歴史のかけら
76京で信長が定宿にしている二条室町の妙覚寺において、今後の中国経略に関する最初の公式な軍 議が持たれた。 播磨の申し次ぎ(外交担当官)である藤吉朗はもちろん、織田家の主立つ重臣たちは、信長の上 洛に従って再び京に上った。 中国筋からは、宇喜多氏によって備前を追われた浦上宗景、播磨最大の大名である別所長治などが 再び上洛し、この席に顔を揃えていたことが『信長公記』に記されている。 浦上宗景というのは、旧・播磨守護の赤松氏を奉じて備前に覇を唱え、一時は備中、美作、播磨 の一部にまで勢力を広げた堂々たる戦国大名であった。しかし、重臣の宇喜多直家という男が天正 二年に毛利氏と結んで叛旗を翻し、これに破れて国を奪われ、現在は播磨の一勢力という地位に甘 んじている。この男は、織田の中国征伐の尻馬に乗ることで宇喜多氏と毛利氏を排除し、備前で復 権を果たそうという腹づもりであったろう。
別所長治については、この物語ですでに何度か触れた。播磨最大の大名である別所氏の当主であ
り、この天正五年の正月で数えで二十歳になったばかりの若者である。名門の武家貴族らしく美と
義を重んじる心根の涼やかさと、温室で純粋培養されたような色白で清げな容姿を持っていた。 ちなみに小寺官兵衛が岐阜で信長に謁し、小寺家の臣従を申し入れたのは天正三年の初秋であ り、別所長治が上洛した直後である。察するに、これらの政治現象は、中央で勃興した織田氏とい う巨大な勢力と結びつくことで、播磨における主導権を握ろうという覇権争いの側面が色濃かった のであろう。
別所氏は東播磨八郡を押さえていたが、小寺氏は播磨の中央部に勢力を持っていて、別所氏が播磨
一国を統一するためには西の小寺氏を滅ぼすか傘下に収めるかする必要があった。別所氏は過去に
たびたび小寺氏に合戦を仕掛けており、そのたびに小寺官兵衛が寡兵を率いてよく守り、その侵攻
を食い止めてきた、という経緯がある。小寺氏にとれば別所氏はごく身近な敵であり、これが強大
な織田家の傘下に入ったことは脅威そのものであったろう。
官兵衛は先見に優れた男であるだけに、小寺氏が播磨で大を成すためには、織田氏と別所氏の間
に割って入るほか道はないと見定め切っていたであろう。直接に信長との繋がりを深め、別所氏を
出し抜いて播磨の旗頭の位置をなんとか横取りし、中国征伐で大働きに働いて信長にさらに好印象
を持ってもらい、織田政権下において播磨での権勢を新たに確立したいという思惑が、腹の底に当
然あったはずである。
しかし、そんな官兵衛の裏の思惑などは、「天下布武」という大目標に向かって邁進している信
長からすれば、知ったことではない。 この軍議の席で、 「中国を退治するにおいては、別所殿が播磨の旗頭となって先手(先鋒)を務められよ」
と信長が言ったのは当然であったし、別所氏を喜ばせてやろうという意図もあったであろう。
もっとも、信長は外交上の約束を反故にすることを屁とも思ってない男で、遠国の大名などに対
しては方便にもならぬ景気の良い空手形を乱発するようないい加減なところがある。かつて備前で
威勢を誇った浦上宗景に対しては、天正元年の段階で「備前、美作、播磨の三国の支配を許す」と
いうような約束をしているくらいだから、別所長治に対しても、「毛利を滅ぼした暁には、その領
国から二、三ヶ国を分け与えよう」くらいの大口は叩いていたかもしれない。 「味方に合力して先陣を致し給わらば、播磨壱ヶ国は申すに及ばず、其の功に随(したが)い厚く 恩賞を宛行うべし」 と礼を尽くして約束した、ということになっている。 いずれにしても、別所長治は、畏まって信長の命を受けた。 「先手を仰せ付けられるは弓矢の名誉。家の面目もこれに過ぎたるはござりませぬ。この上は、速 やかに国許にて軍用を調え、人数を集め、内府さま(内大臣/信長)の遣わされる大将のご下向をお 待ち申し上げる所存――」
と請合って、信長を満足させた。 「摂津の事が一段落すれば、中国に馬を進めることになろう」 大阪の本願寺が片付けば、いよいよ毛利氏と本格的に戦うつもりである、ということである。 「別所殿もそのおつもりで、諸事抜かりなく支度を整えられよ」 慈父のような優しげな眼差しを別所長治に向け、信長は上機嫌でそう話を締め括った。 軍議と言っても、具体的に戦略を話し合うというような段階ではない。ようするに、播磨最大勢 力である別所氏の抱きこみを確実にしておこうという「政治」であり、セレモニーに過ぎないわけ だから、内容などはこの程度で十分であった。
ただ、このとき、「中国征伐の大将として誰を播磨に派遣するか」といういわば最重要事項を
曖昧なままにしておいたことは、信長の手落ちであったと言えぬこともない。信長はおそらくこの
頃には、中国方面軍司令官として藤吉朗を抜擢することをすでに決めていたであろうが、そのこ
とを公式に表明したことはなく、内々で誰かに漏らしたということもないのである。
ともあれ、別所氏の態度に満足した信長は、播磨経略をさらに抜かりなく続けるよう藤吉朗に命
じた。
天正五年二月二日、安土にいた信長の元に、朗報が届けられた。 紀州惣国一揆とは、紀伊北部に根を張る雑賀(さいか)党を中核に、亀山城の湯河氏や、高野 山、根来(ねごろ)、粉河(こがわ)の三大寺院、さらに熊野三山を中心とする南部地方の諸勢 力が連合した地域勢力である、ということは以前触れた。京を追われた足利義昭が紀州に逃れて以 来、惣国一揆は反織田の一大勢力となっており、なかでも雑賀党は精強な鉄砲集団として天下に名 が高く、本願寺側の主戦力ともなっていた。これは信長にとって頭痛の種であったのだが、この惣 国一揆も必ずしも一枚岩であったわけではないらしい。
惣国一揆の中核である雑賀党は、大雑把に捉えれば、十ヶ郷、雑賀庄、中郷、宮郷、南郷という
五つの郷党集団から形成されている。雑賀党は自主自尊の意識が強く、信教を同じくする門徒が多
いということもあって国外問題に対しては一致団結して事に処する伝統があったが、自国内では
族党同士の諍(いさか)いが絶えなかった。中でも「三緘(みからみ)の者」と称されていた宮郷、
中郷、南郷の地侍たちと、十ヶ郷、雑賀庄の者たちは、雑賀党内で常に主導権を争っていたらし
い。 もちろん、これはかねてから施していた調略の成果でもあったろうが、信長はこの仲間割れに乗 じて、先に紀州を押さえてしまおうと思い立った。雑賀の鉄砲衆は本願寺のまさに主戦力であった し、紀州は雑賀水軍が大阪 石山御坊に物資を補給する有力な基地でもあったから、頑強に抵抗を続 ける本願寺勢を弱体化させるには、雑賀党を滅ぼして紀州を奪ってしまうのが近道であろう。
信長はただちに全領国と同盟大名に大動員を掛け、美濃・尾張・伊勢・近江・山城・大和・摂
津・和泉・河内・若狭・越前・丹後・丹波・播磨の諸侍を京に集結させ、公称十万余――実数にし
ても六万を越える大軍を編成し、二月十三日、まだ肌に冷たい早春の風を衝いて京を出陣した。 (またまた余所の手伝い戦かよ・・・・)
中国方面で手柄を立てたい藤吉朗は不満顔であったが、信長の命令とあれば否も応もない。自ら
三千の羽柴勢を率いてこの行列に加わった。言うまでもないが、播磨に出張している小一郎と半兵
衛は、ここに含まれていない。
信長はこの大軍勢の後軍を率いて京を南下し、河内の若江から和泉の香庄(こうのしょう)に入
り、ここから大阪湾の海岸伝いに道を取り、十八日に佐野(泉佐野市)、二十二日に志立(泉南
市)と慎重に紀州へとにじり寄って行った。三日で済む移動距離に十日もの時間を掛けたわけで、
ひとたび動けば疾風迅雷、拙速なまでに速さを尊ぶ信長にしては珍しいほどゆるゆるとした行軍だ
ったが、これは信長なりの用心の結果でもあったろう。
いずれにしても、織田軍は大阪湾に浮かぶ淡路島を右手に眺めつつ和泉山脈の手前で大集結し、
そこで全軍を二手に分け、佐久間信盛・藤吉朗・荒木村重・堀秀政らの軍勢は雑賀党から寝返っ
た「三緘の者」と根来衆を道案内にして山越えの道を取り、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・細川
藤孝・筒井順慶らの軍勢は海岸伝いのルートを取って、それぞれ紀州に侵攻した。
織田軍の襲来を知った雑賀党は、紀州の国境付近に流れる紀ノ川を外堀に見立てて防衛線を敷
いた。 ちなみにこの当時の鉄砲は、通常の有効射程がせいぜい七〜八十メートルほどであったらしい。 火薬を多く詰めれば多少射程は伸びるが、いずれにしても川を挟んで睨み合っていたのでは射撃戦 も満足にできない。
攻める織田軍は、味方の大兵力を頼んで一斉に雑賀川に馬を入れ、これを一気に渡河しようと猛
進したのだが、人馬は川の中瀬で罠に掛かって次々と足を取られ、将棋倒しのようになって
倒れ込んだ。しかし、事情が解らない後続軍は後ろから続々と押し出してくるから味方同士がせめ
ぎ合って大混乱し、立ち往生しているところを雑賀党自慢の鉄砲でめった撃ちにされ、大砲の砲撃
を間近に食らって吹き飛ばされ、さらに白兵突撃を受けるにおよんで総崩れとなり、まったく一方
的な敗北を喫したらしい。全軍の先鋒に立って真っ先に川に馬を入れた堀秀政の部隊なぞは、ほと
んど壊滅に近い惨状だったという。 一方、浜手から十ヶ郷に侵攻した部隊は雑賀党の前哨部隊を蹴散らし、防御拠点であった中野城 を囲み、二十八日にこれを抜いた。さらに紀ノ川まで進み、雑賀庄を北から窺ったが、川を挟んだ 射撃戦になれば鉄砲撃ちとして天下に名の通った雑賀党相手には分が悪く、こちらも攻め倦んだ。 信長はなぜか紀州に入ろうとせず、和泉山脈の若宮八幡(大阪府泉南郡)に本陣を置き、後方か ら全軍を督戦したが、聞こえてくる戦況はどうにも捗々しくない。流血ばかりが多く、敵の防戦に 手を焼ききっているようであった。 このあたり、合戦の推移が実はよく解らない。
たとえば『信長公記』では、浜手を進んだ部隊が紀ノ川を越えて一気に雑賀党の首領格である雑
賀孫市(鈴木孫一)の居城・雑賀城(和歌山市和歌浦南)を包囲した、ということが記されており、
城の周囲に櫓を建て、竹束の楯をもって敵の銃弾を防ぎつつ、日夜激しく攻め立てた、ということ
になっているのだが、そもそも雑賀城は鈴木孫一の居城ではないと筆者は考えており、このあたり
の記述がどうにも信用できない。
『信長公記』などの織田側の軍記は当然ながら信長贔屓で、その論調は織田軍の圧倒的優位のまま
戦況が推移したように書かれているから、このあたりは研究者の間ですら混乱が見られる。 それが証拠に、信長は六万もの大軍を擁しながらわずか半月ばかりで雑賀党を滅ぼすことを諦 め、これと和睦しているのである。『信長公記』では、滅亡の危機を悟った雑賀党の側が降参した、 ということになっているが、実際は、戦の泥沼化と長期化を嫌った信長が、織田家の名誉が損なわ れない形で停戦・講和に持っていった、というあたりが真相ではなかったかと思われる。一説には 毛利氏の大船団が来襲して畿内を窺う形勢を見せ、これがために信長は兵を返さざるを得なかった のだともいうが、いずれにしても、四方に敵を抱える信長にすれば、畿内を手薄にしたままこれほ どの大軍を紀州に長期間釘付けにしておくことはできなかったのであろう。 三月十五日、鈴木孫一を含む雑賀党の領袖・七人と誓紙を交換し、両軍の間で正式に和睦が成立 した。戦後処理を済ませた信長は、三月二十一日に紀州から兵を退いた。
敗北――とまでは言わないが、この結果は信長にとって勝利からはほど遠いものであったろう。 信長は、伊勢 長島や越前では「根切り」と呼ばれる門徒の徹底的な殲滅を行っている。同じく 本願寺に味方する雑賀党を許すつもりはなかったに違いないが、それにしてもこの連中は、信長に してみれば疼く虫歯のように悩ましく腹立たしい存在であったに違いない。
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