歴史のかけら
62その手持ちの軍勢を、無駄に遊ばせておくようなことは一切しない。
浅井・朝倉を滅ぼした信長が、行きがけの駄賃とでも言うようにそのまま軍勢を南下させ、南近
江の鯰江城に六角承禎(義賢)を攻め、六角氏を事実上滅ぼした、というのは先にも触れた。
これまでも何度か触れたが、長島は東海地方における一向宗の一大拠点で、岐阜城から南にわず
か一日の距離にある。本願寺が織田家に対して兵を挙げて以来、岐阜に本拠を置く信長は喉首に刃
物でも突きつけられたような状態であり、そのため常に兵力を割いてこの地域を封鎖しておかざる
を得ず、織田家の軍事行動がどれだけ邪魔されてきたか解らない。
浅井の滅亡からわずか半月後――新領地の慰撫も手付かずの羽柴勢に、早くも出陣の命が下っ
た。 「わしゃとりあえず兵を率いてすぐに発つ。物事の遅延は、信長さまがもっともお嫌いになるとこ ろやでな。後のことはおいおい考えるとして――」 藤吉朗は手を合わせるようにして小一郎に頼んだ。 「この時期に百姓どもに一揆騒ぎでも起こされればわしの首が飛びかねん。半兵衛殿も置いてゆ くで、村々の名主やら庄屋やらの頭をきっちり撫でておいてくれ」
煩雑な政務が山積するこの時期に国を空けるのは藤吉朗にとっても痛かったが、それが信長の命
令だというのなら否も応もない。ここは、半兵衛の知恵・才覚と、小一郎の類稀な調整力と堅実な
実務力とに望みを託すほかないであろう。
このとき信長は、攻めにくい長島地域には直接手を付けなかった。これを影で支援する北伊勢の
諸豪に軍事的圧力を掛け、さらに南近江から伊勢へと逃れた六角氏の残党を討伐することをさしあ
たっての目標にしていたらしい。 (おのれ一揆の奴輩(やつばら)、いずれ根切りにしてくれる・・・・!)
「武力を持つ宗教勢力」に対する信長の憎悪は、すでに骨髄に達している。 いったん岐阜に戻って態勢を整えた信長は、十一月の初旬には今度は京へ兵を向け、三好義継が 篭る摂津の若江城を攻め、一ヶ月を掛けて三好義継を攻め滅ぼし、この年の戦を締めくくった。 この間、小一郎は、雪に埋もれた湖北の山野を地道に歩き回っている。
北近江の統治について小一郎が尋ねたとき、半兵衛は明快にそう言った。 「何も難しくお考えになることはありません。まずは民が食えるようにしてやれば良いので す」 半兵衛が示したこの大原則は、出自が百姓である小一郎には非常に解りやすかった。泥田を掻き 回していた昔、小一郎が会ったこともない国主に望むことと言えば、戦に巻き込まれぬようにして 欲しいということと、決められた以上の年貢を掠め取らないで欲しいというこの二点であり、あと はせいぜい夜盗や物取りの取締りをしてもらえさえすれば、それ以外のことは日常的に意識するこ とすらほとんどなかったように思う。民衆が経済的に自立できている場合、雲の上の国主なぞ はせいぜいその程度の存在なのである。 「いま、この北近江は非常の時です」 と半兵衛は規定した。 「連年続いた戦で田畑が荒れ、実入りが極度に減ったことで、百姓たちは日頃の蓄えも底をつき、 来年の種籾まで食い尽くしておるやもしれません。この秋の蔵米がちゃんと入っておる我らに比し、 浅井に味方しておった地侍や百姓たちの逼迫は切実です。まずはこれを救い、逃散した百姓たちを 村々に帰らせ、その暮らしが立つようにしてやることが急務――」 半兵衛は、さしあたって貧民の飢えは兵糧米を供出して炊き出しをすることなどで救い、小谷城 の修築や不要になった“長城”の取り壊し、荒れた田畑の復興などに人夫を募ることで緊急措置的 に雇用を作り出し、そういった公共事業を通じて民に銭や米を落とし、領民の生活を安定させるよ う提案した。 「この際、多少の費(つい)えには目を瞑るべきだと思います。来年の秋の収穫まで――この一年 が我慢のしどころ。ここを乗り切れば、自然と領民たちも落ち着きを取り戻しましょう。法度(は っと)や掟(おきて)を定めたり、検地を考えたりするのは、それからで良い」 「なるほど・・・・」 疲弊した民を救済するとなると米も銭も手持ちの蓄えだけでは心もとないが、それを何とかする のが小一郎の仕事であるだろう。 (急場は堺の商人たちから銭を借りれば何とかなるか・・・・) 新領地である北近江の商業利権を担保にすれば、かなりの額の金銀を引き出せるはずだ。北近江 は畿内から距離としてはよほど離れているが、琵琶湖と淀川の水運で京や堺とはそのまま繋がって いるから、経済圏としては一つなのである。領内には鉄砲生産の一大拠点である国友村もあり、 北部山間地帯には鉱石の鉱床もあるから、いざという時は、それらの利権を売ってしまうという手 もある。 「解りました。そのことは、半兵衛殿にすべてお任せします。家中の者たちを教導し、思うように やってみてくだされ」 小一郎が言うと、半兵衛は頷き、 「微力を尽くします」 と応えた。 「あとは、浅井の遺臣をできるだけ多く召し抱えることですね」 浅井の遺臣で声望のある武士は、百姓たちが一揆を起こすときに旗頭になる可能性がある。百 姓たちが団結し、徒党を組めば怖ろしいことになるから、そのリーダーになるような者を野に放っ ておくのは治安維持の上からも危険なのだ。 「他国に流れていった者はともかく、北近江の山野に隠れておる者を召し出すには、殿が申さ れておったように村々を足で回り、名主や庄屋、寺社などを訪ね、話をつぶさに聞いて廻るほかあ りますまい。そうしておればいろいろなことが耳に入ってきましょうし、信頼と人脈を作ることに もなり、人々に羽柴家に対する親しみを持ってもらうことにもなる。骨の折れる仕事ですが、この 役は殿の弟御であり羽柴家第一の臣である小一郎殿こそがまさに適任だと思います」 羽柴家の領国のうち、南部の坂田郡は横山城があった地でもあり、樋口三郎左衛門が仕える堀氏 が父祖の代から巨大な領地を持っている地域でもあって政情が比較的安定しているが、小谷城がある 浅井郡や、余呉、木ノ本などがある北方の伊香郡は織田家にとって馴染みが薄い土地で、いわば 一揆の温床であった。この二郡を慰撫することが、羽柴家の北近江経営の第一歩と言うべきであろ う。
小一郎は半兵衛の献策に従い、政務の傍ら毎日毎日これらの土地の村々をたんねんに歩いた。近
習を数人連れただけの気楽な格好で遊山のようにぶらりと駒を打たせ、名主や豪農、寺社などの門
前では必ず足を止め、対応に出た者に気さくに声を掛け、その屋敷の主人に挨拶を請い、ときには
湯茶の接待を受けたり長々と話し込んだりしながら自分の顔を売り、新領主となった羽柴家に親し
みを持ってもらうよう努めたのである。
藤吉朗が戦務から開放されてようやく小谷城に帰って来たのは、天正元年の師走である。 (湖北の地は、尾張や岐阜とは比べものにならんほど雪が深いな・・・・)
その頃、小一郎は改めてそのことを痛感していた。 「いっそ琵琶湖の畔にでも城を構えて移ったらどうじゃ? 今浜あたりなら、この小谷山より随分 と暖かいやろ」 内輪の冗談のつもりで言ったのだが、 「なんじゃ小一郎、たまにはお前もええ事を言うやないか」 と藤吉朗が真顔で応えたから、小一郎はちょっと驚いた。 「わしもな、この城ではどうにもならんと思うておったところや」 この話は半兵衛殿とも相談しておったんじゃがな、と前置きして藤吉朗は続けた。 「わしも国持ちになったからには、城下に岐阜や清洲のような立派な町を開き、商いを栄えさせ、 国を富ませたい。じゃが、清水谷は城下町を開くには手狭やし、東山道からも遠い。湖国と言うべ きこの近江で商いを考えるとなれば琵琶湖の水運を使わねばどうにもならんが、小谷から今浜まで 荷を運んでいちいち右往左往するっちゅうのも無駄過ぎる。城を築くとすりゃ、ええ湊(みなと) があり、北国街道と東山道の両方に睨みが利く、今浜しかあるまい。あそこは国友村からも近い しの」
今浜は、湖上・陸上交通の要衝なのである。 「国主さまともなると、言うことが何やらでっかいなぁ」 小一郎は明るく感心してみせた。 「年が明けたら信長さまに言上し、その許可を頂くつもりでおるで、まぁ、この冬ばかりは寒い のも辛抱せえ」
藤吉朗は、小一郎を相手に城下町の構想や新しく築く城の縄張りなどについてさも嬉しそうに語
った。 (兄者は昔から、駄法螺のようなでかいことばっか言うておったが――その器量に相応しい地位 を、今になって初めて得たのかもしれん) 同じ母親の腹から生まれたにも関わらず、この種の創造性を自分がほとんど持ち合わせていな いということを、小一郎はある種の諦念と共に自覚しているのだった。
このエピソードはあまりにも有名であるために、現在は様々な解釈が為され、そういうことが行
われたこと自体を疑問視する向きさえある。が、『信長公記』にもその記述がある以上、それに類
することがあったのは事実であろう。
信長が生まれる二千年以上昔に書かれた中国の歴史書『十八史略』に「首に漆を塗り飲器になす」
という記述があるが、それに倣ってか信長が頭蓋骨の頭頂部を切り取って「盃」にし、それで酒を
飲んだというような話が創作されたらしい。この説は小説やドラマなどで広く流布されたために、
それが史実であったかのように思われている読者も少なくないであろう。また、たとえば信長が真
言密教の行者で、密教・立川流の髑髏本尊を作ったのだというような突飛な解釈まであるが、これ
はあまりに牽強付会に過ぎる。
戦国のこの時代、たとえば合戦が行われた後、勝ち戦の酒宴の席に敵の大将首が運ばれてくる
などということはさして珍しいことではなかったであろう。首実検の場ともなれば数百もの首が並
ぶこともあるし、名のある武将の首に対してはいちいち洗い清め、化粧を施し、髪なども結い直し、
見栄えを良くしてから主に見せるというのが当時においては当然の作法でさえある。
朝倉義景、浅井親子の首は、首実検の後すぐさま京へ運ばれて獄門さらし首にされたことが『信
長公記』に記されている。冷凍技術などない当時のことである。放っておけば首は数日で腐ってし
まうから、当然、四ヶ月も先の正月の酒宴で「肴」に使うことなどできるはずもない。つまり、首
に漆を塗って固めたのは、ようするに腐敗を防止するためである。 いずれにしても、この宴席に連なった当時の武将たちにとって、信長の「肴」は、酒の席でのち ょっとした悪ふざけに類するものであり、その行為に対して個人個人の好悪はあるにせよ、生理的 に受け付けないほど不快に想うような者はなかったのではないかと思うのである。 さて――
藤吉朗は、岐阜城で正月祝賀の酒宴の席に侍り、この「肴」を眺めながら酒を酌み、諸将と共に
織田家の繁栄を寿ぎ、祝った。
当然のように小谷城の留守を任された小一郎は、正月の屠蘇も飲まず、山積する政務を地道に片
付け続けていた。 (そりゃまた趣味の悪い趣向やなぁ・・・・) と想いはしたが、そのことで信長を非難する気もなければ反発も嫌悪も恐怖も感じはしな かった。
その数日後、それよりはるかに重大な飛報が北からもたらされる。
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