歴史のかけら


合戦師

39

 設楽ヶ原で行われた織田-徳川連合軍 対 勝頼率いる武田軍の大会戦は、「長篠の合戦」 という名で後世まで有名になる。
 迫り来る武田の騎馬隊に対し、信長が三千挺の鉄砲隊を三段に配し、入れ替わり繰り替わ って柵の中から間断なく銃撃を浴びせ、これに壊滅的な打撃を与えたというのが、多くの人 に知られているこの戦いの有名なエピソードであるだろう。
 しかし、これは江戸期の創作であり、実際はそう単純なものではない。

 設楽ヶ原というのは丘に挟まれた低湿地で、そこは一面の水田になっており、信長の野戦 陣地の前には連子川という細川さえ流れ、とてもではないが騎馬武者が突撃を掛けられるよ うな地形ではない。騎馬でここを疾駆しようとすれば、田のあぜなどのごく限られた場所を 通る以外になく、しかも敵陣の前には2mを優に越す堅固な馬防柵が延々と築かれており、 これを騎馬でもって飛び越えるなど不可能なことは明白であった。
 この合戦は、いわば野外で行われた攻城戦であり、武田の騎馬武者たちが柵に向かって 猛進するようなことが、あるはずがないのである。

 勝頼は猛将ではあるが、信長の長大堅固な野戦要塞を目の当たりにして、正面からこ れを攻めようとするほどの愚かな猪武者ではない。また武田家の名将たちにしても、大 将のそんな愚策に素直に同意するほど想像力の欠如した無能者揃いでは断じてなかった。

 勝頼は、2kmに渡って築かれた敵の野戦陣地の防衛ラインを迂回し、左右両側からの側面 攻撃を考えた。正面から敵に当たると見せかけ、敵の前面で全軍を『鶴翼』に広く薄く展開し、 展開した左右両翼をそれぞれ先鋒にし、二手に別れて柵の背後に回り込もうと考えたので ある。
 これ以外に、信長の野戦陣地を破る方法はないであろう。

「・・・どうじゃ!?」

 絵図を睨みながら、勝頼は諸将に質した。

「確かに、攻めるといたせばそれ以外方策はござらぬな・・・」

 山県昌景、馬場信春をはじめ、信玄子飼いの重臣たちも頷かざるを得ない。

「されば、長篠城を攻める別隊を3千残し、残る1万2千をもって設楽ヶ原へ 出陣致す! 各々、もはや異論はあるまいな!?」

「陣代殿、待たれよ!」

 発言したのは、故 信玄の甥であり娘婿でもある一門衆筆頭の梅雪入道 穴山信君で あった。

「敵が陣城を築いたる以上、こちらも設楽ヶ原にて陣を敷き、柵を植え、堀を穿ち、土塁を 積み上げ、長対陣に備えるべきかと存ずる。こちらが腰を据えて見せれば、信長も焦れて陣 より飛び出して来るかもしれず、そうなれば互角以上の戦いができましょう」

(この臆病者は何を言っておるのだ・・・)

 勝頼は、この期に及んで守勢論を説こうとする梅雪が腹立たしかった。
 敵と同じように強固な陣を構え、時間を掛けて何ヶ月もの消耗戦をやるだけの余裕がない からこそ、勝頼は一気に勝敗を決する賭けに出ようとしているのである。結局この梅雪という男 は、リスクの高い博打をする気が起きないというだけのことで、できるならば決戦を避け、 それを先延ばしにし、怪我をすることなく国に帰りたいと思っているだけなのだろう。
 しかし、勝頼の辛さは、こういう信玄の兄弟や血縁者や親族たちの機嫌を取らねばならな いところであった。彼らほど勝頼への信服を内心で嫌っている者はなく、この機嫌を損じて しまえば彼らはへそを曲げ、戦場で勝頼のために働こうという気を失くしてしまわぬとも限 らないのである。

「さすがは梅雪殿、ようお気づきなされた。設楽ヶ原に出ればまずは陣を敷き、敵に調略な ども仕掛け、少しでも我が方が有利になるよう心を砕きましょう」

(多少の備えは、敵の夜襲を防ぐことくらいには意味がないでもないか・・・)

 勝頼はそう考え直して自分を慰めたが、臆病者の信長が自分の陣地から絶対に出てこない であろうことを、この自信家は信じて疑わなかった。


 決戦することに決まったとは言え、武田の重臣たちの心境は複雑だった。
 勝頼の言う通り、ここで信長に背中を向けることは、実質的に武田家が織田家に敗れるこ とを意味しているということは理解もでき、納得もしているのだが、圧倒的に不利な城攻め を、敵の三分の一という寡兵で行わねばならないということに変わりはないのである。いかに 織田勢が弱兵であり、武田勢が強兵であるとはいっても、この冷然とした数字の現実は覆うべ くもなかった。
 本心を言えば、誰もが戦わずに本国へ引き返し、国境を固めて守勢に徹したいと思ってい たであろう。その先にあるのが、たとえ緩やかな滅びであったとしても、同じ滅ぶなら故郷の 地で戦って滅ぶことこそ本望であり、見も知らぬ他国の山野に屍を曝したいと思うはずがな かった。
 しかし、勝頼はすでに“楯無しの鎧”に決戦の誓いを立ててしまっていた。
 武田家の先祖の霊に誓いを立てるこの行為は、武田家の家臣にとっては絶対服従の強制を 意味するものであった。もはやいかなる反論の余地もなく、決戦自体を避けることはでき なかった。

 信玄の一門親族衆の多くは、この決戦の不要を内心で嘆き、決死の覚悟などというものは 最初からひとかけらも持ってはいなかった。
 一方、信玄に拾い上げられた叩き上げの武将たちは、この無理な決戦を人生最後の、武田 家への――というよりは、信玄個人への――恩返しであると心を決め、百に一つの可能性を こじ開けるために死に狂いに働き、死中に活を見出そうとしていた。

 勝頼自身に心から信服し、勝頼のためにその馬前で喜んで死んでやろうという決死の武者 がいないということが、勝頼にとっての最大の不幸であったであろう。


 天正3年(1575)5月20日、武田勢は寒狭川を越え、織田-徳川連合軍の野戦陣地のわずか 数百m手前に布陣した。敵陣――西に向かって全軍を広く薄く展開させた勝頼は、さっそく 全軍に野戦陣地の構築を命じ、にわか作りながら空堀を掘らせ、その土を掻きあげて土塁を 築かせた。
 信長は、この好機をあえて黙殺し、全軍を厳しく戒めて柵から一歩も出さなかった。この ことは勝頼の想像通りであり、

(やはり信長は、自分から攻めては来ぬ・・・)

 という確信を深めさせた。

 信長の野戦陣地というのは、実に巧妙に出来ている。
 南北2kmにわたる長大な陣地の南の端は、連子川を渡るための橋が架けられた地点である。 この橋を使って渡河しようとする敵軍に対しては、橋を中心に軍勢を展開し、渡って来る部隊 を順に撃破してゆくことができ、非常に守りやすかった。信長はここに朴強な徳川勢 を配置し、当然行われるであろう敵の迂回攻撃に備えた。武田勢がさらに南下して戦場を大 回りに迂回しようとしても、その先には川幅広い豊川が行く手を遮ってしまっており、軍勢 としてそれ以上は南下できなくなっている。
 一方北の端はというと、こちらは丸山という小高い丘である。信長はここに佐久間信盛を 主将とした大軍勢を駐屯させ、敵の迂回進入を当然ながら警戒させていた。
 野戦陣地の中央部から北側にかけては織田勢の主力が、南側には徳川勢が、柵に沿ってびっ しりと布陣している。
 信長の本陣は、戦場を一望できる後方の極楽寺山に置かれた。信長は 豊富な予備軍を手元に引きつけ、戦場の状況に応じて臨機応変に要所でこれを投入してゆく つもりであった。しかも信長は、各部隊の鉄砲の名手だけを選抜した1千ほどの狙撃隊を組 織し、これを前田利家、佐々成政ら5人の武将に預け、自分に直属する鉄砲遊撃部隊にし た。
 まさに、必勝の布陣といっていい。

 それに対する武田勢は、最北端に馬場信春、最南端に山県昌景という武田家最強の二 将を置き、これを先鋒隊として北側には真田、土屋などの軍勢を、南側には内藤、原など の軍勢を補助の部隊としてそれぞれ付け、迂回作戦に備えた。
 勝頼は、信長の野戦要塞の北端――丸山こそがこの合戦の鍵を握る地点であると見た。
 丸山という丘を占拠できれば、この高所から敵の要塞内部を手に取るように見渡すことが でき、高所から敵に挑みかかることができ、徳川勢よりもはるかに弱く、粘りがない織田勢 に対して、防御柵を迂回しての直接攻撃をすることができるのである。総大将である勝頼自 身が全軍の中央よりはるかに北寄りに布陣し、そこを本陣にして丸山を攻める馬場信春をサ ポートできる体勢を作った。
 勝頼は、全軍の中央部を、信玄の弟 逍遙軒 武田信廉に任せた。信廉隊は敵に挑みかかる 擬装をし、派手に進退して敵の関心を引きつけ、しかも左右両翼の部隊を根元で支えるとい う重要な役割である。
 しかし、織田-徳川連合軍3万7千に対し、1万2千という武田勢の兵の寡少さはどうする こともできない。これを2kmにわたって配置せざるを得ないために全体として布 陣に厚さがなく、特にもっとも重厚であるべき中央部の薄さは目を覆いたくなるほどであっ た。もし織田勢が、柵から出てこの中央部に突撃してくれば、おそらく紙を突き破るように たやすく全軍が分断されてしまうであろう。

(信長は、柵から出ぬ・・・)

 勝頼は、これを信じざるを得ない。敵将である信長の(勝頼が思い込んだ)臆病さと、敵 軍の織田勢の弱さというものに多くの数字を入れて計算を成り立たせなければならないとこ ろが、寡兵で決戦を挑まざるを得ない勝頼の辛さであったであろう。


 両軍の決戦は、この翌日、天正3年(1575)5月21日に行われた。
 信長が岐阜で家康の救援要請を受けてから、すでに2週間近い時間が経過したということ になるのだが、この部分でも、信長はやはり勝利したというべきであったろう。

 太陰暦を使うこの時代の暦の5月21日は、西暦の7月8日にあたる。
 信長の狙い通り、すでに梅雨は明けてしまっていたのである。




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