担がれており、家中
は親織田派の重臣・長 続連(ちょう つぐつら)が実権を握っていた。畠山氏は織田と誼(よ
し)みを結んでおり、上杉とは敵対していたわけである。 七尾城は、かつて信長が何度囲んでも攻め切れなかった小谷城にも匹敵する難攻不落の堅城で、 「日本五大山城」にも数えられている。さしもの謙信もこの城ばかりは力攻めで落とすことができ ず、攻め倦んだ。季節が真冬だったこともあり、戦況が膠着状態になったのだが、天正五年三月、 関東の北条氏が上杉領である上野(こうずけ/群馬県)に侵攻したために、謙信は関東に兵を返さざ るを得なくなった。七尾城の攻略を家臣たちに任せ、自らは半分ほどの兵を引き連れて越後に帰国 したのである。
ちょうどこの頃、信長は紀州で雑賀党を攻めていたわけだが、足利義昭と毛利輝元は、織田軍が
畿内を留守にしている隙を衝いて、謙信に京まで攻め上るよう依頼したりしている。
信長の方も、上杉謙信に対して手を打たなかったわけではない。
ともあれ、謙信の関東出兵によって危ういところで危機を回避した畠山氏は、長 続連が反
攻を開始し、謙信不在の間隙を衝いていくつか城を奪い返し、意地を見せた。しかし、遠
く関東に出向いた謙信が、わずか五ヶ月で能登に戻って来ようとは思ってもみなかったであろう。
上杉軍の再征に窮した長 続連は、周辺の防御拠点をすべて放棄し、本拠の七尾城に百姓までを篭
らせて篭城し、さらに越前の柴田勝家に援軍を頼んだ。 織田 対 上杉の最初の対決の舞台が、こうして整えられたのである。
長浜城の大広間の上座で読み終えた軍令書を折りたたみながら、苦りきった顔で藤吉朗が言った。
信長からの軍令が長浜に届けられたのは、八月八日であった。 「上杉謙信殿と、加賀で戦え、というお下知ですか?」 半兵衛が確認すると、 「むこうでは、上様の代官である修理殿の指図に従うことになる。そのあたりのことは修理殿の 腹ひとつじゃで、行ってみんことには解らん」 藤吉朗は相変わらず不機嫌そうに応じた。 「それにしても――謙信は関東に馬を入れておったと聞いたが・・・・」 前野将右衛門が言うと、 「上洛の風聞はまことであったということか・・・・」
それに応えるように蜂須賀小六が呟いた。 「謙信に上洛する気なぞあるものか」 と、吐き捨てるように否定した。 藤吉朗は、世間が怖れるほどに上杉謙信を怖れてはいない。謙信が上洛などできるはずが ないと高をくくっており、今度の加賀出兵にしても、 (阿呆なことをするもんじゃ・・・・) と、内心で不貞腐れるような気分になっていた。 「殿は、謙信に上洛の意志なし、と申されますか」 「意志はあるかもしれんが、できゃぁせんわい。甲斐の信玄入道が上洛の軍を発した時とは違うん やぞ。すでに浅井・朝倉が滅び、六角が滅び、三好三人衆が滅び――京も畿内も近江も越前も、み んな御当家の領地になっとるわ。のぉ、半兵衛殿」 小六の問いを軽くいなし、藤吉朗は半兵衛に意見を質した。 「そうですね。このまま一気に京まで兵を進める――というようなつもりは、謙信殿にもないと 思います」 半兵衛はそういう表現で藤吉朗に同意し、さらになぜそう考えるかを理路整然と説明した。 上杉謙信が本気で上洛する気なら、加賀、越前、近江を押し通って京まで進まねばならない。つ まり、加賀の大聖寺城、越前の北庄城、近江の小谷城、長浜城、佐和山城、安土城など山ほどある 織田方の堅固な防御拠点を、数ヶ月のうちにすべて攻略せねばならないということなのである。そ んなことは、たとえ謙信が噂通りの軍神であろうが鬼神であろうができるはずがなく、謙信ほどの 名将がそんな愚にもつかぬ妄想を基礎に戦略を描くはずもない。 上杉軍は、かつての武田軍がそうであったように兵農が未分離で、農民兵をその主力としている。 つまり、春と秋の農繁期を無視して軍役を継続することは難しく、上杉軍が戦い続けられる期間は 限られている。しかも上杉氏の本拠は遠い越後であり、越中、能登、加賀、越前など謙信が通らね ばならない北陸の国々は豪雪地帯でもある。冬の軍事行動が困難な上に、補給物資の輸送にも難渋 するに違いなく、長期の外征はなおさら難しいということになる。さらに付け加えれば、謙信が大 軍を率いて国を空けるとなれば、関東の北条氏が上杉領の上野(こうずけ/群馬県)を狙って再び 兵を出すであろう。関東管領の職にこだわりを持つ謙信とすれば、関東の味方から救援を求められ ればこれを無視するわけにもいかないはずである。 謙信ほどの男がこれらの客観情勢を理解してないはずはないから、今回の謙信の西進行動は、さ しあたって能登の征服を目標にしていると考えるべきであろう。あわよくば加賀の本願寺勢力を吸 収し、加賀の北二郡を押さえる、というあたりが想定している最大の戦果ではないか―― 「謙信殿が後顧の憂いなく西に兵を進めるには、何よりまず関東の北条と同盟することが必要で す。さらに手に入れたばかりの越中、いま攻めておる能登をしっかりと固め、その上で加賀を攻 め取り、越前を奪った後に、ようやく上洛を現実の問題として考えられるようになる。どんなに急 いでも、一年や二年は先の話です」 藤吉朗の見方もこれとまったく同様であり、だからこそ不機嫌になっているのである。謙信が来 た来たと化け物でも出たように大騒ぎし、今頃から加賀に大兵力を集めるというのは、藤吉朗から 言わせれば愚の骨頂なのだ。
そうでなくともこの七月、紀州で雑賀党が再び蜂起し、織田方の「三緘(みからみ)の者」たち
を攻めるという事件が起きており、信長はこの救援のために南方へも兵を割き、佐久間信盛を大将
に、大和の筒井順慶、河内、和泉、山城、南近江の国衆などを掻き集めて四、五万もの大軍勢を編
成し、紀州の再征伐に向かわせている。大阪の本願寺を包囲している荒木村重らの軍勢さえ非常に
手薄になっているのだが、この状態でさらに四万近い主力を北方の加賀なぞに集めれば、有力武将
が出払ってしまって安土の信長の元にはわずかな旗本しか残らず、畿内は兵力的に空白地帯のよう
になってしまうのである。 紀州に大兵力を割いているこの時期に、畿内から遥かに遠い加賀なぞに大軍を集めるのは、それ ほど危険な行為なのである。 (それをあの権六(柴田勝家)め・・・・) と、藤吉朗は腹の中でなじっている。 (謙信の武名に脅えおったんじゃ・・・・) 謙信を怖れるのあまり、慌てて援軍を呼んだとしか思えない。
柴田勝家に与えられている越前の石高は、表高で約四十五万石。さらに加賀南半国 十五万石ほど
がこれに加わるから、勝家の北陸方面軍だけで一万八千ほどは兵力があるはずである。勝家がこれ
ほどの大軍団を率いているのは、まさに上杉謙信に備えるためであり、それがそもそもの役割な
のだ。 (信長さまも信長さまじゃ・・・・。何でまた援軍なぞ・・・・) と、藤吉朗は不遜にも信長のやり方にまで不満を覚えた。
信長が本気で上杉謙信と決戦するつもりなら、紀州攻めに向かった佐久間信盛の軍勢を呼び返し、
丹波平定戦を戦っている明智光秀の軍団や美濃で武田氏を監視している織田信忠の軍団から軍兵を
引き抜くなどしてできる限りの大軍を編成し、信長自らが総大将となってそれを率い、越前あたり
まで出張るべきであろう。決戦する気がないのなら、柴田勝家に加賀で守勢に徹するように指示す
ればそれで足るではないか――
それでも、信長の命令には従わねばならない。
丹羽長秀が率いる若狭衆、稲葉一鉄、氏家直通らが率いる美濃衆、滝川一益が率いる伊勢衆など
の軍勢も続々と集まってきており、街道は混雑し、行軍は難渋した。羽柴勢は越前を北進しつつさ
らに二泊を重ね、越前海岸に沿って加賀南部に入った。
加賀は、現在のところ織田領の北端である。
北近江に本拠を置く藤吉朗は北陸への移動は比較的容易だが、伊勢から来る滝川一益などは移動
距離が長いから、どうしても時間が掛かる。正確な日時は伝わっていないが、織田の援軍が大聖寺
城の付近で大集結を終えたのは、おそらく八月十四日の前後であったろう。 大広間に、錚々たる織田家の武将たちが集結した。勝家が座する上座から向かって左側に前田 利家、佐々成政、不破光政、金森長近ら北陸方面軍の武将たちが居並び、右側に丹羽長秀、滝川 一益、藤吉朗、稲葉一鉄ら援軍の諸将がそれぞれ席についている。 「おのおの、ご苦労に存ずる」 織田家の老臣筆頭(おとながしら)である柴田勝家が、まず口火を切った。
勝家は、このとき五十五歳。むっちりと筋肉が詰まった大柄な体躯で、もみあげから顎にかけ
て大髭を蓄え、濃い眉に大きな眼(まなこ)と、いかにも頼もしげな武者面をしている。 「おのおのもすでに聞いておるとは思うが、越後の上杉謙信が、昨年来、この北陸を騒がせてお る。すでに越中を飲み込み、さらに能登に侵出し、先ごろからは畠山殿の七尾城を攻めておるら しい」 まず勝家は、上杉軍侵攻の様子を概括し、七尾城の畠山氏から救援の要請が来たことなどを簡潔 に説明した。 「詳しきことは、この孝恩寺(こうおんじ)殿から話していただこう」
自らの傍らに座していた僧形の青年を諸将に紹介した。 「上杉謙信が率いるは越後の精兵二万。越中、能登の門徒衆、地侍などがこれに加わり、その数は およそ三万というところでござりましょう。さりながら、我らが七尾の城は堅牢無比。謙信がどれ ほど戦上手であろうとも、そうやすやすと落とせるものとは思われませぬ」 憔悴し切った表情で、青年はまずそう言った。 「ただ、我らは百姓までを城に込めて篭城致しておりますゆえ、その人数は一万五千にもなり、こ れがために城内では糞尿なぞの始末が追いつかず、タチの悪い病に倒れる者が後を絶たちませぬ。 ご当主・春王丸さまも、我が父・対馬守(長 続連)も、すでに病に臥しており――」 真夏のことでもあり、城内の衛生状態が悪化し、疫病が蔓延したものらしい。 「篭城では、城を守る者たちに、心の支えが要りまする。ご当主の春王丸さまはご幼少、我が 父・対馬守も病身となり、さらに城内に病が蔓延(はびこ)るとなれば、城衆も前途に望みが持て ず、士気は日に日に下がる一方でござりました。この上は、織田さまの後詰めのみが城兵たちの一 縷の希望でござりまする。我が父母・兄弟は言うに及ばず、命懸けで城に篭りおる者たちのことを 想いますれば――」 若い僧は言葉を詰まらせ、涙を流しながら土下座した。 「なにとぞ、疾(と)く疾く能登に馬を進めてくださいますよう、伏してお願い申し上げまする」 「――聞いての通りである」 と、勝家がその後を受けた。 「御当家に誼みを通じた畠山殿がこのように窮しておられる今、我らがこれを見捨てるは不義理。 そのようなことをすれば、かつて朝倉が浅井を見捨てた時のように、御当家に対する世間の信が失 われよう。まして七尾の城が落ちれば、謙信が全軍を率いて加賀に攻め込んで来るは必定。これを 防ぐには、むしろ我らの方から能登へ押し出し、七尾の城を囲む上杉勢を後ろ巻きするが上策と思 うが――」
二万もの援軍の来着で気が大きくなったのか、勝家は主戦論である。加賀で謙信の南下を防ぐど
ころか、能登の七尾城を救援し、その場で上杉軍と戦うつもりであるらしい。 (こいつは正気で言うておるのか・・・・?) と、藤吉朗は勝家の頭の構造を疑いたくなった。 藤吉朗に言わせれば――これは半兵衛も同意見であるが――この時期に加賀に四万もの大軍が集 中するだけでも大間違いなのだが、さらに戦略的に考えても、能登の七尾城を救援するなどはまっ たく論外であった。
織田軍が大挙して能登などに乗り込んでしまえば、それこそ上杉謙信の思う壺なのである。
いま、安土の信長の元にはわずかな旗本しか残っていない。この状況で四万の織田軍が消滅する
ようなことにでもなれば、加賀、越前、北近江は軍事的空白地帯となり、上杉軍は楽々とここを押
し通って織田家の本拠・安土にまで一気に馬を進めることができるであろう。 貸しはあっても借りはない畠山氏を救援するために、それほどの危険を冒すというのは、常識か ら言っても損得勘定から見ても、まったく馬鹿げている。 「おのおの、存念があれば申されよ」 と勝家は真面目腐った顔で言うのだが、藤吉朗にすれば脱力するやら阿呆らしいやらで、もうど こから反論すればいいか解らないほどであった。
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