歴史のかけら
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まず四月、信長は、再び兵を挙げた本願寺・三好三人衆を討つために大阪表に出陣している。
続いて五月、奥三河に侵入して来た武田勝頼を討つために、三河の長篠城へ出向いた。
さらに八月、信長は再び主力を大動員し、今度は北方の越前に総攻撃を掛けている。 「府中町は死がい計(ばかり)にて、一円あき所なく候。みせたく候」
と信長自身が京の村井貞勝に宛てた手紙に書いた通りであったろう。 藤吉朗率いる羽柴勢は、四月の摂津、五月の三河の戦陣にも動員され、それぞれでそれなりの働き を見せたが、今度の越前攻めでは先鋒を命じられ、明智光秀、細川藤孝、稲葉一鉄、簗田(やなだ) 広正と共に全軍の先頭を進み、敵の拠点を次々と落とし、抜群の戦功を挙げている。越前平定後は余 勢を駆って加賀まで攻め入り、信長が残党狩りや戦後処理や築城などに熱中している間に、加賀半国 を攻め取った。
ちなみに小一郎は、この戦陣のいずれにも参加していない。 天正三年はこうして忙しく過ぎ去り、仕事がやっと落ち着いた頃には秋もよほど深まっていた。
羽柴勢が越前から小谷に帰国した九月の末、慰労のために開かれた酒宴で、前野将右衛門が小一郎 に不満をぶちまけた。 「先年より敦賀を守り、戦陣の苦労を重ねて一揆の奴輩(やつばら)を防ぎ続け、此度の越前討ち入 りでは先手として手を砕き、遠く加賀まで攻め入り、その半国を攻め取った功名の第一は、我らでは ないか。のぉ、小一郎殿、家中にこのことを知らぬ者はないはずじゃ。わしの言うことは間違って おりますかの?」 かなりの深酒をしたようで、すっかり目が据わってしまっている。 「しかるに信長さまの此度のなさりようはどうじゃ。共に働いた梁田殿が加賀一国をもらっておるの に比べ、我らへの恩賞はあまりに薄うござるぞ。まして柴田さまなぞは、織田家譜代の家老(おとな) とはいえ、越前でどれほどの働きがあったというんじゃ・・・・!」 将右衛門は、今回の戦の恩賞に不満があるらしい。
平定した越前は、十二郡――実に五十万石近い大国である。さらに藤吉朗らが奪った加賀二郡十五
万石ほどがこれに加わり、織田家の領地は一挙に六十万石ほども増えた勘定になる。
奇妙と言えば、確かに奇妙な論功行賞であった。 「将右衛門、もう愚痴は申すな。わしまでまた虫が起きるわ」 藤吉朗が苦々しい顔で吐き捨てるように言った。相当頭にきているのだろうが、信長に対する批判 だけは口にしない。 「信長さまには、深いお考えあってのことなのじゃ。権六殿(柴田勝家)に北の切り取りを任せたよ うに、わしらにも後日、また大きな働き場所を与えてくださるに違いないわ」 「殿の申される通りです。岐阜さまが殿に下された『筑前守』の官位こそが、その証しと思われれば 良い」 半兵衛が意味深な言葉でたしなめた。将右衛門に向かって言ったというよりは、藤吉朗の気持ちを 慰めるための発言であったのかもしれない。 従五位下・筑前守は、信長がこの七月、朝廷に奏上して叙任された藤吉朗の官位である。田舎の大 小名や豪族たちが、何々守とか何々介とか勝手に名乗っている官名とは違い、朝廷から下された正式 な官職であり、守護大名並みの格式を与えられたと考えていい。 同時に信長は、家中の主立つ重臣にそれぞれ官位や名族の氏姓を贈っている。
<武官>
<文官> 譜代の重臣の中で、丹羽長秀と佐久間信盛だけは除目(じもく)から漏れた。丹羽長秀は、「一生、 五郎左衛門のままで結構でござる」と言い張って、信長がいかに勧めても官位を受けなかったという。 佐久間信盛に関しては理由がよく解らないが、あるいは同様のことを直訴したのかもしれない。
この時期の織田家の武将をあえて石高でランク付けすれば、越前を与えられた柴田勝家が飛びぬけた
重臣筆頭、新参の明智光秀がこれに続き、丹羽長秀、佐久間信盛、藤吉朗、滝川一益がその後を追う
形になっている。摂津の切り取りを任された荒木村重、同じく大和を任された塙 直政、加賀を与え
られた簗田広正の三人が、新たに出世コースに乗ってきた武将と言えるであろう。
こういう人事構想を、信長はいちいち言葉で説明しない。 「先日、お歴々が叙任された官位を考えますと、筑前、日向、肥前などはみな九州の国。伊予は四国。 また、惟住、惟任、戸次などは、いずれも九州の名族の姓です。岐阜さまは、中国、四国、九州と、 いずれ西の果てまで征伐なさるおつもりであるということを、そういう形で天下に示されたのでし ょう」 信長は、東方より西方に向かって勢力の伸張を考えていたのであろう。東方の強豪・上杉氏、武田 氏に対しては、これまで平身低頭としか言いようがない低姿勢でその機嫌を取り、徹底した媚態外交 を展開してきた。上杉謙信とは未だ友好な同盟関係を保っているし、信玄西上によって武田氏との友 好関係は壊れたが、「長篠の合戦」以降は武田氏の威勢が衰えたこともあり、その押さえを同盟者の 徳川家康と息子の信忠に任せ切っていたフシがある。 「此度、柴田殿が北国管領の地位に就かれたことで、北――つまり越後の上杉家と対決するにおいて は、柴田殿が大将になると決まりました。明智殿は京の北――丹波の切り取りをすでに始めておりま すし、塙(直政)殿は大和の切り取りで手一杯。大阪の本願寺には佐久間殿と荒木(村重)殿が当た られておりますが、本願寺が片付くまでは四国へは渡れぬでしょうから、つまり、残る重臣の中から、 中国征伐の大将が選ばれる、ということになる」 「中国――!」 将右衛門が目を輝かせた。 「なるほど。半兵衛殿は、我らが殿が、いずれ毛利討伐を命ぜられると、こう申されておるのです な」 蜂須賀小六が先回りし、半兵衛は微笑でそれに応えた。 毛利氏は――良好な友好関係を保ってはいるが――織田家にとって最強の仮想敵であろう。山陰山 陽に十ヶ国という巨大な版図を持つ、関東の北条氏にも伍する西日本最大の大名である。 「強大な毛利と戦う大将といえば、織田家数万の侍を見渡しても我らが殿を措いてありますまい。殿 は毛利家の申し次ぎもしておりますし、家中に殿ほどの彼の地の事情に通じた方はおられませんしね。 時期はもう少し先になるでしょうが、岐阜さまの心中には、いずれ殿を中国に――というようなお考え があるのだと思います」
だから越前は柴田勝家に与えたのだ、と言われれば、そう悪い気はしない。
藤吉朗と毛利氏の縁は、実は浅くない。 話のついでに、毛利氏について触れておくのも無駄ではないであろう。
中国の覇王とでも言うべき毛利家は、元就(もとなり)という男が一代で創り上げた。
そもそも毛利氏は、源頼朝の知恵袋を務めたことで名高い大江広元の末裔といういわば学者の家系
で、元就の父の代まで安芸国(広島県)吉田庄を治める歴とした地頭であった。その領地は三千貫と
いうから、戦国風の言い方をすれば二万石ほどの小大名、あるいは大豪族であったと思えばいい。
その頃――永正十三年(1516)というから、信長が生まれる三十年も前である――安芸国は、中国地
方で覇を競う強大な二大勢力の草刈り場のようになっていた。周防(山口県)に本拠を置き、北九州
から山陽地方に掛けて巨大な版図を持ち、当時の日本でもっとも富強を誇った守護大名・大内氏と、
出雲に本拠を置き、山陰を支配する新興の戦国大名・尼子氏が、安芸の争奪を巡ってぶつかり合って
いたのである。
その元就が五十九歳になった時、大内氏の内部で陶隆房という重臣がクーデターを起こし、家を乗
っ取るという大事件があった。元就はこの機に大内氏から独立し、さらに陶隆房と敵対し、謀略をも
ってこれを狭い厳島におびき寄せ、二万の敵軍をわずか四千の兵で打ち破り、一気に陶隆房の首を
取った。この戦いを「厳島の合戦」と言い、戦国の三大奇襲作戦に数えられる。 毛利家の版図は、本領の安芸、大内氏から引き継いだ周防、長門、北九州の筑前と豊前に加え、尼 子氏の遺領である石見、出雲、因幡、服属した備後、備中の十ヶ国である。さらに備前の宇喜多氏、 但馬の山名氏、美作の豪族などを従属させているから、その勢力範囲は北九州から中国地方のほぼ全 域に及び、現在の県名で言うと、福岡、山口、島根、広島、鳥取、岡山となる。これに加えて瀬戸内 海の島々を根城とする多数の海賊衆を傘下に収めており、戦国最強の水軍力を持っていた。瀬戸内か ら山陰の制海権を一手に握り、地理的に朝鮮や中国との交易も盛んで、さらに領国には石見銀山をは じめとした良質な鉱床が多く、その経済的実力は三百万石近かったであろう。 元就は、この巨大な毛利王国を築き上げ、元亀二年――この物語の現在から四年ほど前――に七十 五歳の大往生を遂げた。ちなみにこの時、信長から毛利家に哀悼の使者が送られている。無論、その 実務を執ったのは、毛利家申し次ぎの藤吉朗であったろう。
毛利元就は、いわゆる「三矢の教え」で有名であるかもしれない。
毛利輝元というこの若い当主は、後年の彼の事績を見る限り、必ずしも凡庸な資質ではない。「関
ヶ原」のときに家臣に振り回されて決断を誤ったその優柔不断さが彼の評価を低くしているようにも
思えるが、「関ヶ原」の戦後、領地を四分の一にまで大減封された毛利家を見事に経営し、明治維新
まで続く長州藩の基礎を作ったという実績は、大いに評価されるべきであろう。内政手腕に限って言
えば、祖父の元就をさえ凌いでいたかもしれない。分別があり、忍耐強く、人並み以上の器量もある
人物であったと筆者は考えている。
当主・輝元を補佐する二人の叔父は、いずれも私心のない誠実な人物で、吉川元春はその武勇にお
いて、小早川隆景はその知略において、戦国時代にもそうはいないほどの優れた器量を持っていたが、
それが単に補佐役では、その力を存分に発揮するというわけにはいかないであろう。外交と軍事に独
裁を必要とするこの動乱の時代に、強大な指揮権を持つ英明な当主がいないというのは、毛利家にとっ
ては不幸であった。合議で物事を決めるがゆえに何に関しても速断ができず、積極的な行動を起こす
ことが難しく、危ない橋や危険な賭けはできるだけ避けるという風に、発想や考え方が退嬰的になっ
てゆかざるを得ない。
藤吉朗は、死んでしまった毛利元就という男に関しては多くを知らなかったが、少なくとも現状の
毛利家に関しては、先に挙げた程度の知識を持っていた。 「半兵衛殿なら、毛利をどう攻めなさる?」 酒間の座興という気軽さで、藤吉朗が尋ねた。 「攻めると言っても、毛利は十ヶ国もの大身代、一度や二度の合戦でどうなるものでもありません。 毛利領の東――播州あたりの大小名を切り崩し、お味方につけてゆくところから地道にやってゆく ほかありますまい」 実に現実的で面白みに欠ける軍略だが、毛利氏と戦うというのはそういうことなのだろう。 「毛利が岐阜さまに服すなら――岐阜さまがそれをお許しになるなら――戦は五年で済みましょ う。しかし、毛利が岐阜さまに最後まで服さず、あるいは岐阜さまが毛利を滅ぼそうとお考えな ら――これは容易なことではない。中国にある城という城をひとつずつ潰しながら攻め進まざる を得ず、あるいは十年掛かっても戦が終わらぬかもしれません」
近江半国の浅井を滅ぼすことでさえ、三年の歳月を要した。 「十年経ったら、わしゃ四十九か・・・・」
藤吉朗がため息をつくような面持ちで言った。
その十年後、この藤吉朗が天下人になっているのだから、人の世というのは解らない。 天正十年、「本能寺の変」で信長が死んだ後、備中で毛利氏と対陣中だった藤吉朗は、「中国大返 し」と呼ばれる大反転行軍を行って京へ急進し、逆臣・明智光秀を討って信長の後継者になる。その 後、ライバルの柴田勝家を倒して織田家を横領し、徳川家、毛利家、上杉家などを服属させ、一躍天 下人の座に駆け上がったということは、読者もよくご存知であるだろう。
半兵衛は「神の如き智謀の持ち主」と人から評された男だが、その半兵衛でさえ、この天正三年の
段階で十年後の藤吉朗の姿を正確に予見することは、まったく不可能であった。蓋然と必然をどう組
み合わせても、十年後の藤吉朗に天下人を見ることはできなかったであろうし、そんな無意味な空
想――というよりはむしろ夢想――を、真面目に考えてみようともしなかったに違いない。半兵衛は
予言者でもなければ占い師でもなく、一寸先が闇であるのか光であるのかさえ解らないという意味に
おいて、我々とまったく変わらない普通の人間なのである。 そのただの人間が、百姓の子に生まれたという意味ではまさに最下層から這い上がって、ついには 天下を取った。無数の偶然が積み重なり、無数の条件が折り重なって、このただの人間を、天下人にま で押し上げてしまったのである。 それはもはや、人智を超えた天運の巡りとしか評しようがない。
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