歴史のかけら


王佐の才

63

 天正二年(1574)の正月、北近江の隣国・越前で内乱が勃発した。

 この騒乱は、かつて朝倉氏の重臣であったにも関わらずいち早く主家を見限って織田家に寝返っ た前波吉継と、その支配下に置かれた朝倉氏の旧臣たちとの感情的なわだかまりが引き金になった というのは先にも触れた。
 領内の不満のエネルギーに乗った一向門徒たちが加賀の本願寺勢力の支援を受け、同じく寝返り 組である富田長秀を旗頭にして反乱を起こし、一乗谷に前波吉継を攻め、これを滅ぼしたのが一月 の中旬頃である。
 富田長秀は、前波吉継さえ殺せば自分が越前守護代の地位を得られるものと甘く考えていたか、 あるいは一揆の勢いに飲み込まれざるを得なかったのかは解らないが、いずれにしても暴走した万 余の民衆の怖ろしさを見誤っていたというべきだろう。その手綱はすぐに利かなくなり、暴徒と化 した一揆勢が彼の居城である府中城まで押し寄せ、これを瞬く間に攻め滅ぼした。
 織田家に寝返ることで生き残った朝倉景鏡(かげあきら)ら越前の小大名たちは、一揆に加わら ねば滅ぼされ、一揆に加担すれば織田家の敵に回ることになるという理不尽な二択を迫られた。どち らを選んでも身の破滅であり、結局、多くの者が国を捨てて織田領へ亡命した。結果として、越前 は織田家の支配がまったく及ばない“一揆持ちの国”になってしまったのである。

 この驚くべき報は、織田家中を震撼させた。
 一揆勢は越前への入り口である木の芽峠を封鎖し、隙あらば敦賀、若狭、北近江にまで攻め込む 形勢を見せているという。

 信長は事態を重く見、丹羽長秀、藤吉朗、不破光治、若狭の小大名などに出陣を命じ、敦賀に軍 勢を駐屯させて一揆勢の南下を押さえ、同時に越前を攻略するよう指示した。
 羽柴勢は、再び戦務に就かねばならなくなったわけである。

 この時期、さらに驚くべき報が、今度は東からもたらされる。
 武田信玄の跡を継いだ武田勝頼が、大軍を率いて東美濃の岩村城に入り、付近の明智城(恵那市 明智町)を包囲・攻撃しているというのだ。

(まるで呼吸を合わせたようではないか・・・・!)

 小一郎も思わざるを得ない。
 浅井・朝倉を滅ぼしてひと息ついたような気で居たが、織田家の敵はまだまだ多いということを 痛感させられる事件だった。

 藤吉朗は、二千の兵を率いてただちに敦賀に出陣した。
 以後、越前が再び平定される天正三年八月までの一年半、藤吉朗は敦賀と北近江を忙しく往復し ながら過ごすことになる。地理的に言って北近江の国主である藤吉朗が越前の押さえを任されるの は当然であったが、領国経営が途についたばかりであり、さらにこれと平行して今浜の築城と城 下町作りなどを計画し、実施に移していたことを考えると、身体がいくつあっても足りぬほどの忙 しさであったろう。

 藤吉朗と多くの武将たちが戦務で国を空けざるを得なくなり、北近江の慰撫とその経営はもっぱ ら小一郎と半兵衛の仕事になった。ことに、北近江自体の国力が疲弊し切っているこの時期、重い 戦費の負担を支えるために軍資金の捻出に奔走し続けた小一郎の努力と苦労は――目立たないもの ではあるが――大いに評価されるべきであろう。

 が、連年にわたって戦で酷使されることへの不満は、小一郎が思ってもみない形で噴出し、羽柴 家の屋台骨を激しく揺り動かすような騒動に発展する。

 坂田郡の堀氏と藤吉朗との間に、軋轢が生じ始めたのである。


 堀 二郎 秀村が当主を務める堀氏は、そもそも父祖の代から坂田郡を治める大豪族であり、古く は近江守護の京極家に、浅井氏が北近江で勃興してからは浅井家に属していたが、半兵衛がその家 老である樋口三郎左衛門を説き、織田家に帰属させたということはこの物語でもつぶさに触れた。

 浅井氏の滅亡を機に、藤吉朗は北近江の一職支配を信長から認められ、湖北三郡十二万石の王に なったが、しかし、そのうち坂田郡の大半はもともと堀氏の領地であった。
 堀氏は鎌刃城と長比城、さらに長軒亭城を持ち、その石高は十万石だったと『当代記』に記され ているが、実際は五万石ほどであったであろう。つまり、藤吉朗が自由になる領地というのは十二 万石の内の七万石程度に過ぎず、主の羽柴家と家来の堀家の領地に大きな差がないということにな る。
 十二万石程度の分限しかない羽柴家が、五万石もの実力を持つ大豪族を家中に組み込むというこ と自体、そもそも無理があった。堀氏は外様大名として織田家に直結するのが自然であったし、現 に浅井の滅亡まではその形が取られ、藤吉朗には寄騎として付属していた。

 ところが、浅井の滅亡を機に、堀氏の存在価値が著しく低下した。
 北近江の南部の坂田郡は、岐阜と近江とを繋ぐ交通の要衝であり、信長はこの地に織田家に馴染 みの薄い半独立の大豪族を置いておくことに不都合を感じ始めたのであろう。湖北三郡をまとめ て藤吉朗にくれてやり、堀氏の支配をも藤吉朗に丸投げした。

 この事は、堀二郎には衝撃であったらしい。

「わしは岐阜さまを頼むべき主と思うて随身はしたが、あのトウキチとかいう男を己の主とした覚え はない」

 この青年はまだ十九と若く、世事に揉まれた経験もないいわばお坊ちゃんで、信長の気持ちや 都合を忖度できるほど世故に長けてもいなかった。

「そのようなことは申されるものではありませぬぞ」

 と、間に立つ樋口三郎左衛門は常にこの若者を諌めた。

「羽柴殿は岐阜さまの信任厚く、また織田家随一の出頭人と目されるご仁。申すも憚(はばか)る ことながら、配下のわずかな失態も許さず、苛烈な処断をなさる岐阜さまに比べ、羽柴殿ははるか に仕えやすい主でござる。かのお人に従うことになったは、かえって堀家にとって幸いであると思 し召されませ」

「猿にか」

 平素温厚なこの青年の顔が、藤吉朗の名を口にする時、にわかに厳しくなる。

「知っておるか三郎左衛門、あのトウキチは、元は百姓の子。岐阜さまから猿と呼ばれ、その草履取 りであった男というではないか。そのような者の家来になれと言うは、お前は藤原利仁公の歴とし た裔(すえ)であるこの堀を、氏も素性もない百姓の家来にせよと、こう言うのか」

 堀氏は、鎮守府将軍にも任じられた平安時代を代表する名将・藤原利仁の末裔を称している。名 門の村落貴族の家に生まれ、その血に誇を持つよう育てられたこの若者は、何よりそのことに強烈 なこだわりを持っていた。武門の棟梁として気高くあれ、進退に美しくあれと、藤原利仁の名を事 ある毎に聞かせて訓育したのは守役の三郎左衛門自身であったが、それがこのような結果を見よう とは思わなかったであろう。

「氏も素性もなく、頼るべき門閥も一族も持たず、それでも草履取りから国主にまで登りつめた というそのことに、羽柴殿の人としての凄さがあるのでござる。己に流れる血を誇ったところで、 それは天与のもの。自ら勝ち得たものではござるまい」

 三郎左衛門が理をもって説くと、

「その通りだ。わしは生まれた時から堀の跡目であった。なればこそ、百姓に下げる頭はもってお らん」

 若者は苦々しげに言った。
 出自など、自分の力でどうなるものでもない。藤吉朗が望んで百姓の子に生まれたわけではない ように、堀二郎とて望んで堀家の長子に生まれたわけではないのである。

「それでも、堀家のため、一族郎党のため、耐えよ、忍べと申すなら、わしが受ける屈辱はまだし も我慢もしよう。じゃが――」

 この若者の不満は、何もそのことだけではない。

 織田と浅井が手切れとなり、信長が決定的な窮地に陥っていた元亀元年、堀氏はいち早く織田家 に随身することを表明した。岐阜と近江の境界線を守る大豪族であった堀氏が、浅井家から織田家 に鞍替えするというその政治現象が、どれだけ織田家の利になったか解らない。以来、若年の堀二郎 自身が戦場に立つことはなかったものの、樋口三郎左衛門に堀家の兵を預けて常に信長のために戦 場で働かせ続けてきた。藤吉朗と共に浅井の矢面に立ち、北近江の最前線を守り続けてきたのは堀 氏であり、浅井滅亡の功名第一が藤吉朗なら、その功の半分は堀氏のお陰であるとさえこの若者は 思っていた。

 が、その堀氏に対し、信長からは何の恩賞の沙汰もなかった。それどころか、理不尽にも織田家 から羽柴家への転籍を命じられたのである。これは織田家の直臣から陪臣へのいわば降格だから、 堀二郎にとっておもしろかろうはずがない。まだそれは我慢するにしても、この数年の働きに対し て恩賞がなく、加増を受けられないとなれば――

「連年、働きに働いた我が郎党たちに対し、恩賞として給してやる土地がないではないか・・・ ・!」

 悔し涙を流しながら、この若者は搾り出すような声でそれを言った。
 むしろ、このことが問題だったのである。

 堀家が織田家から羽柴家に転籍してしまった以上、新たに「殿様」になる藤吉朗から恩賞の土地 をもらうしかない。直臣から陪臣に格下げするなら、そこに不労所得とでも言うべき加増がなされ るのは当然でもあり、この四年分の働きに見合う大加増が行われねばならないであろう。
 しかし、藤吉朗から堀二郎に下された所領は、わずか千石に過ぎなかった。
 藤吉朗にとっても辛いところであり、心苦しくもあったが、十二万石の所領のうち五万石近くを持 つ堀氏に対し、さらに数千石、あるいは一万石と多くの所領を割くわけにもいかず、恩賞の出しよ うがなかったのである。
 これは藤吉朗の罪と言うよりは、信長の措置の弊害と見るべきであろう。

「そのことは、御家中の者たちもよう解ってくれておるはず」

 若殿の悔しさと苦悩が解る三郎左衛門は、苦しげに言った。

「殿、あと十年、いや、五年我慢をなされよ。五年後なれば岐阜さまの天下布武にも目鼻がつき、そ うなれば羽柴殿も今の分限にては留まらず、数国を統べる太守へとご出世をなさいましょう。そ の時になれば、羽柴殿もきっと、我らの働きを厚く賞してくださるはず。今はただ、じっと辛抱 をなさるほかありませぬ」

 このあたり、藤吉朗と直接に深く交わっていた樋口三郎左衛門は、織田家や羽柴家の内部事情ま ですべて解っている。
 浅井が滅亡した以上、堀氏の存在価値はまったくなくなったと言っていい。知恵深いこの老人は、 堀氏そのものが邪魔になり始めている信長の腹の底までを読み切っていた。
 織田家の直臣として信長に直結していれば、今後、どんな理由をつけて腹を切らされるかも知れ ず、堀家もいつ改易、取り潰しの憂き目に遭うかも解らない。中世の君主というのは、豪族たちに とって一面では虎狼のような存在なのである。

 しかし、その点、信義に厚く、苦労人の藤吉朗であれば、

(信長ほどの無体(むたい)はすまい・・・・)

 と、この老人は見ている。同じ織田家に属すなら、信長に仕えるより藤吉朗に仕える方がはるか に安全であり、今後、羽柴家が大きくなってゆけば、それに従って堀家にも相応の加増があるのは 間違いがない。羽柴家内部で圧倒的な領地と動員力を持つ堀氏が大人しく従順に羽柴家に付き従う ことは、この場合、藤吉朗に大きな「貸し」を作ることにもなるであろう。

(この上は、藤吉朗殿との繋がりをより深め、羽柴家の臣として懸命に働いていくしか堀家が生き 延びる道はない)

 と、この老人は悟っていたのである。

 三郎左衛門は何度も堀二郎を説き、家中をなだめたが、三年にわたる浅井との戦いで、親を、 兄弟を、夫を、あるいは子を失ったものたちにすれば、それがタダ働きであったと言われても納得 できるものではない。主人の堀二郎自身がそのことに強い不満を持っていることもあり、なだめよ うとする三郎左衛門だけが家中から浮き上がるような格好になった。
 堀家には、三郎左衛門の他にも数人の家老がいる。主君の堀二郎と三郎左衛門の間が反発すれ ば、当然、それに乗じて三郎左衛門にとって変わろうと主君に取り入る者もあり、

「あの老人は、お家を売ったんじゃ。堀を捨て、自分はちゃっかり羽柴の家来になるおつもりで あるそうな」

 そんな非難の陰口さえ周囲から聞こえてくる。
 堀家の将来を想い、説くことに懸命になればなるほど、三郎左衛門は孤立していかざるを得な かった。

「わしは、いっそ世を捨て、楽隠居でもしようかと思うとるよ」

 小谷城の溜まりの部屋で、そんなことを言っている三郎左衛門の皺深い横顔は、年よりさらに老 けて見えた。

「六十の坂もとうに越えた。どうやら長いこと生き過ぎたようじゃわ」

「お力を落とされては困ります。この難しい時期に三郎左衛門殿がいなくなれば、誰が堀の家中 を纏められましょう」

 半兵衛は常に親身になってこの老人の相談を受けていた。
 半兵衛も藤吉朗も、もちろん小一郎も、この老人の辛い立場と難しい政治状況は十分過ぎるほど 理解していた。だからこそ、たとえば藤吉朗は先年の北伊勢征伐に堀家の兵を動員しなかったし、 堀二郎が病気と称して一向に小谷城に出仕しようとしないことにも目を瞑っている。

 が、越前で騒動が起こり、信長から羽柴勢に敦賀の守備を命じられたことによって、堀家だけを 特別扱いしていることができなくなった。羽柴家の動員力はせいぜい四千ほど。このうち千五百ほ どが堀家の兵であり、これほどの兵力を遊ばせておくわけにはいかなかったのである。

「どうであろう、三郎左衛門殿。わしは一度、二郎殿とゆっくりと腹をうち割って語り合ってみた い。これまでの働きも労(ねぎら)わねばならず、また、今後のこともあるでな。二郎殿を、小谷 城まで連れて来てはもらえまいか」

 藤吉朗はやんわりと言うのだが、三郎左衛門は首を縦に振らなかった。

「折角のお言葉ながら、我が殿は未だ年若く、世事に暗く、諸事に拙く、また近頃はお身体の調子 も芳しくないようで・・・・」

 三郎左衛門は自分が堀家の兵を率いて出陣することは約束したが、どうしても堀二郎を表に出そ うとはしなかった。
 若い主君が藤吉朗を毛嫌いしているとは言えなかったのであろう。

 藤吉朗も、

「二郎はわしから禄を受けた以上、我が家来ではないか。わしの命に従わぬと言うなら、家を潰し、 禄を召し上げるぞ」

 などと高圧的に出ることはしない。
 堀家が羽柴家に敵対するとまでは想わないが、領内で一揆が起こることを怖れるこの時期に家中 に火種を蒔くようなことはしたくなかったし、何より藤吉朗は他人との明朗で陽気な関わりを好む のである。三郎左衛門が堀家の兵を率いて働くと言ってくれているのだから、堀二郎を無理やり屈 服させたところで恨みを煽るだけで、益はないと見た。
 急がず、時間を掛けて徐々に馴染みを深め、心を開かせてゆく方が得策であるだろう。

(難しい・・・・・)

 と、この問題を考えるたびに、小一郎は想う。
 堀家の五万石という力が、十二万石の羽柴家から見た場合、大きすぎるのである。
 自然、その扱いは、腫れ物を扱うようにならざるを得ない。

 ともあれ、藤吉朗は二千の兵と共に敦賀に出陣し、樋口三郎左衛門も堀家の兵を率いてこれに 随員した。
 戦陣生活は長期化し、やがて雪が解け、桜も散り、夏が過ぎた。

 この間、天正二年の夏に信長が伊勢 長島の一向一揆勢に総攻撃を掛け、「根切り」と呼ばれる 殲滅作戦を実行に移している。
 小一郎は藤吉朗の名代となって羽柴勢の一部を率い、これに参加した。藤吉朗は越前を抑える戦 務と領国の経営、今浜の築城、城下町作りなどに忙殺されており、とても自ら国を空けて伊勢あた りに出向いていられなかったのである。
 この時期の藤吉朗は哀れなほどに多忙で、一所に腰を落ち着ける暇もなく、常に現場現場を飛び 回るようにして働き続けている。これを補佐する小一郎や半兵衛にしても、それは少しも変わらな い。堀家の内部調整に関しては三郎左衛門に任せ切っており、これに細やかな配慮が行き届かなく なったとしても、責めるのは酷であったろう。

 事件は、この年の秋に起こる。
 堀家の兵たちが、集団で駐屯地の敦賀を捨て、坂田郡に帰ってしまったのである。


 浅井家が治めていた北近江は、兵農分離がほとんど進んでいなかった。
 兵と農を切り離して専業兵士の大兵団を作るというのはいわば信長の発明で、こういう軍政を敷 いているのは日本でも織田家のみであり、これに強い影響を受けた徳川家でも一部の兵が専業化さ れていたが、他国ではほとんど例を見ない。
 当然、北近江に本拠を据える堀家では兵農が未分離であり、その軍兵たちは大半が百姓だから、 田植え、稲刈りといった農繁期の軍事行動を極度に嫌う傾向がある。

 さらに付け加えれば、この四年、どれほど働いても恩賞がもらえなかったというその事実が、堀 家の兵たちの戦意をまったく削ぎ落としてしまっていた。戦陣の苦労をどれだけ重ねても一切報わ れず、しかも長期にわたって国を空けていれば田畑はどんどんと荒れる。農繁期の秋――刈り入れ のこの時期に、徒労と解っている戦務を続けていることに耐えられなくなったのであろう。あるい は堀二郎の指図であったかもしれず、堀二郎に取り入った別の家老の下知であったかもしれない。
 いずれにせよ、樋口三郎左衛門の手綱が、ついに利かなくなったのである。

 この時、折悪しく藤吉朗は敦賀におらず、今浜で築城の指揮などを執っていた。

 三郎左衛門は、守将として最前線におり、木の芽峠の砦を守って越前の一揆勢と睨み合っていた のだが、堀家の兵が一斉に逃散してしまったために兵力が一気に減少し、窮地に陥った。この機に 敵が攻め寄せてくれば、砦はものの二、三時間で呆気なく落とされ、敦賀に一揆勢の侵入を許すこ とになるであろう。

 窮した三郎左衛門は、何食わぬ顔で睨み合っていた一揆勢の大将に使者を送り、和睦を提案し た。もちろん恒常的なものではない。秋の農繁期が終わるまで、お互いに矛を収めないか、と打診 したのである。
 三郎左衛門自身、父祖以来の熱心な一向門徒であり、その意味で敵の一揆勢に憎悪や嫌悪を持っ ていなかったこと、越前の一向門徒の首領格の者と旧知であったことも大きく作用したであろう。
 堀家の軍令違反から事が大きくなり、取り返しのつかない事態に立ち至ることだけは避けねば ならず、どうにかこの場を無事に切り抜けようとする窮余の策であった。三郎左衛門とすれば、そ うでもしなければ急場が凌げなかったのである。

 事実、このとき木の芽峠の砦は無事であり、数日後、藤吉朗の増援が到着して事なきを得た。
 しかし、戦場放棄が重大な軍令違反であることに違いはない。

(ここで進退を誤れば、堀家が滅ぶ・・・・)

 三郎左衛門は、そのことが解っていた。
 堀家を潰したい信長に、格好の名目を与えてしまったのである。

 藤吉朗に事情を説明した三郎左衛門は急いで鎌刃城に取って返し、堀家中の説得と事後処理に当 たろうとした。
 藤吉朗としても、できれば穏便に事を収めたかった。下手に堀家を窮地に追い込めば、窮鼠猫を 噛むの喩えの通り、鎌刃城に篭って抗戦の構えを取るかもしれない。鎌刃城は小谷城にも劣らない 雄大堅固な山城で、これに領民までを引き入れて篭城すれば二月や三月は楽々と城を支えることが できるであろう。そうなれば近江の一向門徒や六角氏の残党などが堀家を後押しするに違いなく、 どうにか治まっている北近江の人心が再び動揺するのは目に見えている。

 だが、堀家にとって不幸なことに、このとき敦賀に居たのは羽柴勢だけではなかった。丹羽長秀 の軍兵もいれば、不破光治の美濃勢もおり、若狭の豪族たちの兵なども多数駐屯していた。
 この事件が、伊勢 長島でまさに一向一揆を討伐している最中の信長の耳にまで聞こえてしま ったのである。

「あろうことか一揆の賊徒どもと勝手に和を結び、持ち場を放棄して自侭に国に帰ったと!?」

 その報を聞いた信長は、左右の者が震え上がるほどに激怒した。




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