歴史のかけら
70播州――播磨(はりま)国は、現在の兵庫県。近畿と中国地方を繋ぐ瀬戸内海側の玄関口であ り、竹中 半兵衛 重治がその生涯を終えた地でもある。
播州は、中国地方を山陰と山陽に分かつ背骨のような中国山地を北に戴き、南方は瀬戸内海に向
かって肥沃な播磨平野が広がっている。平野のあちこちに無数の丘陵が隆起し、野を裁断するように
加古川、市川、揖保川、千種川などの大河とその支流が南北に流れ、海辺に沿って中国街道が東西
に走り、街道筋のそれぞれの川の河口付近は大きな集落が古くから栄えていた。
永禄から元亀年間にかけて、この別所氏は、東隣・摂津の三好三人衆から常に領地を脅かされてい
た。別所氏の当主であった別所安治は、三好氏に対抗するために信長が上洛するやいち早く織田家
に誼みを通じた。敵の敵は、すなわち味方というわけである。三好氏の敵であった織田氏は、別所
氏にすれば心強い味方であった。
播磨最大の勢力である別所氏が織田方であったため、播磨の豪族たちは別所氏に敵対すること
を恐れて織田方を表明する者が多かった。播磨は摂津の西隣であり、地理的に京からごく近いか
ら、織田家の強大さや信長の恐ろしさはよく伝わっていたのである。 少なくとも信長はそう思っていたし、織田家ではそのように認識されていた。
しかし、天正四年の初頭に足利義昭が備後の鞆(とも)に移り、毛利氏を抱きこんで幕府を開き、
毛利氏と織田氏の早晩の衝突が決定的になると、情勢がにわかに混迷し始めた。
織田軍が上洛を果たした永禄十一年(1568)、信長は、将軍候補たる義昭を奉じて軍を進め、たち
まち畿内を席巻して義昭を足利十五代将軍の座に据えた。以来、諸国の武家に権高に協力を命じる
信長の権力というのは足利将軍から軍事権を委任されたという形で成り立っており、少なくとも近
国の大小名たちから見れば足利幕府と織田家は一体であった。信長に従うことは足利幕府に従う
ことと同義であり、信長の「天下布武」は義昭の「将軍の権威」によって大義名分が保証されてい
たのである。 織田家に従う方が得に決まっている――と、後世に生きる我々は当然のように思ってしまいがち だが、これはその後の歴史を知る者の安易な結果論と言わねばならないだろう。 当時の織田氏と毛利氏の実力は、それほど大きな隔たりがあったわけではない。筆者はこの頃の 織田氏の経済的実力を四〜五百万石ほどと推定しているが、毛利氏の方も、宇喜多氏、山名氏など の従属大名の所領を合わせれば三百万石に近い経済力を持っていたであろうと考えている。いち早 く「兵農分離」の軍政を敷いていたという点で兵の動員力に関しては織田氏が大いに勝っていたが、 軍兵そのものの質は農兵中心の毛利氏の方が一枚上であったし、地理的に大陸や西洋諸国との貿易 が有利な毛利氏は、たとえば鉄砲の保有数で見ても織田氏にさほど引けをとっておらず、この頃中 国からの輸入に頼っていた硝石(火薬を作るために不可欠な原料)に関しても独自の入手経路を持っ ていた。さらに毛利氏は瀬戸内海や日本海の海賊衆を束ねており、自他共に認める戦国最強の水軍 力を保有している。 何より毛利氏は、現職将軍・義昭を奉戴することによっていわば「官軍」的な立場にあり、この ことが政治的には非常に大きかったであろう。
織田氏と毛利氏の戦いは、信長と義昭の戦いという側面が色濃い。 義昭は依然として諸国の武家に対する軍事指揮権を持っており、大げさに言えば、織田氏とその 傘下の大名以外の諸国のすべての勢力が潜在的に義昭の味方であり、毛利氏の味方であった。現に、 織田の領国の周囲は敵対勢力によってぐるりと包囲されたようになっており、摂津と紀州に本願 寺の大勢力があり、越後ではあの上杉謙信が本願寺と同盟して信長に敵対することを公然と表明し、 衰えたりとはいえ甲斐の武田氏も上杉謙信と同盟して打倒・信長に燃えている。これに、広大な中 国全土を支配する毛利氏までが加わって、織田氏はいわば袋叩きにされる形勢なのである。
播磨の豪族たちの元には、義昭からも毛利氏からも本願寺からも使者が頻々とやって来ては、諸
国の新たな形勢を説き、「信長は、早晩滅ぶ」という類の未来予想図をまことしやかに囁いてゆく。
ことに義昭からは、「毛利に味方し、幕府に忠を尽くせ」というような御内書が届けられる。義昭
は何といっても現職の将軍であり、その影響力は計り知れないほど大きい。 (ここは毛利に就く方が賢明かもしれぬ・・・・) と観測したとしても不思議はなく、動揺するのも無理からぬことであったろう。 こういう事態になったとき、大勢力の狭間の小勢力というのは、両方の勢力にそれぞれ媚(こ び)を売り、どちらにも良い顔をして、どちらが勝っても自家が生き残るように謀るというのが常 である。播磨の豪族たちは表面上織田家に属しつつ後手では毛利氏とも手を結び、旗幟を鮮明 にせぬままうろうろと形勢を観望し、結論を先送りにした。播磨最大の勢力である別所氏の後背を 睨みながら、織田と毛利のどちらに就くのが自家にとって得であるのかを見極めようとしていた。 このような情勢の中で、ただ一人、織田に就くことを強硬に主張し、頼まれもせぬのにそれを周 囲の諸豪族に説いて回っている変わり者が、播磨にいる。御着(ごちゃく)の小大名・小寺氏の家 老で、姫路の小城を預かる小寺官兵衛という男である。
官兵衛、この天正四年(1576)で三十歳。
この官兵衛がどういう人物であるかを知ってもらうには、官兵衛に対する藤吉朗の言動を紹介す
る方が、あるいは近道であるかもしれない。 「あの男に大封を与えてみよ。たちまち天下を取ってしまうわ」 と笑って応えたという。 また、あるとき秀吉が雑談の戯れに、 「わしの死後、次の天下を誰が取ると思うか?」
という質問をお伽衆(話し相手)相手にしたことがあった。 「肝心な者を忘れておるわ」
と笑って、官兵衛の名を挙げたという。 「お言葉ではありますが、黒田殿のあの小身代(十二万石)ではとても天下は望めますまい」 と反論すると、秀吉は、 「小身だからとて天下が望めぬとすれば、わしはどうなる」 と己の顔を指差して笑い、 「お前たちはあの者の知恵の凄みが解っておらぬゆえにそういうことを言うのだ。わしはこれまで様 々な大敵に遭い、息も詰まるような大難に何度もぶつかり、謀事(はかりごと)をあれやこれやと 決めかねることもあったが、そんな時にあの男に相談すると、常にたちどころに明快な策をひねり 出しおった。それが、わしが苦心して考え出した策とぴったり相通じるどころか、わしの意表をつ くような優れた考えを述べることさえ何度かあった。それほどの知略を持っておる上に、あの男は度 胸もあり、人使いも上手く、度量広く思慮が深く、このことは天下に比類がない。もしあいつがそ の気になれば、わしが生きてあるうちにても、すぐさま天下を取れるであろうよ」
とまで官兵衛の知略と器量を激賞したという。 ともあれその官兵衛、播州という田舎から天下の形勢を見渡しながら、 (信長公は、いずれ天下を取るだろう。織田と毛利がぶつかれば、必ず織田が勝つ) と確信していたらしい。
小寺家の重臣には、他にこれといった傑物がいない。主の小寺政職(まさもと)にしても定見は
なく、ただまわりの豪族たちの後背だけに注意を向け、特に播磨最大の豪族である別所氏の去就に
注目し、これが毛利に就くか織田に就くかを見極め、同じ方向に小寺家の舵を切ろうとしていた。
日和見だが、小豪族などというものはどこもそうで、とにかく目先の安全を最優先にするのが常だ
し、それが賢明な身の処し方でもあった。 (真っ先に手を上げ、大きな声を出した者が、織田の播磨における旗頭になれるではないか。小寺 家が播磨で大を成すには、このときを措いてない)
官兵衛も、戦国の武士である。天下に対する淡い憧れのようなものは、人並みに――いや、その能
力を考えればおそらくは人並み以上に――抱いて生きている。戦国末期の煮詰まり始めた天下の趨
勢には当然ながら強い関心を持っており、播州という地理的な事情からも織田氏と毛利氏のそれに
特に注意を払い、出来うる限り様々に情報を集めていたから、会ったこともない信長という男の天
才を早い時期から見抜いていた。 (そういう大将である以上、何もかも投げ打つ覚悟で織田家に馳走せねば、信長公は我らのような 小家(こやけ)を歯牙にもかけまい。逆に言えば、わしの働き次第では、小寺家が信長公の元で生 き延びる道も開ける・・・・)
と思った。 (小寺家が生きるも滅ぶも、わしの働き次第――) そう想いを決したのも、主家に対する忠誠と親切心から出ている。
ひとたび心を固めたからには、じっとしていられる男ではない。主君・小寺政職に織田家に従う
べきことを説きに説き、どちらかと言えば毛利に傾く者が多い家中の重臣たちをいちいち論破し、
ついに小寺家を織田に投じさせるところまで漕ぎ着けた。 信長は、官兵衛に直に面談し、その弁舌を聞き、この男の類稀な器量をすぐさま見抜いたらし い。官兵衛をことのほか気に入った様子で、 「わしが中国に馬を出す折は、そなたを先鋒としよう。手柄を立てれば、一廉(ひとかど)の大名 にもしてやるぞ」 とまで言い、自分がいかに官兵衛を信頼したか、ということを表すように、愛用していた“圧 切(へしきり)”という名刀をその場で与えた。 「わしはいま近畿にも北陸にも敵を持っておるゆえしばらくは手が離せぬが、これらの鎮定に一 段落すれば、中国に馬を進めるであろう。播州のことは、以後、羽柴筑前に諸事相談し、同心協 力して励め」
と、信長は命じた。 ともあれ官兵衛は、信長の言葉に従い、岐阜からの帰路に築城途中の長浜城に寄り、藤吉朗と初 めて面談した。
信長の近臣である富田知信(信広とも)が、案内役として官兵衛ら小寺家の一行 十余人を引き
連れて長浜にやって来たとき、藤吉朗はまだ播州に対する知識をたいして持ってはおらず、小寺と
いう小豪族の家老の一人でしかない小寺官兵衛なる男のことも、その存在さえまったく知らなかっ
た。 「播州 御着の領主・小寺政職が家老、小寺官兵衛と申します」 初めてその男を見た小一郎の印象は、 (なんと、まぁ、よく喋る男やなぁ・・・・)
ということに尽きる。 (これほどの口達者――半兵衛殿にも伍するかもしれん・・・・) 言葉の洪水に圧倒されるような気分で、小一郎は思った。 (この男の言う通りにすりゃぁ、播州はあっという間に取れるのとちゃうか・・・・) と思わず勘違いしてしまうような、いわば詐欺漢的な口の上手さがある。 半兵衛の弁舌は、私観を交えず水のように滔々と客観情勢を積み重ね、それによって聞く者の 正しい選択を促すというようなところがある。聞く者の選択を、半兵衛の思惑のままに操作できる とすればこれは一種の洗脳であり、まさに悪魔的な親切さと言うべきだろう。それに比べると、こ の男の弁舌は親切というよりむしろ煽動的であり、智者が愚者にモノを教えてやるというようなお 仕着せの匂いがないでもない。 もっとも、喋っている官兵衛にすれば、これは止むを得ない部分もあったであろう。官兵衛は 舌鋒の鋭さを温容で包み隠すくらいの芸はスラスラとできる男だが、今の官兵衛は播州の一豪族の 家老という立場であり、播州に対してほとんど予備知識を持たぬ織田家の者たちに小寺家を売り込 むという目的のために言葉を費やしているわけで、そこに小寺家をより大きく見せるための誇張や ハッタリは混じるし、「自分が言っていることは間違いがない」ということを強く印象付けるため に満腔の自信を全身で示さねばならず、曖昧な表現や言い回しを使うわけにもいかず、口調や語尾 がつい断定的にならざるを得ない。 ともあれ藤吉朗は、憑かれたように喋り続ける官兵衛の話を実に熱心に聴いていた。 「いや、官兵衛殿、いちいち御辺の申される通りじゃ」 官兵衛が播州経略を語り終えた頃には、すっかりこの男に惚れ込んでしまったらしい。
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