歴史のかけら
6
墨俣の砦が完成すると、藤吉朗はそれを小一郎と蜂須賀小六に任せ、自らは出歩くことが多くなった。食い詰め
浪人のような格好に身をやつすと、供も連れず、何処とも言わずに出て行ってしまう。酷いときは、そのまま数日
も帰ってこない。 「諜者もばら撒いてあるし、小六殿もおるで、奇襲を受けるような心配はないとは思うが、もし敵が寄せて来るよ うなことがあれば、蓋を閉めた貝のようになって守りに徹しておれば良えでな」 「それは解っとるが・・・・」 困惑顔で小一郎は尋ねた。 「いったい何をやっておるんじゃ?」 「なぁに、“美濃盗り”よ」 悪戯っぽく笑った藤吉朗は、 「まぁ、詳しいことは後のお楽しみじゃ」 と一言残して、雪がちらつく美濃路を歩き出した。 (“美濃盗り”か・・・・) どうやら兄は、東美濃でやったような調略活動を、この西美濃でも行っているらしい。 (調略で国を盗ろうっちゅうのが、兄者の風変わりなところじゃ) 普通武士なら、武力で国を奪おうとするであろう。それでこその「武士」なのだが、藤吉朗の思想は、そうい う「まともな武士」とは根底から違うようである。 (そりゃぁ、戦もなく国が盗れれば、こんな楽な話はないが・・・・) 敵国の有力者を蕩(たら)しこんで味方に抱きこむことができるなら、確かに血を流すことなく織田家の力を増す ことができ、同時に敵を弱体化することができる。しかし、交戦中の敵の武将の元にのこのこ出かけて行くことが どれほどの危険が伴うかというのは、子供でも想像がつくであろう。現に藤吉朗は、東美濃では鵜沼城主だった大 沢基康に捕らえられ、監禁されたことさえあるのである。幸い大沢は信長の脅しに屈した形で織田家に降り、人質 であった藤吉朗も開放されたのだが、もし大沢が忠義者で血の気の多い男であったなら、藤吉朗はその場で首を刎 ねられていたはずなのだ。 (危ない橋じゃ・・・・) 小一郎のような堅実な思考の人間から見れば、そう思わざるを得ない。
無論、藤吉朗は、実際に接触して調略に入る前の段階で相手の情報収集をし、その家の履歴や係累、本人の性
格や嗜好、弱みや不満などを調べ尽くしているし、説得を容易にするためにおよそ人間が考え付く限りのあらゆる
手を打っている。 (斉藤さまの御世も長くないかもしれぬ・・・)
と、なんとなく思うようになっている。
もっとも、美濃侍たちの間には、無能な竜興に対する失望や憤怒の声がもともとあった。 しかし、それでも藤吉朗の仕事が危険極まりないという現実に変りはない。 藤吉朗が東美濃で捕らえられ、信長によって開放された直後、小一郎はそのことを直言したことがある。 「こんな真似を続けておっては、命がいくつあっても足りんじゃろぉが!」
夜も眠れないほどの不安の中で兄の帰りを待つことしかできなかった小一郎にすれば、堪ったものではない。こ
んな想いをたびたび味わわされるくらいなら、侍など辞めて元の百姓に戻りたいとさえ思った。 「侍っちゅうもんは、命を張ってなんぼの稼業じゃわい」 と笑って、まったく問題にしなかった。 「兄者が死ねばどうなる。木下家は継ぐ者もおらんし、姉上はあの若さで後家になるぞ」 武士とは生きて功名を樹ててこそのものであり、死ねば何も残らない。子があれば親の扶持を継ぐこともでき、 成長すれば取り立ててもらえるかもしれないが、子がない寧々には何の補償も渡らないわけだから、食い扶持はもち ろん家屋敷までが召し上げられるということになり、路頭に迷うことになる。 「戦場で命を張るならまだ解るが、命を粗末にされるのは迷惑じゃ」 あの笑顔が似合う義姉を泣かすのは、小一郎は忍びなかった。 「おいおい・・・」 藤吉朗は困ったように苦笑して言った。 「わしゃ死なん。死なんが、もし死ぬようなことがあれば、そんときはお前に何もかんもやる。百姓やっとったお 前を無理言うて侍にしたんは、全部わしの勝手やからな。木下家はお前が継いでくれりゃ良えわい。ついでに、 寧々の面倒も見たってくれや」 「そういう事やない。危ない橋渡るんは止めぇ言うとるんじゃ!」 小一郎が語気を荒げると、 「小一郎よ・・・・」 藤吉朗はそれまで見たことのないような真剣な顔をした。 「わしには氏もなければ素性もない。力もないし、槍も人並みに扱えん。わしにあるのはな、この才覚 だけじゃ」 小一郎の前で、藤吉朗が初めて本音を吐露した瞬間であった。 「才覚だけで這い上がって行こうと思うたら、無理もせにゃならんし、命も張らにゃいかん。命を張った才覚であれ ばこそ、人の心に届くし、届けば人を動かすこともできるんじゃ。実(じつ)のない才覚なんぞは、小才子のさえずり と一緒やぞ。誰も見向きもせんわい」 それが、最下層から這い上がってきたこの兄が、いつしか編み出した処世の仕方なのだろう。 「己の吐いた言葉を、決して裏切らぬ。そう決めて、わしゃ命懸けで才覚を振るう。信長さまに対してもそうじゃ し、調略する相手に対してもそうじゃ。その上で殺されるのであれば、これはしょうがないわい。運がなかったと 言うしかないからの。じゃが、運のない男が死ぬのは、戦場でもどこでも同じことじゃとわしゃ思うぞ」 小一郎の目を正面から見据え、 「違うか?」 と、藤吉朗は尋ねた。 (・・・その通りじゃ)
小一郎は、目の覚めるような想いであった。 武運――
天運と言い換えても良い。 「じゃから・・・」 小一郎の両肩を痛いほど掴んで、藤吉朗は言った。 「わしの運を信じたってくれや」 この言葉を聞いてから、小一郎は兄のやることに口出しすることを止めた。兄の家来になると決めた以 上、主(あるじ)の天運を信じ、それにすべてを託してゆくほかないであろう。 (信じて待つしかないわい・・・)
大きく吐いた息が、白くたなびいた。
(・・・なんぞあったか・・・・?) 敵の動きと砦の中の統制に神経をすり減らしている小一郎にすれば、この上心配事を増やされるのは堪ったもの ではないのだが、どういう手も打ちようがなかった。 「わしの配下の者を何人か、探しに出すか?」
蜂須賀小六が渋い顔で聞いた。 (そんなことをすれば、どんな噂が立つとも限らん・・・・) 人の口に戸は立てられないのである。藤吉朗の行方が知れぬということを砦の者たちが耳にすれば、たとえば藤 吉朗が死んだとか、斉藤家に捕らえられたとかいったような噂に発展しないとも限らない。守備兵の不安を無用に 煽り立てることになるし、守備隊長の不在というこの状況が万一敵に漏れるような事になればそれこそ一大事だか ら、軽々しく動くわけにはいかない。 「なぁに、あの兄者のことですから、そのうちフラリと帰って参りましょう」 ことさら気楽に小一郎は言ったみせたが、その内心は不安で一杯であった。 (何をやっておるんじゃ・・・・)
ジリジリするような焦燥の中で待ち続けるうちに、9日目にひょっこりと――何事もなかったかのように藤吉朗
が帰ってきた。 「おぉ、小一郎! 待たせて悪かったのぉ」 兄はいつもと変らぬ屈託のない笑顔を見せた。 「あまり帰りが遅いんで、心配したぞ」 「いやぁ、すまんすまん。じゃが、凄い土産があるで」
と言って、背後を振り返った。 「? どなたじゃ?」 背はさほど高くなく、笠から覗く顔が驚くほどに白い。切れ長の目とほっそりとした頬が特徴的だが、 小一郎には見覚えのない顔である。 「聞いて驚け」 藤吉朗は得意満面の笑顔で叫ぶように言った。 「このお方が、あの竹中半兵衛殿じゃ!」 藤吉朗の背後に立った青年は、すこし迷惑そうな――恥ずかしげな顔を小一郎に向けると、微笑しなが ら軽く頭を下げた。
|
この作品は、 「ネット小説ランキング」さんに登録させて頂いております。
投票していただけると励みになります。(月1回)