歴史のかけら
7
本丸の屋敷を指して藤吉朗は陽気に歩き出した。 「半兵衛殿、風呂を召され候え」 藤吉朗があふれる好意を丸出しにした顔で言った。 「戦陣の事とてろくなお持て成しもできませぬが、風呂だけはなかなかのモノを拵えてござる。もっとも、 女に垢を擦らせるわけにはゆきませぬがの」 墨俣の砦は実用一点張りで、本丸館といえどもごく殺風景な作りになっているのだが、風呂好きの藤吉朗は浴 室だけは入念に作らせている。前線である墨俣砦に女っ気がまったくないのは致し方ないことであるにしても、 この時代、風呂を振舞うというのは客人に対する最高の馳走の一つだから、藤吉朗がいかに半兵衛を大切に思っ ているかということを、そういう形で表して見せたのであろう。 「皆とはその後にお引き合わせいたそうほどに、まずまずゆるりとお入り下されよ」 早う早うと騒がしく半兵衛を風呂場に送り込むと、藤吉朗は戦場のようにテキパキと指示を出し始めた。 「広間に火鉢を6つ据え、それに炭を山とくべ、抜かりなく部屋を暖めよ。半兵衛殿が別室で落ち着か れ、装束を調えられたら、まずは茶をお出しせよ。茶菓子は尾張のかき餅を進ぜよ。主立つ者に広間に 集まるよう伝えよ。半兵衛殿と皆が対面した後はそのまま酒宴にするで、酒と肴の用意を怠る な・・・・」 と、実にうるさい。
なぜ半兵衛がこの墨俣に現れるのか――?
小一郎にすれば聞きたいことは山ほどあるのだが、これらの雑用を宰領するのが小一郎の仕事になるから、ろ
くに事情の説明を聞くゆとりがない。 「半兵衛殿には、我が師になっていただくのよ」 と、それだけを小一郎に告げた。 「はぁ? 師っちゅうのは、師匠っちゅうことか?」 「そうじゃ」 「・・・ははぁ。またそりゃ・・・」 相変わらず突飛なことを考え付く、と小一郎は呆れる思いであった。
竹中 半兵衛 重治と言えば、とてもではないが兄程度の人間が子飼いにできる相手ではない。今は浪人してい
るとはいえ「西美濃三人衆」とも縁の深い美濃の大物であり、あの信長が欲しがっているほどの男なのであ
る。稲葉山城を支配していたときは美濃半国30万石もの値が付いたし、浪人してからも信長は千石を越える禄を
提示して招聘していたらしい。 (欲のない男ほど扱いにくい者はないと言うが・・・) それほどの半兵衛をこの墨俣に連れて来たのだがら、それだけでも大したものと言わなければならないだろ う。 (口八丁というか、こりゃ兄者ならではのお手柄じゃなぁ・・・)
苦笑しながら小一郎は思った。 (まぁ、どっちにしても、半兵衛殿が織田家に随身してくれりゃぁ、信長さまもお喜びになられるで・・・)
藤吉朗の狙いを、小一郎は勝手にそう解釈し、納得した。
「ともかく、半兵衛殿は織田家の大切な客人(まろうど)であり、わしの師になって頂くご仁である。粗相が あってはならぬゆえ、皆もそのことはよくよく心しておいてくれやい」 と言い渡した。
やがて、こざっぱりとした小袖に着替えた半兵衛が、小姓に案内されて現れた。 (これがあの、竹中半兵衛か・・・)
この場にいるすべての人間が、同じ感想をもったに違いない。 藤吉朗は自ら座を立ち、手を取るようにして半兵衛を広間に招き入れ、 「ささ、ずっと奥に。いやいや、どうぞ上座に参られよ」
と、部屋の最奥へと導いた。 半兵衛も、さすがに遠慮したのであろう。 「とんでもないこと。いや、上座などには座れませぬ」 と、細い声で断わった。 「遠慮なさることがござろうかい。半兵衛殿は、我が師でござる。弟子の上座に座るが当然、当然」
対照的に大声の藤吉朗は、おどけたような所作であくまで上座を勧める。 「木下殿、私のごとき若輩者を困らせるようなことを言うものではありませぬ」
と言った。 (竹中半兵衛がいったいどれほどのもんじゃ!) と反感をもって見ていた人々の緊張がふと緩んだ。 「ほぉ、智者は困らぬものと聞いておりましたが、三国一の智者であられる半兵衛殿でも、困ることがおあ りですか」 「私はそのような者ではありませんよ。まだまだ修行が足りぬからこそ、このように困っております。今日のと ころは木下殿の勝ち、ということで、もうご勘弁くだされ」 藤吉朗はさも嬉しそうに笑い、 「こりゃぁ、皆のおかげで、どうやら師から一本取ることができたわい」 と言って踊るような足取りと飄げた所作で半兵衛を上座に導き、 「しからば、恐れ多きことながら、この場は師と対等に」 まず自分が腰を下ろし、隣に半兵衛を座らせた。
それはあたかも、一幕の舞台を見ているようであった。 (兄者は上手いもんじゃ・・・) と思うと同時に、 (半兵衛ちゅう人も、年若いが相当な人物じゃな・・・)
と、小一郎は舌を巻く思いであった。 (なんの若造ふぜいが・・・)
と、この場にいる全員から反感を買い、その反感は藤吉朗に対する不満に変っていたかもしれず、いずれにし
ても彼らの心に拭い難い不快感を与えていたであろう。 「竹中半兵衛とは、本来、わしの上座に座るほどの人物である」
ということを実像を通して理解させようとしたのであろう。 (まるで、あらかじめ打ち合わせでもしてあったようではないか) この二人の呼吸の合い方というのは、そうとでも思うしかしょうがない。 「いずれ折りを見て、半兵衛殿を信長さまの元にお連れ申し上げるつもりでおるが、しばらくはこの墨俣砦でご 滞在いただくことになると思うで、皆もそのつもりでおってくれやい」 藤吉朗は宣言するように言い、横にいる半兵衛に目で促した。 「竹中 半兵衛 重治と申します。ご厄介になります」
半兵衛は短く挨拶し、折り目正しく辞儀をした。陽気さや人懐っこさといったものは感じられないが、凛とし
た空気を纏っている割りには尊大ぶったところが少しもなく、その挙措や面つきはいかにも涼しげで、見ていて
むしろ気持ちが良い。 対面が終わると、小一郎が手配した通り小姓が膳と酒を運んで来、酒宴になった。 「今日は心祝いじゃ。みな存分に飲んでくれ。さぁさぁさぁ、誰ぞ唄えや。唄えば舞わずば済むまいぞ」
藤吉朗は、座持ちの名人である。天性陽気なこの男は騒ぐことが大好きで、たいして飲めもせぬくせに気軽に
座を回り、人に酒を注いでは陽気に笑い散らしている。
小一郎は酒を干しながら、溢れるほどの興味を持って半兵衛を観察していた。 「半兵衛殿、一献・・・」 小一郎は半兵衛の前まで歩み寄り、その盃に酒を注いだ。 「これは痛み入る」 半兵衛は目礼し、酒を受けると盃を一息に干した。 「木下殿の御舎弟の、小一郎殿でありまするな」 「はい。半兵衛殿のご高名は、兄者からよう聞かされておりました。どうぞご昵懇に願いまする」 返杯と一通りの挨拶を済ますと、 「木下殿は、いつもあのようですか?」
と、半兵衛は小一郎に尋ねた。 「いつもあのようでござりまするよ」
小一郎は苦笑して言った。 「・・・面白いですね。いや、実に面白い」 目元を少しばかり赤く染めた半兵衛が言った。 「あの仁が、侍であるというのがいかにも味わい深い。世に武士というものが現れて以来、木下殿のような侍が、 果たしておったものかどうか・・・・」 「そりゃぁ、おりゃしませぬでしょう」 小一郎は生真面目に答えた。 「ご存知かどうか、恥ずかしながらわしも兄者も、尾張中村の百姓の子でござります。百姓の子が、足軽ならば ともかく、一手の大将になったという話は、古来聞いたこともござりませぬで」 「いやいや、私が言っているのは、出自のことではないのです」 「・・・とは?」 「いや、もちろん、出自やこれまで辿ってきた生き方というのも、あの木下殿の人物を創り上げる上では大いに 関わりがあったとは思うのですが・・・」 半兵衛は考え込むような素振りをした。首を軽く傾け、一語一語慎重に言葉を選ぶように口だけをもぞもぞと 動かしていたが、やがて諦めたのか、 「・・・どうも、短くは言い表せませんね」 と言って苦笑した。 「いずれにせよ私は、小一郎殿のあの兄上殿のやること為すことが、面白くて堪らないのですよ。あのご仁を見 ていたくて、こんなところまで付いて来てしまったようなものだ」 陰のない笑顔を浮かべる半兵衛の瞳に、好奇の光が輝いていた。 快い酩酊の中にある小一郎は、あるいは半兵衛が自分と非常に似たタイプの人間であるかもしれないと、心の 片隅で思ったりした。
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