歴史のかけら
471万5千ほどだった織田勢は、すでに2万余にまで増えている。
信長は本能寺を宿舎にして一両日兵馬を休ませると、25日に京を出陣し、淀川沿いに南進して摂
津に入り、天王寺に本陣を据えた。
信長の犀利さは、この戦陣に足利義昭を半ば無理やり出馬させたことであった。 「公方さまのご親征なれば、我らもお供せねばなるまい」
ということで従軍を願い出てくるような地侍が畿内には多かったし、織田方の将士の士気もにわ
かに騰がり、敵である三好方の軍勢にさえ狼狽の色が見えた。
ともあれ、義昭は信長の要請を断りきれず、8月30日に京を出馬し、9月2日に本願寺の
石山御坊からすぐ西にある摂津 中之島城に入った。
『信長公記』によると、織田方は、野田と福島の砦の周囲に城の外囲いより高い土手を築き、櫓
を多数建てると、城を見下ろしながら矢弾を浴びせ、信長が特注して作らせた大鉄砲(大砲)を撃
ち込むなどして敵を痛めつけたらしい。 信長がこのとき本陣を据えた天満ヶ森というのは、本願寺の石山御坊から淀川の支流を一筋隔て たすぐ北――現在でいう大阪北区――にある天満宮の社領があった地域で、戦国のこの当時、広大 な森になっていた。本願寺に脇腹をさらすようにしてわざわざここに本陣を据えたのは、信長が本 願寺の不戦の約束を信じ切っていたことの証拠と見るべきであろう。 しかし、このことは信長の不覚であったと言わねばならない。 本願寺の門主である顕如(けんにょ)は、この時すでに信長と戦うことを決めていたらしく思え る。不戦の黙約を与えたのは、信長を油断させ、時間を稼ぐための方便であったらしい。 顕如は、信長が天満ヶ森に布陣する以前の9月6日の時点で、畿内近国にある一向宗の夥しい寺 院に、決起を促す檄文を送っている。 「信長上洛以来、当本山は非常な迷惑を蒙ってきた――」 という文句から始まるこの檄文は、石山御坊を破却すると脅されたことなど信長のこれまでの様 々な横暴を罵り、「親鸞(しんらん)聖人以来の門流の途絶の危機である」と叫び、今こそ門徒た ちが「身命を顧(かえり)みず、忠節を尽くしてくれるよう」訴え、「万一にもこの激をないがし ろにする者があれば、それらは永く破門とする」とまで宣言し、最大級の口吻でもって信長と戦う ことを門徒に命じている。 本願寺は、すでに朝倉氏、三好氏、六角氏などと款(かん)を通じており、9月10日には浅井親 子とも同盟し、巨大な反織田同盟の形成に成功していた。信長をおびき寄せ、三好氏と結んでこれ と戦うことで織田の大軍勢を摂津に釘付けにし、その隙を衝いて全国の門徒を蜂起させ、同時に同 盟した六角、浅井・朝倉などに信長の背後を襲わせる、というのが本願寺側の戦略であったのだろ う。
すべての手はずが整ったと見た顕如は、9月12日の夜、ついに決起を命じ、一向門徒を中心とす
る数万の一揆勢が天満ヶ森へと雪崩のように襲い掛かった。
中立を守ると思い込んでいた本願寺勢に、突然に本陣を夜襲された信長は、激怒する以前に恐怖
したであろう。
この状況を、待ってましたとばかりに動いたのが、浅井・朝倉である。 一揆勢との局地戦が散発的に続くなか、京が危ないと知った信長は、この期に及んで三好氏や本願 寺と和睦しようと働きかけたりしたが、受け入れられるはずもない。織田方劣勢のまま戦況はこう 着状態になり、摂津は泥沼の消耗戦の様相を呈してきた。 その間、浅井・朝倉は織田方の宇佐山城を包囲・攻撃している。
宇佐山城は大津市錦織町の宇佐山の山頂に築かれた城で、比叡山 延暦寺の監視と京の北を守る防
波堤のような役割を担っている。家老級の重臣であった森可成、信長の実弟である織田信治などが
1千ほどの兵を率いて守っていた。
この宇佐山城の陥落によって京は剥き身になったと言ってよく、これを守る城はもう存在し
ない。
信長は窮していた。 歴史を知る後世の我々から客観的に見ても、信長の生涯において、誇張でなくこの時こそが最大 のピンチであったろう。
信長が窮地にある、ということは間違いない。 四面楚歌――まさに四方で敵の歌ばかりが響き渡っているのである。 「半兵衛殿・・・・!」 藤吉朗は日に何度も半兵衛を呼び、善後策を協議したが、いかに半兵衛といえども魔法が使える わけではない。有効な手など打てようはずもなかった。
三好勢が立て篭もった野田・福島の砦の包囲を解いた信長は、全軍を総退却させた。摂河泉(摂 津・河内・和泉の3国。現在の大阪府)の国衆にはそれぞれの城で防戦するよう命じ、織田勢と幕 府勢の計3万ほどを率き連れると、足利義昭と共に京へ退き返したのである。
この信長の決断が、9月21日。
織田本隊がいなくなった後の摂河泉の国衆たちこそ哀れであったろう。
こういう騒動を待っていた者というのは、京の近辺にも居たらしい。山城(京都府南部)の地侍
たちは、どさくさ紛れに徳政(借金帳消し)を求めて一揆を起こしたりしている。
義昭が策した反織田包囲網は、すでに彼の構想を超えて一人歩きし始めていた。 義昭は京の将軍御所に篭り、震えるような気持ちで事態の推移を見守るよりほかどうしようもな かった。 一方、信長はどこまでも不撓不屈(ふとうふくつ)である。
京の周辺から浅井・朝倉の先遣隊を追い払った信長は、そのまま敵を追い、洛北の野を風のよう
に駆け、宇佐山城を猛攻して奪い返すと、浅井・朝倉が本陣を据えた坂本まで一気に兵を進めた。
比叡山というのは、京の鬼門を守る王城鎮護の霊場であり、伝教大師(最澄)以来の仏法の聖地
である。その存在そのものが宗教的権威と言ってよく、信長が嫌悪する旧秩序の象徴の1つであっ
た。 「自分の意のままにならないのは、鴨川の流れと双六の賽の目と、山法師である」
と憤慨したとされる故事でも解る通り、その暴慢と横暴で古くから悪名が高い。 「叡山の糞坊主どもが・・・・!」 比叡山の諸所に靡く敵の旗を見上げながら、信長は日に何度も呟いたであろう。 織田家が畿内を支配するようになって以来、寺領を織田方の武将たちに横領されていた延暦寺は、 当然ながら織田嫌い、信長嫌いであった。もっとも、坊主たちも織田家の武力の強大さと信長という 男の危険さは十分に解っていて、さすがにこれまで表立った反抗はしていなかったが、潜在的に織 田家の敵であることには違いない。 信長は、 「我らに味方するか、それができないならばせめて中立を保て。浅井・朝倉を援けるようなら、全 山を焼き払うぞ」 と延暦寺を脅しつけた。 延暦寺の坊主たちも、愚かではない。表面上はあくまで謙譲を装い、「仏法を守る叡山は世俗の 争いごととは無縁であるから」と表向きは中立の立場を表明したのだが、比叡山に腰を据えた浅 井・朝倉の軍勢を排除しようとはせず、裏では兵糧や物資の提供などを行って支援していた。 浅井・朝倉は、広大な比叡山のあちこちに砦を築き、少人数のゲリラ戦術を駆使して神出鬼没 し、野に陣を据える織田勢を翻弄した。山岳戦が苦手な信長はこれに有効な対抗策がなく、十日、 二十日と、時間ばかりが無為に過ぎてゆく。 その間も、摂津、河内などでは一揆勢が凄まじく荒れ狂い、泣くような救援要請が頻々と届けら れていた。また、南近江で兵を挙げた六角氏の残党どもが一向一揆勢と結び、琵琶湖南岸の織田方 の城を攻め、これを圧迫している。さらに、一向宗の一大拠点であった伊勢 長島でも数万人規模 の巨大な一揆が起こり、足元の尾張にまで火がついた。
が、信長と織田勢は坂本を一歩も動けない。 信長は、まさに進退が窮まっていた。
信長からの援軍要請を受けた家康は、再び5千の精兵を率き連れて9月の下旬に遠州 浜松を出 陣し、三河から尾張、美濃と進み、関ヶ原を通って北近江へと出張って来た。 「織田殿からのお申し越しで、拙者は近江 坂本へと出向きます。城の前を通りまするが、お騒が せすることをお許し願いたい」 律儀で有名な三河のこの大名は、横山城の藤吉朗までわざわざ使者を送り、慇懃に通行許可を 求めてきた。 「三河殿の勢が加われば、南近江を押し通ることもできましょう。木下殿、岐阜さまの元へ往か れませ」 これを聞いた半兵衛は、即座にそう勧めた。
藤吉朗は、これまで何度も信長の救援に出ようとしていたのだが、半兵衛はそれを押し留めて
いた。南近江では一向一揆勢と結んだ六角氏の残党が1万とも2万ともいう軍勢を集めており、こ
れが神出鬼没するために、千や2千の小勢では動きが取れなかったのである。 「・・・・この横山の守りはどうする?」 「人数を千も残してくだされば、城は小一郎殿と私とで守ってみせます」
その言葉に小一郎は耳を疑った。 見ると、半兵衛はチラリとこちらに視線を飛ばし、微笑した。 「半兵衛殿は、わずか16人で稲葉山城を奪ったほどの仁じゃ。それが千もの兵を率いりゃ、城を守 るくらいわけなかろう」
前野将右衛門が景気の良い声を重ねた。別に嫌味で言ったわけではなく、心からこの軍略家の
手腕を信頼し切っているのであろうが、城に残される小一郎としては、とてもそんな楽観はできな
い。 「木下殿は2千の兵を率いてください。途中、佐和山へ寄り、丹羽殿からも兵を借りれば、三河殿 の勢と合わせて8千やそこらにはなりましょう。敵は万を越すとは言え、錆び槍を抱えたような一 揆の勢、よもや負けるようなことはありますまい」 藤吉朗はしばらく細い腕を組んで考えていたが、 「解った。そうさせてもらうとしよう」 半兵衛の言に従うことを決め、 「そうと決まれば事は急ぐ。さっそく五郎左殿にも報せねばなるまい」 丹羽長秀がいる佐和山へ早馬を送り、状況と今後の動きを報せると、自ら2千の兵を率いて家康 と徳川勢を出迎え、これと共に信長の元へと向かった。
小一郎は、藤吉朗の名代として横山城に残った。 「兄者は大丈夫でしょうか?」 二人きりになったとき、小一郎は半兵衛に尋ねてみた。 「まぁ、よほどの事がない限りは、岐阜さまの元へは辿り着けると思います」 半兵衛はいつもの微笑を浮かべた。 「三河殿の援軍の意味は大きい――坂本で頑張っている岐阜さまを力づけることはもちろんです が、六角の残党と一揆勢を破れば南近江が静まりましょうし、さらには木下殿や三河殿の勢をそ のまま京の守りに回すことができる。摂津や河内にまでは手が回りませんが、我らの今の窮状も、 ひとまず歯止めがかかるかもしれません。その先は、岐阜さま次第、ということになります か・・・・」 「信長さま次第――というのは?」 小一郎は問いを重ねた。 「浅井・朝倉、六角に三好、さらに本願寺と――これらすべてを一度に敵とすることは、どだい 無理なのです。岐阜さまも、そこのところはよくお解かりでしょう。ここは、なんとかして敵と 和を講じ、敵対する者たちを切り離し、1つ1つ片付けてゆくほかありません」 「しかし、和睦と言っても――」 浅井・朝倉、六角氏の残党、三好三人衆、本願寺と全国の一向門徒。これらはすべて信長とは 相容れない者たちである。信長が絶対の窮地にある今、彼らが和睦に応じようとは小一郎にはま ったく思われない。 小一郎はそう言ったが、半兵衛はそれには答えず、 「ところで小一郎殿、今年の雪はどうでしょう? 早いですか、遅いですか?」 まったく別の質問をした。 「雪ですか・・・・?」 小一郎は20歳過ぎまで大自然を相手に百姓をしていたということもあり、天候予測や気候予測が 得意で、これだけは半兵衛にも負けないと密かに自負していた。半兵衛は半兵衛で、小一郎のそう いう特技を知ると、合戦の前などは必ず翌日の天気を小一郎に占わせたりするようになっている。 「蜂の冬篭りの支度などを見てみぬことにはハキとしたことは解りませんが、今年は残暑 が厳しいですし、秋雨も少なくて、二度目の麦などもよく育ってるようですから、そう いうことから見ると雪は遅いように思います。去年の大雪のような――あんな風に降るこ とは、まずないと思いますが・・・・」 小一郎は首を捻った。 「それが何か?」 「いえ。大したことではないんですが――」 半兵衛は尖った顎のあたりを撫で、 「京に居た頃は冬の比叡おろしに泣かされましたが、あのように冷たい北風が吹いて来るとなれ ば、叡山の山上というのはことのほか寒いのだろうな、と――ふと、そんなことを思ったものですか ら・・・・」 曖昧に笑った。
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