歴史のかけら
54時刻は三日の夜明け前。 闇は、東の空から徐々に薄れつつある。
藤吉朗の到着を待たず、すでに浅井勢は姉川の北へと軍を退いていた。 「おぉ、誰某、良き首を挙げたか!」 「誰某、骨折り、大儀じゃ!」 などと藤吉朗はそれらに陽気に声を掛けつつ進み、蜂須賀小六らの幕僚を従えてそのまま本丸へ と入り、留守を任せた小一郎に対面した。 「小一郎、よう城を守り抜いてくれたのぉ! 大手柄じゃぞ!」 弟の憔悴し切った顔を見た藤吉朗はまず大声でそれを言い、その肩を痛いほど叩き、大声で笑 った。 「大事ないか? 誰ぞ死んだりせなんだか?」 「いや、すまん。ようけ死なせてもうた・・・・」
小一郎はそれ以上言う気になれず、祐筆(秘書官)に討ち死にした者の氏名を控えた名簿(みょ
うぶ/リスト)を持ってこさせた。足軽雑兵を含めて百名以上の名が記され、物頭級の者までが数
名そこに含まれている。 「不用意に城を空けたわしの罪じゃ。家族の者には米の一俵も届けさせよう」 雑兵は使い捨てが当たり前で、戦没者への褒美というのは特別な場合を除けばないのが普通だか ら、遺族に対する措置としては厚すぎるほどの手厚さと言っていい。 「そういや、半兵衛殿を見かけんが・・・・・?」 当然、この場にあるべき半兵衛の姿がない。 「大手の守りを指揮して朝から延々働いてくだされておったんじゃが、浅井が兵を退くのを見届け、 その後で倒れられた」 「倒れなさったんか・・・・!」 肝の太いこの兄が、このときばかりはあからさまにうろたえた。 「病の治り切らぬ身体で無理をしてくれたんじゃと思う。今は部屋に運び、休んでもらっておるが、 まだ目は覚めておらんらしい」 「岐阜から腕の良い医者を呼ばにゃならんな。半兵衛殿にもしものことでもありゃ、目も当てられ んわ・・・・」 藤吉朗は、普段は誰にも見せないほどの沈痛な顔をした。
横山城にも金創医(きんそうい)と呼ばれる医者らしい者が数人居るが、これは戦場傷を治療
するのが専門のいわば外科医で、しかも医徒として正規の学問を修めたかどうかさえ怪しく、内
科(ほんぞう)の治療が満足にできるとは言い難い。民間医のレベルもこれと大差なく、多くは
多少の知識と技術を自得した者が勝手に医者を名乗り、巷間に伝わる民間医療を施しては治療と称
していたりする。下野(しもつけ/栃木県)の足利学校などで医術を修めたような高度な技術をも
つ専門医もあるにはあるが、天皇や将軍など高貴な人々の脈を診るために京や堺あたりの大都市に
居を定めているのが普通で、しかもその数は絶望的に少ないというのが現実なのである。 「ともあれ、此度はほんにご苦労やったな。ゆっくり休ませてやりたいが、戦の後始末を済ませ にゃならん。もうちょい頑張ってくれや」 気を取り直したように藤吉朗が言った。 合戦が終われば、雑兵たちは酒を飲んで眠れば仕舞いだが、小一郎ら首脳陣というのは戦後こそ 様々な雑事に追われることになる。負傷者の治療や搬送、戦没者の身内に対する対応などをせねば ならぬのはもちろん、できる限り早く合戦の首実検を行わねばならず、同時に武者たちの手柄を吟 味し、その恩賞を決めねばならないし、生け捕りにした敵兵の処置や、場合によっては人質交換な どの政治的措置も取らねばならなくなるだろう。また、いつ浅井の再反攻がないとも限らないから、 破損した城郭の修復や改修は一刻も早く始めねばならず、そのための人数を部署し、必要ならば資 材も整えねばならないし、浪費した矢弾や火縄、火薬、武具などの補給と、死傷者の交代などの手 続きも早急に取らねばならない。 結局この日、小一郎は眠ることさえできなかった。
一方、居室に運ばれた半兵衛は、そのまま丸一日、目を覚まさなかった。
早駕籠(はやかご)に縛り付けるようにして岐阜から大急ぎで連れて来た医者は、もともと
身体が弱っていたところに過労と心労が重なったのであろうと誰でもできるような診断をし、滋養
のつく物を食わせ、養生を専一にするのが一番、と、これまた誰でもできる処方をもったいつけて
言った。 「そのように気を使わないでください」 その翌日、病床を見舞った小一郎に、半兵衛は弱々しい微笑で応えた。 「少し風邪をこじらせただけです。何日か寝ておれば、また元のようになりますから」 「早う治そうなぞと考えず、しばらくはゆっくりと身体を休めてくだされ。兄者も戻って参りま したし、城の守りのことはもはやご懸念に及びませぬで」
小一郎には、この恩人に掛ける言葉がそれくらいしか見つからなかった。 「こうして日がな一日横になっておりますと、考え事しかできぬせいか、次から次から頭(つむ り)に打つ手が浮かんできます――」
半兵衛は、藤吉朗と蜂須賀小六を枕元に呼ぶよう小一郎に頼んだ。 「北近江を調略するなら、今が機(しお)です」 今度の横山攻めの失敗で、浅井長政の求心力は少なからず低下しているだろう、という意味の ことを半兵衛は言った。 「あれほどの血を流し、しかも何の戦果も挙げられなかったのですから、浅井の譜代の者たちは ともかく、外様の豪族たちは浅井長政殿のやり方に疑義を抱いておるでしょう」 「なるほど」 「もっともじゃな」 二人は頷いた。 「そこで小六殿、御辺の手の者たちを北近江に配り、村々に噂を撒いていただきたい」 半兵衛が挙げたのは、二点である。
ひとつは、浅井が横山から兵を退いたのは間違いであった。あのとき北近江に現れた軍勢は岐阜
からの援軍ではなく、しかもその人数はわずか一千ほどに過ぎず、浅井長政があくまで城攻めを続
けておれば横山城は奪えたに違いなく、援軍も返り討ちにできたであろう、というもの。
ふたつは、信長が近々のうちに、今度の報復のため北近江に大討ち込みを掛けるらしい。その数
は五万ほどで、浅井方の十倍にもなるだろう。長政は小谷城に追い詰められ、敗亡が近いことはもは
や疑いない、というもの。 両方共に、矛盾も無理もない説で、撒くのに苦労はしないだろう。これらの言説が常識として広 まれば、その噂は領民と同根の地侍たちに確実に浸透し、それらを纏める豪族たちの心理にも必ず 影響を与えられる。 「差し当たっての狙いは、姉川の向こう――宮部城」 「善祥坊(ぜんしょうぼう)か・・・・」
宮部 善祥坊 継潤(けいじゅん)という男である。 「それらはわしの方でやっておこう」 小六が請合うと、 「宮部城を押さえ、ここを堅固に守れば、浅井は姉川一帯の支配を失うことになります。さすれば、 国友村の鉄砲鍛冶たちをまとめて織田家の支配に置けるようになる・・・」 と半兵衛が続けたから、小一郎はその目の付け所の鋭さに舌を巻く想いであった。
国友村というのは、この当時、堺に次ぐ鉄砲生産の一大拠点である。 「半兵衛殿、話はよう解った」 藤吉朗が言った。 「宮部善祥坊は、わしがどんな手を使ってでも落とす。半兵衛殿は安堵して養生してくだされ。 早う元気になってもらわんと、わしゃ戦が不安でならんて」 手を合わせて拝むように哀願するのである。 「早う良うなってくだされよ。あぁ、百済寺(ひゃくさいじ)に験のある坊主がおると聞くな。 小一郎、祈祷を頼んでみぃ。銭はなんぼでも出すと言うてやれ」 などと言うのだが、そのくせこの男の食えないところは、自身はその手の妖しげな超常現象の類 は毛ほども信じていないことであろう。 「坊主の修法(ずほう)もええが、今は一椀の粥(かゆ)の方が験があるんとちゃうか。半兵衛 殿、無理をしてでも何か口に入れるようにしてくだされよ」
と、小一郎は返した。
幸い、半兵衛の身体はそれから徐々に快方に向かった。 (信長さまは、存外とお優しい面もお持ちなんじゃな・・・・) などと、小一郎は意外に思ったりした。
宮部善祥坊の調略は、ほぼ一ヶ月でケリがついた。 (信長のことはともかく、この男は信頼するに足る)
と思わせるに十分だったのである。
実際に寝返る段になり、善祥坊はなかなか手の込んだ芝居を打った。
ともあれ、藤吉朗からこれらの報告を聞いた信長は、藤吉朗が想像したより遥かに喜んだ。
信長は、この寝返りを契機に再び大軍を動員し、二月初旬、三万余の軍勢をもって北近江に雪崩
れ込み、虎御前山に本陣を据えて一ヶ月あまりも長滞陣をし、浅井の領地を荒らしまわり、姉川周
辺の小城を片っ端から抜き、小谷城下はもちろん、北方の余呉、木ノ本あたりの村々までを焼き払
った。 宮部城を守る善祥坊という男に目をつけた半兵衛の慧眼と言うしかない。
ちなみに信長は、三月十日には軍勢をそのまま引き連れて志賀へと移動し、琵琶湖畔で本願寺に
味方するの小城を次々と攻め、さらに京へ馬を進め、佐久間信盛、柴田勝家、森長可(ながよし)、
蜂屋頼隆(はちや よりたか)、西美濃三人衆らの軍勢を南方へと差し向け、摂津や河内、奈良など
で苦戦している織田・幕府軍を援け、敵に回った松永久秀や三好義継を攻めさせた。 数万の織田本隊が京に集結したことを知り、これが奈良に乱入することを怖れた興福寺、東大寺 といった寺社勢力の奔走によってどうにか和睦が成立し、このときの奈良への総攻撃は見送られる ことになったが、浅井攻めから続くこれら一連の戦は、しばらく苦境が続いていた織田方の大反攻 と言ってよく、諸国の形勢を一気に挽回した観さえあった。 信長は、京で溜まった政務を片付けると、五月十九日に岐阜に凱旋している。
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