歴史のかけら
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信長は、そのわずか6日後、伊勢 長島を攻めている。
5月12日に岐阜を出陣した信長は、尾張 津島まで自ら馬を進め、全軍の指揮を執った。 摂津 天満ヶ森の時に続き、信長は一向一揆相手に再び敗北を喫したわけで、信仰によって結束 した一揆の厄介さと恐ろしさとを再認識させられたであろう。このときから信長の「武力を持った 宗教勢力」に対する憎悪が決定的になるのだが、いずれにしても、この合戦は織田方の惨敗であっ たと言うしかない。
この長島攻めの失敗が象徴しているように、織田家を取り巻く環境は、依然として好転の兆しさ
え見えていない。
信長は、ジリジリとした焦燥の中にある。
そして信長は、驚天動地の一手を打つ。
先にも少し触れたが、この比叡山は、伝教大師 最澄が天台宗を開き、一乗止観院という草庵を
建ててここに腰を据えて以来、八百年の法灯を守る至尊の霊場であり、京の鬼門を守る王城鎮護の
大刹として古くから人々の尊崇を集めてきた。 無論、この霊域の機能というのはそれだけではない。
日本仏教史において比叡山ほど名僧・高僧を多く輩出した場所はなく、いわゆる「鎌倉新仏
教」――浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・時宗・法華宗(日蓮宗)――のうち一遍が創始した
時宗を除く他の5宗派の始祖(浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、法
華宗の日蓮)はいずれもその修行時代をこの場所で過ごしているし、元三大師(がんさんだいし)
の名で知られる良源やその弟子である源信、融通念仏を唱えた良忍など、仏教史に輝かしい足跡
を残した者の名だけでも枚挙にいとまがない。
さらに言えば、比叡山は山そのものが山岳信仰の対象でもある。
つまり――誤解を怖れずに解りやすい表現で言えば――比叡山は仏教の聖地であるのみならず
『古事記』の時代から崇め奉られている聖域であり、二十一柱の神々がまし坐す神の棲家でもある
わけだ。
しかし―― 「信長さまは、明智殿に坂本付近の豪族や地侍を調略し、延暦寺から離間させるようお命じなさ れた。その結果にもよるが、叡山攻めは、おそらくこの秋ごろに行われることになるじゃ ろな」 岐阜で行われた軍議から帰った藤吉朗からこの話を聞いたとき、小一郎は発すべき言葉を失った。 さしもの半兵衛も驚愕の表情を浮かべていたし、蜂須賀小六は不快そうな表情を隠さなかった。前 野将右衛門などは、 「・・・・信長さまは正気を失いなされたかよ」 と呟くように言い、己の吐いた言葉の不敬さにさえ気付いてないようであった。 (本気でやるっちゅうんか・・・・) 叡山を攻めるなどというのは、常識ある者の決断し得るところではない。
もちろん、軍事的には可能であるだろう。 叡山を焼けば、その蛮行は下手をすれば前代未聞の悪行として後世にまで伝わるであろうし、信 長にとって生涯の汚点となるであろう。本願寺の顕如が喧伝している「信長は仏敵である」という 言葉の印象を決定的に裏付けることになるし、何より民衆の怒りと不信を買うことになる。織田家 はますます世間から孤立し、信長の「天下布武」にも大きな支障となるに違いない。 「誰も、お諌めせなんだんか?」 小一郎は尋ねた。 「わしはせなんだがな。右衛門殿(佐久間信盛)や明智殿は、それだけはお止めくだされ、なぞ と無駄な諫言(かんげん)をしておったな」
藤吉朗は意外にサバサバした表情をしている。 「まぁ、そのような言葉に耳を貸される信長さまではないわい。罪のない坊主たちには哀れじゃ が――あぁ、坊主に罪がないわけではないと、信長さまは言うておられたな。罪のない、と思う てはならんか――」 「山法師どもはともかく、叡山(おやま)の坊主になんの罪があるっちゅうんじゃ」
将右衛門が口を尖らせた。 しかし、藤吉朗は事もなげに言った。 「山法師どのものさばらせ、その悪行を世間から隠しておるは、高僧・名僧などと煽(おだ)てら れておる叡山の坊主どもじゃろ。まことに名僧と言うなら、まずはその山法師どもを悔い改めさせ ねばならんはずじゃが、誰もそれは見て見ぬ振りではないか」 こう言われれば、将右衛門にも返す言葉がない。 「また、まことに神や仏がおるなら、この者どもに真っ先に神罰なり仏罰なりを与えねばならんは ずじゃが、それもない。神や仏がせぬなら、これに代わって天の裁きを下してやるのじゃと、信長 さまは言うておられたわ」
神仏に代わって天の裁きを下す―― 「それだけではないぞ」 と藤吉朗は続けた。 「去年のことを思え。浅井・朝倉が叡山に陣取ったとき、叡山の坊主どもは中立を守ると言いなが ら浅井・朝倉を叡山(やま)から追おうとせず、それどころか裏ではこれに米塩を贈り、山篭りを 援けておったじゃろ。それが、世俗を離れた坊主のやることか?」
信長はそのとき、叡山に向けて使者を送り、筋と道理を通してこれを説得している。 しかし、まさかこれを「本気」と思う者はなかったであろう。 「世俗の争いの一方に加担した以上、世俗の罪をかぶるのもまた覚悟の前でなければならん。信長 さまは、ちゃんと筋を通されておるわ」
理屈は、藤吉朗の言っていることが正しいかもしれない。 叡山は、別に表立って織田家に反抗しているわけではない。ただ、浅井・朝倉に多少の便宜を図 ったというだけである。この叡山を攻めるというのは、やはり「やり過ぎ」という感が否めない。 「半兵衛殿・・・・」
小一郎は半兵衛を見た。 「叡山を攻めるにしても、そのやり方はいろいろとあります。浅井・朝倉が再び叡山に陣を張る ようなことをなくするためなら、焼かず、殺さず、叡山から僧たちを追うだけで済ますという手も ある」 半兵衛は、苦い汁でも飲み下したような表情で、呟くように言った。 「しかし――もし、万一、岐阜さまがその言葉通り、叡山の堂塔をことごとく焼くような暴挙に出 たとするならば――それは、『天魔の所業』と世の人々から長く蔑みを受けることになるでしょう ね・・・・」 「天魔・・・・・!」
もはや信長は人ではなく、魔王である――という評価が、世間で下されるということであろ
う。 「叡山を攻めるのは、何も岐阜さまが最初というわけではありません。たとえば――百五十年ほど 昔の話になりますが――室町幕府の6代将軍 足利義教(よしのり)公が叡山を攻め、根本中堂をは じめ堂塔を残らず焼き、僧を斬首し、延暦寺を幕府に屈服させたという先例があります。義教公は 奈良の興福寺など数多の宗教勢力を討ち、九州や関東を平定し、衰微した幕権の興隆に務めた将軍 ではありましたが、その治世は『万人恐怖』と怖れられました。義教公の専横は人の恨みと嫉みを 買い、それが諸大名の疑心暗鬼を生み、挙句に、幕府の四職――いわば腹心であった播磨の守護 赤 松親子に謀殺されることになるのですが――このお方は『天魔王』と揶揄され、その非業の死は 『因果応報』ということで評判になったと――物の本で読んだことがあります」
藤吉朗の幕僚で教養のある者などはほとんどいないから、この手の話についていける者は誰も
おらず、一同、返す言葉もない。 「また、同じく七十年ほど昔、“流れ公方”と揶揄された足利義稙(よしたね)公を推戴した越前 の朝倉貞景殿が上洛を策した際、延暦寺がこれに呼応する動きをしたため、京で幕府を牛耳ってい た細川政元殿がやはり叡山を攻め、堂塔を焼いています」 京を目指して越前から軍を発し、叡山に立て篭もった朝倉義景の動きとそのまま重なる。京を牛 耳る信長は、朝倉に呼応した叡山を、今まさに討とうとしているのだ。 「この細川政元殿は――『天魔』と呼ばれたかどうかはまでは知りませんが――己の警護役であっ た者たちに湯殿で襲われ、四十代の若さでやはり非業に死んでいます。いずれにしても、あまり縁起 の良い話ではありませんね」
それも、身から出た錆び――天の報いだとでも言うのか――
信長なら、神仏は怖れまい。 「叡山攻めが、吉と出るか凶と出るのか――こればかりは私にも解りません。しかし、この事を目 の当たりにすれば、世間の人々と共に畿内の大小名や寺社などは震え上がり、先人たちの所業を 思い出すだろうことは間違いない。己の吐いた言葉を必ず実行する岐阜さまの果断さを思い知らされ、 いま煮えきらぬ態度をしている者どもも、織田家に従うか叛くか、決断を迫られることになりまし ょう」 信長による叡山攻めは、元亀2年(1571)9月12日、諸人の想像を絶する規模で実行に移された。
8月18日、岐阜を出陣した信長は、その日のうちに横山城まで至ったが、ここで数日足止めされ
ている。 信長は浅井が動かないことを見て取ると、難攻不落の小谷城には手をつけず、28日には兵を引い て佐和山城へ移動し、佐久間信盛、丹羽長秀、柴田勝家、中川重政に命じて南近江で敵対している 豪族の城を次々と攻略させ、さらに9月3日、南近江の一向宗の最大の拠点である金ヶ森を落 とした。これ以後、南近江では大きな一揆が起こってないことを考えると、この時点での湖南地域の 一向一揆の芽は一掃されたと言っていいであろう。
そして信長は、延暦寺に兵を向ける。
ちなみに小一郎と半兵衛は、この叡山攻めには参加していない。例によって、横山城を守るよう
藤吉朗から命じられたからである。 信長がどうやら本気で攻めてくるらしいと知った延暦寺の僧たちは、あわてて黄金三百枚を贈っ て寄越し、どうにか和を請おうとしたが、信長はその愁訴を一蹴した。 「今さらこんな物で、このわしの心を買えると思うてか!」
かえって激怒し、全軍に冷酷無比の指令を下した。
叡山攻めは、翌12日の早朝から行われた。
山麓に住んでいた者たちは、織田軍の突然の襲撃に驚き、裸足で日吉(ひえ)大社の奥宮が置かれ
る八王子山に逃げ登り、あるいは二十一社の社殿や叡山の堂塔に逃げ込んだ。織田兵たちは鬨の声を
上げながらこれを追い、血の匂いに狂った悪鬼のごとく山や谷を跳梁し、堂塔を見るや手当たり次第
に火を掛け、逃げ惑う人という人を槍で突き殺し、死体を火炎の中に投げ入れた。
皮肉な話だが、こういうときにこそ叡山(おやま)を守って戦うべき山法師たちは、真っ先に逃
げ散っていくらも里坊には残っていなかったらしい。 里坊がある比叡山麓の坂本には、無辜の民も多数暮らしている。坂本の町屋が焼かれることを怖 れ、多くの者が山内に逃げ込んでいたのだが、彼らはもっとも不幸な犠牲者であったろう。この聖 域には本来いるはずのない女人が数え切れぬほど殺されることになったのはこのためで、泣き叫ぶ甲 高い声がひときわ山谷に響いたが、信長はこの殺戮に一切の例外を許さず、それらはみな捕らえて 首を刎ね、遺体は無残に打ち捨てられた。
信長に従う多くの武士たちにとってさえ、この酸鼻を極める光景というのは胃の腑から黄液が逆流
するほどに気分の悪いものであったろう。武士は戦場で殺し合うのが稼業だが、無抵抗で逃げ惑う弱
者や女・子供を殺すことはその本分ではないのである。
忠実な織田兵たちが振るう刀槍は筆となって阿鼻叫喚の地獄絵を描き出し、神の棲家を焼く紅蓮の
炎と人肉の焦げる匂いがそれに彩りを添えた。天は黒煙に覆われ、大比叡山腹に揺らめく炎は京から
も見え、多くの人々にこの世の終わりを連想させたという。 この戦闘で、織田方の死者はわずか数人しか出なかったという。
「地獄を見たわ・・・・」
と言ったのみで叡山攻めのことについては一切口にせず、その日は食事もろくに取ろうとしなか
った。
小一郎が小耳に挟んだところでは、藤吉朗は叡山北部の包囲を受け持ち、横川の山谷を攻め登った
らしいのだが、この方面では、斬獲された首の数が不思議なほど少なかったという。 「信長さまというお人が、よう解らんようになったわ・・・・」 その夜、慰労のために開かれた酒宴で、小六がぼそりと呟いた。 もちろん、もともと解っていたというほど信長という人間を知っていたわけではないであろう。 しかし、これまでの信長の所業と比べても、今回の叡山での虐殺はちょっと常軌を逸した感がある。
信長は常に正義を好み、道理を好み、合理性を好む。 (信長さまがやった事は、本当に正しいことなのか?) という素朴な疑問を抱かずにはおれなかったろう。 「叡山でのことを、解ろうとしてはなりません」 静かに手酌で酒を飲んでいた半兵衛が言った。 「岐阜さまの成されたことの善悪正邪を決めるのは、我らではなく、またこの世に生きるいかなる 人でもない。何十年か、何百年か――後の世に生きる人々が、叡山で流された血の本当の価値を決め るのです」 「何百年先の世に生きる者たちが、か――」
小六はそれ以上何も言わなかった。 「天下人の御心は、『天』のものです」 「『天』・・・・?」 藤吉朗の視線を受け、半兵衛は頷いた。 「これを、我らが『地』の物差しで計ろうとしてはなりません。計ったところで計り切れず――結 局は、苦しむだけですよ」 小一郎にとっても、この夜の酒は、常になく苦い味になった。
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