歴史のかけら
55ここに築かれた宮部城は、一重の空堀と土塁、木柵によって囲われただけの砦で、城と言うよ り居館と言った方が正しい。浅井の本拠である小谷城からは南に一里半――時間にするとほ んの一刻(二時間)ほどの距離しかなく、常に危険にさらされているというような状態なのだが、 平野に築かれているために要害になるような自然物もなく、これを守るに非常に不便であった。
宮部善祥坊を調略し、宮部城を手に入れた藤吉朗は、信長が大軍を引き連れて虎御前山に滞陣し
ていた一ヶ月ほどの間に、昼夜兼行の突貫工事で宮部城の大改修を行わしめた。この小城をして、
浅井に対する最前線基地にしようというのである。 一方、信長は、これとは比較にならぬほど雄大な、驚くべき防衛戦略構想を持っていたらし い。 「虎御前山から姉川までの一里半、土塁を築くぞ」 信長からその命を受けた藤吉朗は、主立つ者たちを集めてそう宣言した。 「一里半じゃと?」 一里半と言えば約六キロ――土木工事としては途方もない長さである。小一郎をはじめ、蜂須賀 小六や前野将右衛門ら幕僚たちはそれぞれ唖然とした表情を浮かべている。 「おう。浅井の奴輩(やつばら)をこの長塁で堰き止め、南へ往けなくしてやるわけじゃ。高さ は一丈(約三m)」 と言ったから、小一郎は二度驚いた。それだけの高さまで土を積むとなれば、これは大工事であ る。防御のための土塁であるからその上には柵を植えねばならず、防戦するためのスペースも要る から頂上部はどうしても五mくらいの幅が必要であり、底面の幅は少なくとも十mくらいにはなっ てしまうであろう。それを六キロに渡って延々築くというのだから、これはもう川の堤防を作るの とほとんど変わりがない。いったいどれほどの土と労力が必要になるというのか―― 「信長さまは、お考えになることが常の人とは違っておられるわ。戦をするに、まず地の形から変え るという。天下人のお心っちゅうのは、なんともでっかいのぉ」 藤吉朗は無邪気に笑っている。 「いや、しかし・・・・まさか、それをわしら一手でやれっちゅうんじゃなかろうな?」 「わしらでやるに決まっとるがや。そのための銭はたんと頂戴してきたで、安心せい」 「なんぼ銭があるっちゅうても・・・・」 三千人の木下勢が総がかりで働いても、半年や一年は掛かってしまうのではないか。 「小一郎、わりゃ阿呆か」 藤吉朗はちょっと呆れたように言った。 「必要なモンといや、土だけじゃぞ。そんなもん、どこにでもなんぼでもあるやないか。近在の百 姓たちに持って来させりゃええ」 「そりゃそうかもしれんが・・・・」
そうでなくとも北近江の百姓たちは、連年の戦で疲弊し切っている。浅井が兵を起こすたびに何
度も動員され、攻める織田軍に村を焼かれ、あるいは作物を刈り捨てにされ、ほとんど生活自体が
成り立たなくなっているのである。 「ちぃとは頭を使え、小一郎」 藤吉朗は片眉を吊り上げて笑った。 「百姓どもを無理やり働かそうとするからいかんのじゃ。百姓どもが喜んで土を運んで来るようにし てやりゃぁええだけのことじゃろ」 「・・・・・・・・・・」 「土を買うてやるのよ」 と言ったから、これには小一郎は三度驚かされた。 「米俵に土を詰めて持って来りゃぁ、俵ひとつにつき銭百文か米一升、好きな方で買うてやると言 うたらどうじゃ。ふたつ運んだ者には銭二百文か米二升。一人が日に何度運んでも一向に構わん。 いくらでも買うてやる。土が銭や米に変わると知りゃぁ、みな狂ったように土俵を運んで来るじゃ ろ」 一般に、この当時の日本の労働力というのは驚くほど安く、人夫の給与は日当で米一升ほどであ ったらしい。つまり、藤吉朗の提案はあり得ないほどの好条件と言ってよく、たとえば土俵を一日 に五つも運べば、五日分の稼ぎがたちまち得られるということなのである。しかもこの仕事は誰に でもでき、元手さえ要らないわけだから、これほど美味しい話もないであろう。 藤吉朗はそこで半兵衛を見た。 「半兵衛殿、一里半の土塁を築くに、どれほどの土俵が要りますかな?」 「そうですねぇ・・・・米俵四つで、仮に三尺(90cm)四方の大きさとして――それを高さ一丈まで 積み上げ、堤(つつみ)の上の幅を二丈(六m)、底の幅を四丈(十二m)とすると――それだけ で百俵ほどは必要になりますか。それを一里半並べると――」 半兵衛はしばらく宙を睨み、 「ざっと七十万俵。さらに俵が三尺に足らぬ分と積んだ俵の隙間の分を入れ、堤が曲がって距離が 伸びることなども勘定に入れると、おおよそ百万俵というところですかね」
と言って微笑した。 「なるほどなるほど。で、一俵あたり銭百文か、米一升で買い上げたとすると――」 「百万俵を買ったとして、銭なら十万貫。米なら一万石です」 「ほぉぉ、おもろいな――」 むしろ目を輝かせている。 「一万石の米なら銭を二万貫も出しゃぁ手に入るはずやのに、銭で払うより米で払う方がはるかに 分がええがや。なら、土は米で買い上げることにするか・・・・小一郎」 「なんじゃ?」 「一万石の米を買い集め、すぐに横山城へ運ぶよう手配りせい」 小一郎は慌てた。 「そんな莫大な米を買う銭なぞどこにもないぞ」 反論すると、 「岐阜に残してある我が家の銭や米は全部吐き出しても構わん。足らん分はこの秋のお蔵米でも 抵当(かた)にして京なり堺なりの商人(あきんど)からでも借りりゃええじゃろ」 この兄は事もなげに言った。 「この普請は信長さま直々のお下知じゃから銭を惜しむ必要はないわ。掛かった銭は後で信長さま から頂戴すりゃええんやからな。じゃが、ご当家に一文でも損を掛けたとあってはこの藤吉朗の 男が廃(すた)る。米はできるだけ安う買い叩けよ」
この当時、米の相場は乱高下が激しく、しかも季節ごと、地域ごとに大きな格差がある。例えば
奈良なら、普通は京の半値ほどで米が手に入るが、松永久秀の反乱によって彼の地はいま戦場となっ
ており、諸式の相場が荒れている上に輸送の際の危険度も高い。それに比べると岐阜は経済が比較
的安定しており、輸送距離も短いからコストも低く済むが、奈良で買うより米自体の値段は二、三
割は割高になる。
藤吉朗は信長から当座にもらった銭で人夫を募り、尾張、美濃などから二千人の人間を集めた。
これが、築堤作業そのものの主力である。この人数を百人ずつ組にし、組ごとに責任者である奉行
と土木監督となる職人を数人置いた。鍬やもっこ、木材などの必要な道具はあらかじめすべて揃え、
炊き出しをする炊事班を別に置き、人夫たちの組は二交代制にして昼夜兼行で作業のみに専念させ
る。しかも、やり方はお得意の「割り普請」である。毎日毎日組ごとの作業量を競わせ、早くし遂
げた組には驚くほどの褒美を出し、人夫たちのヤル気と欲をいやが上にも掻き立ててやる。
実際の作業は、信長が京に向かって北近江を去った三月中旬、敵から遠い姉川の河畔から始まっ
た。 「信長さまが京から戻られるまでに作り終え、出来栄えを見ていただくのじゃ。皆みな、励め励 め!」 藤吉朗は毎日のように普請場に立ち、人夫たちに笑顔で気さくに声を掛け、あるいは冗談を飛ば し、その働き振りを熱心に監督した。
最初、近在の百姓や町人たちは、土を持ってゆくだけで米がもらえる、という布告を信じなかっ
た。が、事実と解ると、人々は競うように土俵を抱え、あるいは土俵を山積みにした車を押すなど
して、陸続と普請場に集まるようになった。遠く南近江から噂を聞きつけて来る者もいたし、土俵
を担いで走りながら日に十度も二十度も米を貰いに来るような豪の者もあり、女・子供や足の悪い
老婆までが土俵を引きずってやって来、人々が群れ集まって、連日、縁日のような賑わいを見せる
ようになった。
その意味で、これは一種の公共事業であるとも言えた。 藤吉朗は、この普請場でも一瞬たりとも時間を無駄に過ごさない。常に四方に目を配り、体格や 面構えの良い百姓を見かけては声を掛け、その肩などを叩き、冗談を言って笑わせたり、 「百姓なんぞやっとらんで、侍にならんか。働き次第でなんぼでも立身させてやるで、その気にな りゃいつなりとわしのとこに来い」
などと勧誘したりした。 後に藤吉朗は北近江を信長から貰い、長浜に城を築いてこの地域の領主になるのだが、その際、 浅井の旧臣や地下(じげ)の人々が反乱や一揆をまったく起こさず、領主である藤吉朗に従順に懐 いたのは、ひとつにはこのときの藤吉朗が疲弊する民を無理やり動員するような強権を用いず、そ の飢えを救ってやったからであり、領民たちに少なからぬ親しみを持たれていたからであったろ う。
(あんなところに、何を・・・・?)
いつ戦場になるかもしれぬ場所で治水工事をするというのも理に合わないだろう。 (まさか・・・・姉川から延々、陣城を築こうというのか・・・・・?)
その現実を目の当たりにしても、まだ信じられなかった。 (なんということを考え付くのだ・・・・!) 戦慄する以外ない。
あの長塁が完成すれば、浅井勢は南下を物理的に防ぎとめられる。これまでは織田本隊が押し寄
せて来たときは小谷城に篭って守り、それが退いた後に姉川までの支配地域を再び取り戻すことが
できたのだが、あの長塁によって地が仕切られれば、浅井領は完全に切り取られることになるであ
ろう。 長政は事態を重く見、どうにかこの普請を妨害し、失地を回復しようと焦った。
が、今や、浅井の軍兵は木下勢より数で劣っている。
天候に恵まれたこともあり、長塁の工事は一月と掛からず、梅雨入り前の四月の上旬(新歴の
五月中旬)にはほぼ完成した。 (信長という男は・・・・!) 小谷城に篭る将兵たちは、このときほど信長の凄まじさを実感したことはなかったであろう。湖 北の山野の姿を変えてしまうことで、信長は己の力の強大さを映像として見せつけたと言ってい い。 「古来、城は力で攻めるを下策とし、そこに篭る人の心を攻めることをもって上策とします」 一日、半兵衛が完成した土塁の上から小谷城を遠望しながら言った。 「この大掛かりな普請は、敵を防ぐためのものと言うより、むしろ城攻めの軍略であったのやもし れませんね。こういう方法があるというのは、私は思いつきもしませんでした・・・・」
初夏の爽やかな風になぶられたその横顔には、いつもの微笑が浮いていた。 「こんなものを見せつけられたら、誰でも気を飲まれてしまいますなぁ」
ため息をつくような想いである。 実際、これ以降、浅井の軍兵たちの戦意は目に見えて衰え、積極攻勢に出ることもまったくなく なった。 ここで少し余談をすると――
藤吉朗は、戦に土木工事を持ち込むという信長のこの発想を、このときに学んだ。
豊臣秀吉の様々な事績は、徹頭徹尾、信長という偉大な師を模倣するところから始まっている。 藤吉朗は信長の冷酷さ、血生臭さは真似なかったが、その革新的な発想法から多くのものを学び、 それによって自らを研磨し、自分の血肉にしていったということだけはどうやら間違いがない。
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