歴史のかけら
69と、老人が言った。
姉川の河口――琵琶湖へと流れ込むあたりの姉川北岸に錦織村という集落があるのだが、その村
の正念寺という古刹の庭に面した書院で、小一郎は老人と茶飲み話をしていた。常のことだが、領
内の民情視察のついでに立ち寄ったのである。 「藤堂――という姓をお聞きでないかな?」
と、良譽上人は続ける。 「藤堂。・・・・はて。覚えませんなぁ」
聞き覚えがない。 「陪臣ながら織田さまに仕えてすでに数年、幾度か手柄も立てたと本人は吹いておったが・・・・。 いやいや、しょせんは足軽にも大差のない下士のことゆえ、尊公のお耳にまでは達しておらぬのや もしれんなぁ」 それなりに立派な袈裟を纏った良譽上人は、骨と筋と皮のみで出来ているか思えるほどに細い指 で茶碗を捧げ、ゆったりと煎茶を飲み干して喉を湿らせた。 「佐和山から南に二里ほど下ったあたりに、藤堂村という在所がありましてなぁ。由緒や先祖は知ら んが、藤堂というくらいじゃから辿れば氏(うじ)は藤原じゃろう。まぁ、そういう意味では藤堂 家はなかなかに古い家なんじゃろうが、湖北で浅井が興り、守護の京極家が零落して後は浅井の被 官(家来)になっておった。さしたる人物も出んかったのか、目立った働きも聞かなんだな。その 藤堂の息子が――与右衛門(よえもん)という名なんじゃが――先日ふらりとこの寺にやって来て、 羽柴の殿さまの事、家中の人物の事などを、色々と尋ねていきおった。浪人し、仕えるべき主(あ るじ)を探しておるらしいのじゃな。その顔相・骨柄を見るに、これが只者ではない」 落ち窪んだ眼窩の奥で、黄味掛かった瞳がにたりと笑った。 「身の丈、六尺二、三寸(約百九十センチ)にもなろうかという大男でな。年は二十一と言うてお ったからまだ若いが、なかなか出来た面構えをしておったよ」
老人が本人から聞いたという話では、その藤堂与右衛門は、浅井の武者としてあの『姉川』の大
戦で初めて戦場に立ったのだという。十五、六の初陣で、見事に兜首を挙げ、浅井長政から感状を
賜ったというから、その武勇は並々ではない。槍の腕前はもちろんだが、何より常人離れした勇気
の持ち主なのだろう。その後、事情があって浅井家を去り、織田家の武将の元を転々としていたら
しいが、仕える先々で戦があるたびに功名を立てたという。 「いやいや、ただ大力を自慢とする阿呆であれば取るに足らぬ」 老僧は軽くいなした。 「あの与右衛門――会うてみれば解るが、弁舌が涼しく、挙措は礼に適い、眼に何やら異彩がある。 さらに言えば、耳が良いな。尊公もなかなかの福耳じゃが、与右衛門のあの大耳には及ばんじゃろ う」 「ご上人さまは人相観(にんそうみ)をなさいますか」 小一郎がからかうように言うと、 「別に学んだわけではありませんがの。長う生き、幾万という人間の顔を眺めて暮らしてきた。 まぁ、勘じゃな」 老人は乾いた声で笑い、開け放たれた障子窓の方に顎を向けた。新緑がはじける庭はやけに明る く、柏の大樹と苔むした大きな庭石が見える。 「今の世は、百姓が望めば国主にもなれるという乱世――」 藤吉朗のことを皮肉っているかもしれないが、口調に毒はない。 「あの与右衛門、運を得て天・地・人あい揃えば、末は一国一城の主にもなる器と見たが・・・・。 まぁ、これは拙僧の僻目(ひがめ)かもしれぬ」 小一郎は俄然、興味を持った。 「ご上人さまがそこまで申されるほどの人物とあれば、これを野に捨てておくは羽柴家にとって大 いなる損。是非会うてみたいものですが・・・・」 「しばらくは長浜の旅籠に逗留すると言うておったが、もはや去ったか、故郷にでも引っ込んだや もしれぬなぁ」 「探してみることにしましょう」
優秀な人材の登用は羽柴家にとって最大の関心事でもある。
長浜城下の主立つ旅籠に通牒し、とりあえず宿帳を改めさせると、件の男はすでに旅籠を引き払
っていた。 「藤堂 与右衛門 高虎と申しまする」 長浜城の二の丸にある小一郎の屋敷に招かれた与右衛門は、諸国を渡り歩いている浪人とは思え ぬこざっぱりとした装束で現れ、着座するや礼儀正しく拝礼した。 「ご足労をお掛けしましたな。まずまず頭を上げ、お楽になさってくだされよ」
小一郎が声を掛けると、若者はすいと威儀を正した。 「良き主(あるじ)を探して、諸国を巡り歩いておられるとか・・・・」
と、小一郎は話を振った。 「いや、お恥ずかしい限りでござる」
与右衛門は心底恥ずかしげに下を向き、小一郎に問われるままにそのあたりの事情を語り出し
た。
与右衛門――藤堂高虎は、十六歳で元服と同時に父が属していた浅井家に仕え――多くの豪族や
地侍の子弟がそうするように――浅井長政の小姓として小谷城に上がった。その体格と膂力は少年
の域を遥かに超え、『姉川』の初陣で兜首を挙げたことで浅井長政を喜ばせ、感状と脇差を賜った。
与右衛門はこれに感激し、長政を生涯の主君と決め、その後も合戦のたびに勇戦した。
与右衛門が駆け込んだ山本山城は、琵琶湖畔に築かれた小谷城の西の出城であり、これを守る阿
閉貞征は浅井の重臣である。山本山城で織田と戦うことは、間接的ながら浅井長政のために働くこ
とにもなるであろう。織田との戦で手柄を立てれば、その功によって罪を許される、ということも
あるかもしれない。
ところが城主の阿閉貞征は、半兵衛によって調略され、浅井滅亡の直前に織田家に寝返ってしま
う。
磯野員昌は『姉川』で浅井勢の先鋒を務めた猛将で、重要拠点である佐和山城を守っていたが、
丹羽長秀に半年包囲されて兵糧が尽きたために織田家に降伏した男である。信長は武勇の誉れ高い
この男の帰順を喜び、湖西の高島郡・数万石を与えて優遇した、ということはこの物語でも以前に
触れた。
ところが、今度はこの磯野員昌が、この天正四年二月、信長によって無理やり隠居させられてし
まう。 (わしは員昌さまを主と決めたが、あの小僧っ子を己の主とした覚えはない)
何にもまして、実際に接してみて織田信澄という新しい主との肌合いの違いにほとんど絶望
した。
じっくり話を聞いてみると、なるほど与右衛門が四度も主を変えたことにも、それなりに同情す
べき事情があり、この男なりの道理もある。 (なるほど、これは・・・・) 良譽上人が評していた通り、槍働きしかできぬ猪武者では到底なさそうである。 「主は、選ぶべきものとつくづく思いました。拙者はその時その時、その場その場でそれなりに懸命 に働いてきたつもりではありましたが、重ねた働きも主を変えるたびに虚しゅうなり、ついにはこ の歳になっても無禄の浮浪人。父祖や親類にも肩身が狭く――いや、お笑いくだされ」 与右衛門は自嘲するように言ったが、少しも卑屈な素振りは見えなかった。 「それで与右衛門殿は、五度目の主をお探しか」 「はい」 「我が主・羽柴筑前守は、貴殿の目にはどのように映っておられますかな?」 藤吉朗は仕えるに足る主人であるか――羽柴家に仕える気があるか――と聞いてみた。 「いや、これは――」 与右衛門はとっさに質問の意味を悟り、 「お会いしたこともない筑前守さまがいかなるご仁であるか――筑前守さまの御弟君であられる秀長 さまを前にして、伝聞だけを頼りにあれこれ申すわけには参りませぬ」 慎重に言葉を選んで再び話し始めた。 「四、五年前とは違い、織田さまは今や天下人。その織田さまのご家中で、これはと思う大将にお 仕えしたいものじゃと、この二月ほど、近江、越前などを歩いておりました。柴田さま、明智さま、 丹羽さま、佐久間さま、さらにご当家・羽柴筑前守さま――いずれ劣らぬご立派な御大将であると 存じますが――ただ、肌合いはそれぞれに違いまするな」 与右衛門に言わせれば、主を決めるためのもっとも重要な要素は、馬が合う、合わぬ、というと ころに行き着くものらしい。 「己の身命を賭してお仕え申す以上、『この殿のためならば命もいらぬ』と思わせてくれるほどの ご仁に仕えてみとうござる。が、拙者のような情けなき浮浪の境涯では、そのような雲の上の方々 をこの目で拝する機会もなく、直に言葉を掛けて頂くこともできず、結局のところ、決めかね ておりました」 そういう思慮深いところも、物事に対して慎重居士な小一郎にとっては好ましく映る。 「それでは、己のその目で見てみられると良い。お望みならば、わしが殿に与右衛門殿を推挙致そ うほどに――」 「いや、それはご勘弁願わしゅう」 小一郎の好意を、意外にも若者が遮った。 「万一、筑前守さまに御意を得ますれば、筑前守さまがいかなるご仁であろうとも、拙者のような 者が仕官をお断りするわけには参りませず、これは結局のところ、出たとこ勝負の大博打というこ とにあいなりまする。拙者は主運に恵まれぬ者でござれば、そのような博打は打ってみたいとは思 いませぬ。それよりも、同じ羽柴家にご厄介になるとなれば、いっそ秀長さまにお仕えしとうござ る」 予想もしなかった言葉である。 「わしに――と?」 与右衛門は頷いた。 「秀長さまならば、僭越ながら拙者はこの目でご尊顔を拝し、この耳でお声を聞き、数々のお言葉 を賜ってござる。その上で秀長さまにお仕えするとなれば、これは拙者自らが決めたことであり、 後々まで後悔するようなことがないように思われまする」 羽柴家に仕官を求めた数百人の侍で、こういうことを言った者は他に一人もいない。 (それにしても、何ちゅう理屈っぽい男や・・・・) 十五も年下の若造の分別臭い顔が、小一郎には可笑しかった。 「わしに仕えるということは、羽柴家の陪臣(家来の家来)であり、織田家にとっては陪々臣とい うことになる。それでもよろしいのか?」 「結構でござる」 自らの決意を表明するように、与右衛門はずしりと言った。 「あい解った。わしに異存はない。喜んで召抱えさせて頂こう。されば、まずは禄を決めねばなら んな・・・・」 小一郎はとっさに懐具合を勘定しようとしたが、与右衛門はそれさえさせなかった。 「家禄は、当分は無禄で結構。まずは拙者を、しばらく秀長さまのお傍近くで使うてみてくださ れませ。その上で、拙者の値段をあらためて決めて頂きとうござる」
言うことがますます面白い――と、小一郎は思った。 「よう解った。貴殿の望むように致そう」 小一郎は、さしあたって長屋の空き部屋をこの若者に与え、しばらくその働きを近くで観察し、 与右衛門の器量を見極めてみることにした。
これは後に解ってきたことだが、藤堂 与右衛門 高虎は、その自信に決して劣らぬ器量の持ち主
であった。槍働きはもとより、戦術眼に優れ、部隊指揮も上手く、ほどなく始まる中国征伐で一軍
の大将になった小一郎を支える強力なブレーンになった。 余談になるが―― 豊臣秀吉の死後、藤堂高虎は豊臣家をいち早く見限って徳川家康に接近し、『関ヶ原』の戦後は 徳川家の家来のようになり、『大阪の陣』でも豊臣家の滅亡のために軍功を重ね、最終的に伊勢の 津で三十二万石の大大名になっている。豊臣氏に多大な恩をこうむった大名でありながら、いち早 く豊臣を捨てて徳川に寝返ったことは後世の多くの人から非難をされるが、むしろ、あの猜疑深い 家康から絶大な信頼を勝ち得たというその事実から、この男の人物を推し計るべきであると思う。 藤堂高虎は、少なくとも小一郎が死ぬまでは――あるいは小一郎が死んだ後、家を継いだ養子の 秀保がほどなく死に、秀吉によって大和大納言家が取り潰しになる瞬間までは――小一郎に無二の 忠節を尽くし、誠心誠意仕えていたことは間違いない。高虎は、小一郎の養子の秀保が死に、大和 大納言家が取り潰されると、すべての禄を投げ打って浪人し、高野山に上って出家までしているの である。その将才を惜しんだ秀吉から呼び返され、その命によって還俗させられ、秀吉の直臣とし て大名に戻っているが、この男の誠実さ、ある種の純情さは、認めてやらねばならないであろう。 ともあれ、この天正四年の春、小一郎は、本邦の戦国史に大きな足跡を残すゆゆしき人材をその 幕下に加えることになった。
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