歴史のかけら
5古くからある決まりやしきたりはとりあえず否定し、すべて自分の合理性と独創性に任せて再構築せ ねば気が済まないようなところがあり、しかもそういう自分を言葉でいちいち説明することをしなかっ たから、他人から見ればやること為すことが突飛に過ぎて、誰一人として理解できる者がいなかった。 『信長公記』の記述によって若い頃の信長の様子を見てみると、 「片袖をはずした浴衣に半袴を穿き、火打石や木の実など色々な物を入れた袋を腰にいくつもぶら下げ、茶 筅に巻き上げた髪のもとどりを紅や萌黄色の糸で縛り、朱鞘の太刀を差し、お付きの者にもみな朱色の武具を 付けさせるという有様で、」 「町中でも人目もはばからず柿や瓜を齧りながら歩き、立ったまま餅などを頬張り、人に寄りかかったり 人の肩にぶら下がったりするような歩き方しかしなかった」
というから、大名の御曹司どころか無頼漢やならず者と少しも変らない。 この物語のこの時期――永禄9年(1565)の信長というのは、数えで32歳になる。さすがに昔のような「奇行」をす ることは少なくなったが、子供じみた心――旺盛な好奇心と瑞々しい感性――を持ち続けたということは、この男 の生涯を貫く特徴になっている。
信長には――信長自身がそうであったからかもしれないが――珍奇な人や物を好む性質がある。 「だいたい乞食というのはその住処が定まらず流れ流れてゆくものなのに、この者だけはいつも変らずこの場所 にいる」 と言って面白がり、それを京にいるときにふと思い出し、わざわざ出かけて行って木綿20反を手ずから贈り、 「これでこの者の暮らしが立つようにしてやってくれ」
と、近在の村人たちに命じたりしている。
それほどの信長である。 「半兵衛というヤツは、よほど面白い男らしい」
としきりに言い、稲葉山城を売ってもらうことは断わられたものの、そのことによってかえって半兵衛という
男に清々しさと好もしさを感じ、興味を持つようになっていた。 「あの男を連れて来い」
と家臣に探させていたのである。
と藤吉朗が言い出したのは、永禄9年の春のことであった。 「そりゃぁ覚えとる。稲葉山城を奪い取って、何処かへ雲隠れしたお人じゃろ」 伊木城の本丸館で、小一郎は藤吉朗と向かい合って夕餉を取っていた。 「おう、その半兵衛殿じゃがの。居所が知れたそうじゃ」 状況報告と今後の指示を受けるために一時小牧へ戻っていた藤吉朗は、信長からその話を聞き込んできたら しい。 「なんでも近江(滋賀県)の東――美濃を出たすぐの山の中に隠棲しておるらしいわ」 「なるほど。さすがに美濃には居られんわな」 あれほどの事件を引き起こした半兵衛である。美濃国内に居ることが知れれば、斉藤竜興が討ち手を差し向けて 殺してしまうであろう。 「信長さまは半兵衛殿に痛くご執心でのぉ。何度も使いを送り、織田家に仕えるよう誘っとるらしいのじゃが、半兵 衛殿は首を横に振るばかりなんじゃと」 「ふぅん・・・・半兵衛ちゅう人は、このまま世を捨てて生きてゆくつもりなんじゃろうかのぉ・・・」 小一郎が何気なく言うと、 「いや、そらありゃせん。最初っから世を捨てるつもりなら、稲葉山城を奪って世間に名を轟かす必要がない わい」 と、藤吉朗は言い切った。 「・・・あるいは、半兵衛殿は、信長さまを好かんのかもしれんのぉ・・・・」 このときの兄弟の会話はそれで終わり、小一郎は竹中半兵衛という人間のことをそれっきり忘れてしまっていた。 直接に関わりのない半兵衛を気に懸け続けるには、小一郎の日常はあまりにも忙しすぎたのである。
墨俣は、尾張の中心である清洲から北西――濃尾国境を過ぎてさらに5kmほど行ったところにある。揖斐川と長
良川に挟まれた低地で、岐阜と大垣を結ぶ交通の要と言っていい。当時からすでに、「洲俣(墨俣)を制す者は美濃を
制す」と言われるほどの要地だったから、斉藤家も早くからここに砦を置き、兵を篭めて守備していたらしい。 これはつまり、美濃の南部で橋頭堡を築くとすれば墨俣ほど条件が揃った地はないということであり、信長 は遅くとも永禄4年にはそのことに気付いていたということなのだ。
そのときから5年の月日が流れ、美濃の状況は以前とはかなり違っている。
今なら墨俣に軍事拠点を築いてそれを維持することができると判断した信長は、大軍を率いて墨俣に出
陣し、出撃してきた美濃勢を撃退しながら昼夜兼行で破却した5年前の砦を改修増築させた。 5年前に砦があった場所というのは、長良川に面した盛り立った台地で、犀川が蛇行しながら長良川に流れ込む 地点である。この2筋の川が砦の東西北を囲う外堀になっており、陸続きの南側に堀を掘り、土塁を掻きあげ、 柵を植え込むだけで十分な防御力が期待できる。しかも砦となる地点が、地面の低いこの墨俣一帯には珍し い台地であるため、川面からは数mも高い位置にあり、川を越えて這い上がってくることが非常に難しい上に水 害の怖れも少ない。まさに、城を築くために天が配したような理想的な天然の要害である。さらに言えば、以前 の砦の空堀や土塁の部分はほとんどがそのままの状態で残っているから、柵や塀を立てることだけならさして時 間は掛からない。
藤吉朗は、人間たちを巧みに指揮してまず堀と土塁を改修し、数万本の材木を使って防御柵を一気に仕上げた。
その後、城の外囲いを作り、あらかじめ調製してきた木材を使って10基の櫓を素早く建て、火除けの泥を塗らせた。
ここまでで――ほぼ5日――砦の一応の外観は出来上がってしまうわけである。あとは、ゆるゆると屋敷や長屋な
どの居住部分を完成させていけば良い。 藤吉朗の人使いというのは実に機能的であった。人数を部署し、担当を割り振ると、早く仕事をし遂げた組には 莫大な褒美を与えると約束して組と組とを競わせ、全体の作業スピードを上げさせたのである。これは「割り普 請」という藤吉朗の常套手段で、以前――まだ藤吉朗が小者頭に過ぎなかった昔――清洲城の石垣修理の仕事を請 け負い、瞬く間に完成させて人々を驚かせるということがあったのだが、そのときと同じ手法であった。
美濃勢も、墨俣築城を手をこまねいて見ていたわけではない。稲葉山から大軍勢が押し寄せてきたが、これは信
長が追い払った。そうこうしている間に砦の外観が出来上がってしまい、簡単には手が出せなくなった。
信長は、櫓の建築がほぼ終わったのを見届けると、墨俣砦の完成を急ぐこととその死守を藤吉朗に命じ、兵を引
き上げた。
墨俣砦は、ほぼ2ヶ月で完成した。 「ほぉれ、また敵が来よったぞ!」 敵が攻め寄せて来るたびに、藤吉朗は土塁の内側を喧しく駆け回って士卒を励ました。 「良いかぁ、わしの言う通りにしておりゃ必ず生きて帰って嬶殿の顔を拝ましてやるで、安心せい! 勝手をする と犬死するぞ!」 「近付いてくる奴輩(やつばら)は鉄砲で仕留めてしまえ! 決して柵から出てはいかんぞぉ!」 「こりゃ誰某、怯えるな! 敵の美濃勢とて鬼ではないわい!」
大声で怒鳴りながら、しかも陽気な笑い声を絶やさない。 (兄者には、意外な才があったもんじゃ・・・) 誰よりも藤吉朗を知っているはずの小一郎でさえ、そう思った。
たとえば蜂須賀小六も、小一郎とまったく同じ感想を持ったらしい。 (こういう大将はかつて見たことがない)
と感心した。 (藤吉は良い) 小六がこの小男に生涯仕えることを決めたのは、この墨俣砦の攻防戦で藤吉朗という人間の本質をまざまざと知 らされたからであったに違いない。
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