歴史のかけら
71この男の本姓は、黒田という。黒田 官兵衛 孝高がその本名であり、黒田氏の素性は、近江守 護・佐々木氏の庶流ということになっている。 佐々木氏は宇多天皇に発する近江源氏の名流で、この佐々木氏がさらに二流に分かれて南近江の 六角氏、北近江の京極氏となった、ということはこの物語でも以前触れた。官兵衛の黒田氏はこの 京極氏の傍流で、京極宗清という人物が北近江の伊香郡黒田村に住したところから黒田姓を名乗る ようになったのだという。 ところで、この伊香郡黒田村は、琵琶湖の北岸――賤ヶ岳の東麓に開けた集落で、羽柴領の中に ある。 「すると官兵衛殿のご先祖は、あの黒田村から出られたのか」 これは奇縁、などと、藤吉朗は大仰に驚き、笑った。 「私の黒田と申す姓は、先祖がその黒田村に移り住んだ折りに、土地の名を取って名乗った ものと聞いております」 官兵衛は、初代・黒田(京極)宗清から九代目の子孫に当たるらしい。戦国期に家を興した大名 の出自というのはその大半がいかがわしく、徳川幕府の系図編纂事業に合わせて儒者によって粉飾 され、あるいはまったくゼロから創作されたようなものも多いが、『史伝 黒田如水』における安藤 英男氏の考察によれば、黒田氏の家系に関してはほぼ信頼できるものであるという。 「されば官兵衛殿にとって、この北近江は故郷(さと)も同じというわけじゃな。いやいや、こり ゃ意外な繋がりがあったもんじゃ」 さして飲めもせぬ酒で顔を紅く染めた藤吉朗は、終始上機嫌である。 官兵衛ら小寺家一行が長浜を訪問した夜、藤吉朗は羽柴家の主立つ者を集めて官兵衛らと引き合 わせ、酒宴を開いてこれを大いに持て成した。蜂須賀小六や前野将右衛門、宮部善祥坊ら、武将の 半数ほどは敦賀守備の軍務のために不在だったが、小一郎と半兵衛、浅野弥兵衛などはこの場に顔 を揃えている。 藤吉朗が羽柴家の重臣を一人一人紹介した時、官兵衛は「竹中半兵衛」の名にすぐさま反応し た。 「竹中半兵衛殿と申せば――もしや、あの・・・・?」 「半兵衛殿の雷名は、遠く播磨の辺りまでも伝わっておりますか」 藤吉朗はまるで我が功を自慢でもするかのように言った。 「天下の稲葉山城をわずかの人数で、しかも一夜にして鮮やかに奪い取った、あの竹中半兵衛殿で すわい」 自分のことを大仰に言われるのが嫌いな半兵衛は、さすがに迷惑そうに苦笑している。 「稲葉山城と申しますのは、岐阜のあの巨城のことでございますな?」
確認するように、官兵衛が尋ねた。 「左様左様。美濃が斉藤家のものであった昔は、稲葉山城と呼び慣わしておりましたがな。信長さ まがあの城に居を定め、城下を『岐阜』と名付けて以来、岐阜城と呼ぶようになっておる」 「いや、感服つかまつりました」 官兵衛はあらためて半兵衛に畏敬の眼差しを向けた。 「噂というのは尾ひれが付くものですから、播州の田舎に居りました頃は、半兵衛殿が一夜にして 落としたという城をいかほどに見積もるべきであるのかが解りませなんだが、あの岐阜城をこの 眼で見て、半兵衛殿がいかに成し難いことを成されたのかがようやく実感できました。いや、まっ たく、凄いとしか申しようがない」 半兵衛と官兵衛の年齢は、わずか二つ違いであるに過ぎない。半兵衛が稲葉山城を奪って天下を 驚かせた時、官兵衛は十八歳だったはずだから、同世代の若者が一躍世間に名を轟かせたこのニュ ースは衝撃であったろう。何やらワクワクするような嬉しさと、同時に嫉妬に似た感情も胸に湧い たに違いない。
その頃の官兵衛はすでに初陣は済ませていたが、播州という田舎で小豪族同士の小競り合いのよ
うな戦しか経験したことがなく、しかも父がまだ現役だったから官兵衛は一隊を率いる指揮権すら
持っておらず、自らの才能を存分に振るう機会にまったく恵まれてはいなかった。 (その男の立場に生まれておれば、俺だってそのくらいの仕事はできるのだ) という自負がある反面、 (いや、主家の城を奪うなどは、俺のような男にはできんな・・・・)
と自嘲したりもした。 (そういう男が世にいるのか・・・・)
と頭を殴られたような衝撃を受けた。 「古い話です。私にとってもアレは若気の至りと申すもの。もうご勘弁くだされ」 官兵衛の熱の篭った視線を受け流し、半兵衛は静かにそう返した。 自らの名を伝説的にまで高めた「稲葉山城 乗っ取り事件」の話を蒸し返されることを、半兵衛は なぜか嫌う。これまで自らその話題に触れたことはなく、誰かがその武勇譚を聞かせて欲しいと願 っても話をはぐらかして相手にしないから、小一郎にせよ藤吉朗にせよ、これだけ半兵衛と長く過 ごしているのにあの事件については世間に伝えられた以上のことは知らないのである。 半兵衛にとって「稲葉山城 乗っ取り事件」は過去の栄光ではなく、むしろ汚点という方がその 気分に近かった。半兵衛は己の軍略とそれがもたらす結果については冷徹なまでに先々を見通して おり、その意味で後先考えぬ行動であったということは当たらないが、それでもそれは二十歳そこ そこの頃の血の熱さがあってこその行動であって、三十路を越えた今の半兵衛ならば決してそんな 暴挙は行わなかったであろう。どのような理由を付けたところで主城の乗っ取りは純然とした謀叛 であり、主家に対する背信であり、結果としてそれが斉藤家滅亡の遠因のひとつになったことも半 兵衛は自覚しているし、そのことに後ろめたさを感じ続けてもいる。 (斉藤竜興殿には、この乱世を御してゆくだけの器量がなかったのだ・・・・)
ということは事実であり、信長と竜興では将器においても才気においても比べるべくもないから、
たとえ半兵衛があの事件を起こさずともいずれ斉藤家が織田家に飲み込まれたであろうことは間
違いない。信長の世になってから美濃で暮らす人々が斉藤家の時代よりも物心共に遥かに豊かにな
っている、ということも現実としてあり、斉藤家は滅ぶべくして滅んだ、とも言えるであろう。 (己の為した悪行を潔しとせず、そのくせその上にあぐらを掻くこともできぬ半端者め・・・・)
このことは苦い想いとして半兵衛の胸の底で疼き続けている。 無論、官兵衛にはそんな半兵衛の心中までは解らない。が、他人の心の動きに敏感な男である。 半兵衛の表情や口調から何事かを察したらしく、藤吉朗に向き直って軽やかに話題を変えた。 「ところで――岐阜さまは、私に中国発向のことをお約束くだされましたが、時期としてはいつ頃 にあいなりましょうや?」 官兵衛にすれば、これは早ければ早いほど良い。 「さてさて、こればかりは信長さまのお腹ひとつでござるがな。近々、越前に討ち入ることになっ ておるし・・・・いずれにせよ本願寺の事が片付かぬうちは、なかなか難しいところでありま しょうなぁ」 あぐらの足を組み替えながら藤吉朗が返した。 「私が播州に帰りましたならば、小寺家が中心となって国衆たちを纏め、播州を岐阜さまのお味方 につけてご覧に入れます」 官兵衛が力強く言った。 「ただし、播州が織田方についたとなれば、必ず毛利から強い圧力が掛かり始めましょう。国衆た ちが毛利に靡かぬようにするには、筑前殿に大軍を率いて頂いて播州に入ってもらうほか方策があ りませぬ。播州入りが一日遅れれば、それだけ織田は中国での利を失う。ここのところをよくお考 えになって、なるべく早い時期に播州に下ってくださるよう、重ねてお願い申し上げまする」 「播州入りのことは、わしからも信長さまに願い出ておきましょう。わしとすりゃ、お許しさえ ありゃぁ明日にでもこの城を発ちたい心持ちじゃ。わしが行くまで、播州の事は何事も官兵衛殿に お任せしますでな。万事よしなにお願い申しますぞ」 藤吉朗は官兵衛の手を取り、いかにも親しみ深げにそれをほたほたと叩いた。
播州経略の担当官という新たな仕事を与えられた藤吉朗にとって、この官兵衛ほど大事な人間はい
ない。播州は中国の入り口であり、織田家の中国征伐の第一歩がまさにこの播州経略であるわけだ
から、その意味で官兵衛は、藤吉朗にとって一身を賭けるべき大仕事の成否の鍵を握る男なのであ
る。地縁も知る辺もない未知の土地に乗り込んでゆかねばならない藤吉朗にすれば、官兵衛を頼り
にしていかねばどうにもならない。 (これほどの男が天下に名も知られずにおったのか) と思えば、世の広さをあらためて痛感せざるを得ない。
藤吉朗は、官兵衛に自分と非常に似た資質を感じ取っていた。知恵、才覚、機略に優れるだけで
なく、織田と毛利の狭間の播州にあって早々と先々を見据え、主家を織田家に投じ入れてしまうそ
の賭博師のような山っ気と度胸は瞠目に値するであろう。官兵衛は口先だけで大名の強弱を論じて
いる第三者ではなく、己の命と主家をまさに賭け物にして大博打を張ろうとしている当事者なので
ある。己の先見に絶対の自信がなければ、とてもそんな危険な賭けはできるものではない。
官兵衛は己自身の立身にはほとんど無頓着で、この点は成り上がることに必死な藤吉朗とは実は
同じではない。しかし、官兵衛はいわば生まれたときから小寺家の一番家老であり、浮浪者同然の
境涯から出発した藤吉朗とは生まれ落ちた場所が違っているから、これを指摘するのは藤吉朗に酷
であろう。 いずれにせよ、藤吉朗は官兵衛に自分と同質の匂いを嗅いだ。 (この男は信じるに足る) と思ったし、思った以上は官兵衛に出来うる限り密着し、その心を執り、自分の手足にしてしま おうと密かに決意した。 官兵衛に宛て、 「その方の事は、わしの弟の小一郎同然に思っているから――」 としたためた藤吉朗の有名な手紙が残っているが、手紙のやり取りをひとつとってもそんな調子 で、あるいは神前で義兄弟の契りを結んでみたりと、藤吉朗はこの夜以降、官兵衛に対して常に満 腔の好意と信頼を示し、その心を執ろうとし続けた。
藤吉朗のこの努力は、結果として概ね報われたと言うべきであろう。 この男に出会えたことは、その後の藤吉朗にとって大きな財産になったと言っていい。
小一郎は、この宴席に連なりながら官兵衛という男を注意深く観察していた。 (要するに、美濃を取るときに兄者がやったことを、播州においてこの男がやるということ か・・・・)
途轍もなく危険な役割である。そう思えば、この男の度胸の良さと肝の太さに感じ入らざるを
得ない。 (半兵衛殿とは、おそらくそのあたりが違う・・・・)
半兵衛にはどこか君子のような風韻があり、その人柄は水のように淡々とし、自分の影響力の中
に他者を取り込んでその色を変えてしまうというような押し出しの強さがない。それは欲心の無さ
から来ているのかもしれず、腺病質な体質が象徴するように人間としての生命力の弱さから受ける
印象なのかもしれないが、善くも悪くもそれが半兵衛の個性であり、それゆえに小一郎も藤吉朗も
半兵衛の言葉であれば無条件でそれを信じることができ、一切の警戒心を持つ必要がなかった。
ところが、官兵衛に対しては、小一郎はどこか身構えている自分を感じていた。官兵衛が発す
る圧力を、無意識に押し返そうとしてしまうのかもしれない。 後日、小一郎はそのあたりのことも含めて、半兵衛が官兵衛をどのように評価したのか、その印 象を尋ねてみた。 「あれは――良い男ですよ」 と、半兵衛はさらりと言った。 「話す言葉にいちいち実(じつ)がある。舌先三寸で世を渡る小才子とは違いましょう。そういう 者なら、殿はすぐに見抜かれる。ああも高くはお買いにならぬはずです」 確かに藤吉朗は、人を見る目は卓越している。 「官兵衛殿は、黒田家や小寺家をその背に背負って話をしている。そうせざるを得ないお立場にあ りますからね。何も背負っていない私などとは、その点で違うのですよ」 半兵衛は、家もしがらみも何もかも投げ打って一度は浪人し、世を捨てて隠棲し、乞われるまま に身ひとつで藤吉朗に随身した。その後、藤吉朗が湖北の王になるに及んで家禄を受けはしたが、 気持ちの上では昔と変わらず、身ひとつで仕えている。「何も背負ってない」とは、そういうこと なのだろう。 「半兵衛殿は、潔いですなぁ」 小一郎が言うと、 「潔いというのとは違いましょう。ただ、器が小さいだけです」 半兵衛は自嘲でもするように苦く笑った。
播磨に帰った官兵衛は、その広言の通り、別所氏、赤松氏など播磨の豪族たちを説き伏せ、天正 三年十月、これを引きずるように上洛させ、信長に拝謁させるという離れ業をやってのけた。この ことによって播磨は織田の分国になった、というのは先にも触れたが、「播州には小寺官兵衛とい う働き者がいる」というのは、織田家では少なからず評判になった。
しかし、播磨の豪族たちが織田についたことが知れると――これも官兵衛の予想の通りだ
が――毛利方の巻き返しが目に見えて活発になった。ことに天正四年に足利義昭が備後の鞆(と
も)に移ると、毛利方は大いに力を得、織田家に敵対することを隠さなくなったから、播磨の豪族
たちはたちまち動揺し、再び旗幟を不鮮明にし、むしろ義昭を奉戴する毛利に傾く向きが日増しに
大きくなっていった。 官兵衛は、孤立したこの状況でも初心をまったく揺るがせにせず、ほとんどたった一人で「織田 に味方すべきである」と周囲を説いて回っているわけで、その振る舞いは播磨の豪族たちから見れ ば、あるいは狂人のように映ったかもしれない。
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