歴史のかけら
66正室の濃姫(帰蝶)との間にはなぜか子ができなかったが、資料的に確定されているだけで少なく とも十二男十女をもうけており、相当の数の側室がいたであろうことは間違いがない。
信長は幼い頃から腕白――というよりは手の付けられない乱暴者――で、奇矯な振る舞いや言動が
多く、ついには人々から「大うつけ」と呼ばれるようになった、ということは先にも触れた。
一方、藤吉朗は子宝になかなか恵まれなかったことで知られるが、その方面に対する好みには、信
長のような傾斜は見られない。
藤吉朗が側室を持つようになったのは、京の奉行に抜擢された頃からではなかったかと筆者は考え
ている。証拠はないが、同じく京に長期滞在した村井貞勝や明智光秀は屋敷を与えられているから、
同様に藤吉朗にもそれが与えられたであろうことはまず間違いなく、そこに、行儀見習いとか、身の
回りの世話をするというような名目で、織田家と繋がりを持ちたいと思う公家や地方豪族、豪商など
の有力者が、血縁の娘を差し出すというようなことがあったとしても不思議はない。
この時期――天正三年(1575)の初頭――正妻の寧々はまだ岐阜に留まっている。 その側室たちの中で、この時期の藤吉朗がもっとも気に入っていたのが、「南殿」と呼ばれる女性 であったらしい。小谷城の本丸屋形の南側に局(つぼね)を与えられ、住んでいたことからそう呼ば れたのであろう。北近江の守護であった京極氏の血に繋がる女性であったとも言い、北近江で新たに 召抱えた家臣の娘であったとも言うが、はっきりした出自は解らない。 一般にあまり知られていないが、この南殿が、この天正三年、藤吉朗の子を出産している。
と、藤吉朗が満面の笑みで告白したのは、天正三年の二月であった。 「・・・・まことでござりまするか?」 一座を代表するように、小一郎が恐る恐る訊ねた。 「どうもそのようなことであるらしい。南の者が――」 という言い方で藤吉朗は南殿を呼び、はにかんだ。多少、気恥ずかしくもあり、照れ臭くもあるら しい。 「もう二月ばかりも月のモノが来ぬと言うておった。気分が優れず臥せっておったが、薬師(くす し)の見立ても、懐妊に紛れもなし、と――」 とまで言ったとき、満座に喜びが爆発した。 「おめでとうござりまする!」 と、家臣たちが口々に叫び、 「これほどめでたきことはござりませぬな。お世継ぎご誕生となれば、羽柴家はいよいよ安泰 じゃ」 と蜂須賀小六が笑顔で寿いだ。 「彦右衛門(小六)、気が早いわ。まだ男と決まったわけでもない」 そう言う藤吉朗の顔も、どうしようもなく笑み崩れている。 「半兵衛殿には二年遅れたが、わしにも子種はあったと見える」 藤吉朗の軽口に、 「どうやら私も、そのことばかりは見込み違いをしておったようです」 と半兵衛も軽口で応じ、 「おめでとうござりまする」
満面の笑みであらためて一礼した。 (いやいや、これは思ってもみぬ吉事やったな)
喜ぶ気持ちは小一郎も変わらない。 (わしら兄弟は、子種がないのかもしれん・・・・) なぞと暗い想像をすることもあったが、藤吉朗に子ができたとあれば、それが誤りだったこと になる。 (兄者の働きにも、これでなお一層の張りができよう。あとは赤子が五体無事に生まれてくれるこ とを祈るばかりや・・・・)
出産は、おそらくこの秋から冬に掛けての時期になるであろう。 「ところでなぁ、小一郎」 その夜、小一郎と二人きりになったとき、藤吉朗が言った。 「悪いが、ちと岐阜まで使いしてくれんか」 「は。して、ご用の向きは?」 「いや、寧々にな――子ができたっちゅうことを、ほれ、それとのぉ伝えてやってもらいたい んじゃ」 「はぁ?」 「アレは見かけによらず悋気がきつい。わしがこっちで側室(そばめ)を置いておるちゅうのも内緒 にしておるくらいでな。・・・・・ほれ、解るやろ」 藤吉朗は語尾を濁し、苦笑いで代用した。 「内緒ちゅうたかて――そんなもん、いずれ義姉上がこちらに参られれば、全部バレることやない か」 呆れたように小一郎は反論した。 「んなこたぁ解っとる。じゃから、今のうちにそれとのぉ、お前がほのめかしておいてくれりゃぁ、 寧々もこちらのことをあれこれと思い巡らし、心の備えができるっちゅうもんやろ」
藤吉朗が、他の女を孕ませたという事実を、あの寧々に伝える―― (冗談やない・・・・!) と、小一郎は思った。 「主命とありゃ、地獄の閻魔に使いせえ言われても受けるんが侍なんかもしれんがな。そればかりは お断りや。なんでわしがそんな役を引き受けにゃならん」 「お前(みゃぁ)の他にこんなこと頼める者がおらんで言うとるんや」 「わしは嫌やぞ。兄者が自分で言や済むことや。・・・・ちゅうか、こればかりは兄者が己で言わなな らんことやろが!」
声を発するにつれ、勃然と腹が立ってきた。 「岐阜で待っとる義姉上には何の咎(とが)もない。悋気が収まるまで平謝りに謝り、その恨み言も 聞いてやり、気の済むまで打擲(ちょうちゃく)でも何でもされてやるのが、義姉上に黙って余所の 女を孕ませた兄者のケジメやないか」 「百姓の嫁(かかあ)の話をしておるのとちゃうんやぞ」 小一郎に激されたのか、藤吉朗の声にも怒気が混じり始めた。 「大名が跡取りを作るのは、こりゃ立派な政事(まつりごと)や。わしに子があってこそ、羽柴家に 世継ぎがあってこそ、家来たちは安心して羽柴家に奉公できるっちゅうモンじゃろがい。寧々に子が できておれば、わしも別に他の女を孕ませねばならんことなぞないわ」 (なんじゃその屁理屈は・・・・!) 自分の好色を棚に上げ、寧々の不妊に責任を転嫁しているとしか、小一郎には思えなかった。 「考えてもみい、小一郎。わしに子ができねば、むしろ寧々の方から側室(そばめ)をすすめるのが 武士の妻たる者の当然の作法や。寧々がそれをせんなら、わしに側室を持たせるよう寧々を教導する というのが、羽柴家の老臣筆頭(おとながしら)であるお前の務めやないか。お前がそれを怠ってお るからこそ、わしは寧々に隠れて女を囲わなならんようなハメになっとる」 「・・・・わ、わしのせいやと言うんか・・・・!」
この藤吉朗の言い分は――腹立たしくはあるが――当時の武家の慣習という観点から見れば、間違
いなく正論であった。 小一郎の個人的な想いからすれば、夫婦の閨の中にまで首を突っ込むようなことをするのは頼まれた って嫌だし、そんな厚顔さはそもそも持ち合わせてない。しかし、「羽柴家の世継ぎ」という問題の 重要性を考えた時、主君の正夫人にその手の諫言するのは、確かに羽柴家の家宰を預かる老臣筆 頭(おとながしら)の責務と言えなくもない。 藤吉朗から視線を逸らし、小一郎は奥歯を噛みしめた。 「まぁ、それはええ。何もお前が悪いと言うつもりはない・・・・」 それを見た藤吉朗は、矛を収めるつもりになったのか語気を沈めた。 「じゃがな――今、神仏のお慈悲をもって幸いにも子ができた。このことで寧々が悋気を病むは筋違 いや。筋違いやということを、お前から寧々にやんわりと説いてやってくれと、わしはこう言うとる んや。当事者のわしが直接言えば角が立つ。何を言うても寧々には言い訳にしか聞こえんやろからな。 口喧嘩にでもなれば、子ができん寧々を責めることになってまうかもしれん」 「・・・・・・・・・」 悔しいが、理屈は通っている。この男なりに、寧々の気持ちを思いやってはいるらしい。 「何も今日明日急に子が生まれてくるわけでもない。寧々がこっちに来るのも今浜の城が出来てか らやで、半年ほどは先の話や。今のうちから、それとのぉ匂わせておいてくれるだけでええ。もち ろん、寧々の覚悟が定まった頃合いを見計らって、わしからもちゃんと話はする」 そこまで言われれば、小一郎に返す言葉はない。 「小一郎、羽柴家のためやと思うて、料簡せえ」 トドメを刺すように、藤吉朗が言った。
(気の重い役目や・・・・・)
天気とは裏腹に、小一郎の表情は冴えない。 「ただいま帰りました」 まずはその寧々に向かって丁寧に頭を下げた。 「あぁ、小一郎、やっとかめ(久しぶり)だなやぁ」 久方ぶりに対面した母は、顔をくしゃくしゃにして喜んでくれた。また一段と腰が曲がり、一回り 小さくなって見える。今年六十二になったはずで、この時代の平均寿命から考えれば長生きしてくれ ている。 「母ちゃん、達者で何よりや。姉ちゃんたちもみな元気そうで――」 小一郎の姉と妹はいったんは百姓に嫁いだのだが、藤吉朗が織田家の武将として異数の出世をして しまったために、その夫たちも故郷から引っ張り出され、藤吉朗の家来として武士になっていた。篤 実さだけが取り柄の男たちで、才覚や武勇の点では万人の平均より大きく劣るが、係累の少ない藤吉 朗としては選り好みができる立場ではなく、城の留守番や裏方の雑用などをやってもらっている。 「叔父上、お帰りなされませ」 姉の子の小吉が、ぴょこりと頭を下げた。 「おぉ、小吉もまた大きゅうなったな」
小一郎は笑顔でその頭を撫でてやった。 「まぁまぁ、積もる話は後にして、まずはお上がりになって――」 と、寧々が笑顔で仕切り、甲斐甲斐しく一行が旅装を解く手伝いの指揮を始めた。
「かたくるしい挨拶なぞはいりませんよ。そんなことをされては、私の方がどういう返事をしてよ いか解らなくなります」 と言って寧々は笑い、 「お腹が空いているだろうと思って、いま夕餉の支度なぞをさせています。在所の者が持ってきてく れたお酒がありますから、小一郎殿も久しぶりに尾張のお酒を味わっていってくださいね」 自ら膳を運び、酒器なども用意し、小一郎をもてなしてくれた。 寧々は、後に関白・豊臣秀吉の妻として「北政所(きたのまんどころ)」などと尊称され、従三位 の位階をもらい、天下でもっとも高貴な女性になるが、その後も相変わらず生まれ在所の尾張言葉を 使い、気取ることも驕ることもなかったらしい。あの夫にしてこの妻、と言うべきかもしれないが、 聡明で冗談が上手く、機転が利き、朗らかによく笑う婦人であった。
家族揃った夕餉に酒まで出るとなれば、当然雑談に華が咲く。娯楽の少ない時代だから、噂話が
観劇や小説、テレビドラマなどの役を果たしているのである。女たちは北近江の話や藤吉朗の様子な
どをしきりに聞きたがり、小一郎は問われるままに、湖北の土地の逸話や築城が続く今浜の話などを
藤吉朗の言動を交えておもしろおかしく話してやった。 (困った・・・・) 本題に入るには良い頃合いだが、用件が用件だけに切り出しかねた。 「今宵は、何か、小一郎殿はおかしいですね」 酌をするために酒器をもって小一郎の隣に来た寧々は、小一郎の顔を覗きこむようにして笑った。 小一郎に付き合って、彼女も相当に飲んでいる。 「私に何か隠し事をなさってる?」 女の勘というヤツは、まったく馬鹿にできない。 「いやいや、しばらくお逢いしませぬうちに、また義姉上が一段も二段もお美しゅうなられたようや と、見惚れておりまして・・・・」 小一郎とていい年の男である。女の機嫌を取るには、その容色を褒めるのがもっとも効果的である ということくらいは心得ている。 「まぁ、お上手――」 寧々はころころと笑い、小一郎にさらに酒を注いでくれた。 そういう世辞を抜きにしても、二十七になった寧々は、まさに女盛りであった。少女っぽさが消え、 肉(しし)置きも滴るように豊満になり、人妻らしい落ち着きと色気が自然と身に付き、しかも子を 生んでないためか肌に張りがあり、年より若々しく見える。その寧々が酔いに頬を染めて灯明の火に 照らされている様というのは、遊女のように艶(なまめ)かしく、幽玄なまでに美しかった。 (これほどの嫁御があってなお不足を言うなぞは、兄者は阿呆じゃ・・・・) また勃然と腹が立ってきた。 (いっそ兄者をさんざんに罵(ののし)ってやろうか) 多くの女を囲い、そのうちの一人に子まで孕ませた藤吉朗の所業を、そのままに吹聴すればどうい う結果になるだろう。寧々は烈火の如く怒るだろうか。それとも、さめざめと泣くであろうか―― (いや、戯れ話としてほのめかしておくに留めるが、義姉上のためか・・・・) 一座の座興として笑い話にしてしまうか―― 「解りました。あの人に何か言い含められて来たのですね?」 「あ・・・いや・・・・」 「わざわざ小一郎殿を寄越したということは、普通のことではないのでしょう。表向きのお話でな いとすれば――側室(そばめ)に子でもできましたか」 と、図星を指されたのには驚いた。 「・・・・・・・・・・」 とっさにどういう返しをすべきか迷った小一郎の顔を見て、 「あら。冗談でしたのに、当たってしまいました?」 今度は寧々が驚いたように笑った。 「あちらに何人もの女子がおるという噂はとっくに聞いています。それに子ができたとしても、今さ ら驚きはしませんよ。むしろ、おめでたいお話ではありませんか」
藤吉朗の気の回し方は、あるいはまったく的外れであったのかもしれない。 寧々は急に饒舌になった。 「子ができぬ自分を責めたこともありましたが、それも詮無いこと。羽柴の家の世継ぎを得るため には、他の女子の腹を借りるもやむ無しとは思うておりました。それにしても、こんなことのため にわざわざ小一郎殿を寄越すとは、あの人も情けない。何かのついでに岐阜に帰った折にでも、 自分で話せば済むことではありませんか。ねぇ?」 「はぁ・・・・」 「それで、やや子はもう生まれたのですか?」 「あ、いえ。おそらく、この秋頃やないかと――」 「そうですか。それはまだちょっと先ですね。私たちが今浜へ移るのとどちらが早いかしら」 「さぁ。それは何とも・・・・」 「明日、お母様や皆にもそのお話をしてあげてくださいね」 寧々はさらに小一郎に酒を注ぎ、自らの盃にもそれを満たし、 「お祝いのお酒です」
と言って笑った。
それからの寧々はすごいペースで盃を重ね、騒がしいほどによくしゃべり、よく笑った。 「いや、義姉上、そんなに重ねてはお身体に障りますで」
小一郎はたしなめ役に回らざるを得ず、どろどろに酔った寧々から何度か盃を取り上げ
たが、それでも飲むのを止めようとしない。ついには足腰も定かでなくなったのか、手水(手洗い)
に立とうとした寧々は膝から崩れ、慌てて小一郎はそれを抱きとめた。 「義姉上、今宵はもはやお休みになられませ」
笑いで揺れていたはずの寧々の背が、別のことで震えていることに、不覚にも小一郎はしばらく気
付かなかった。 (やはり、兄者は阿呆じゃ・・・・・) 小一郎は、その女を抱きしめてやりたくなる衝動を、懸命に押さえつけねばならなかった。
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