歴史のかけら
48小一郎は、横山城の本丸御殿の2階の窓辺に立ち、北に広がる姉川河畔の田園地帯を眺めてい た。
見晴らしは、素晴らしい。 冬の冷気が混じり始めた風は爽やかで、柔らかい日差しが適度に肌を温め、思わず眠気を誘われ てしまうような心地よい昼下がりである。小一郎は見蕩れるようにしばし陶然と佇んでいたのだが、 背後の襖を開く音で我に返った。 「――こちらでしたか」 淡い水色の小袖を纏った半兵衛が、その細面の顔を覗かせた。 「あぁ、半兵衛殿・・・・」 半兵衛は小一郎の傍らまで来ると、北近江の風景に目を細めた。 「なんぞありましたか?」 半兵衛の横顔を見ながら小一郎が尋ねた。 「先ほど京の木下殿から早馬がありまして――良い報せと悪い報せとがあります」 「ほう」 「どちらからお耳に入れましょうか」 「悪い報せを先に――そういうことは先に片付けるに限ります」 「されば――」
半兵衛が語った「悪い報せ」は、容易ならざることだった。
まず、10月中旬に三好三人衆が山城(京都府南部)にまでついに侵入し、京の南郊の御牧
城(京都府久御山町)を攻め落とす、という事件があったらしい。
信長はさすがに事態を重く見、すぐさま藤吉朗を南方に派遣した。
さらに10月下旬には、比叡山に陣取った浅井・朝倉が、その軍勢の一部を割いて京の近辺に
出没させ、愛宕(おたぎ)の村々(京都市左京区)を焼き払う、という事件までが起こったと
いう。 信長にとれば、まさにジリ貧の時期であったろう。 ちなみに藤吉朗はそのまま京に居座り、再び京の守備をその役割として働くようになってい る。とはいえ、わずか2千ほどの兵を率いているに過ぎず、京付近に神出鬼没する浅井・朝倉勢を 討伐して回るほどの人数も機動力もないから、せいぜい京の治安維持と内裏と幕府御所の警備を するので手一杯であった。 「兄者は苦労しておりましょうな」 小一郎が言うと、 「えぇ・・・・しかし、岐阜さまとしてもそれ以上の兵は割けますまい」
実際、叡山に陣取った浅井・朝倉勢3万というのは脅威であった。 信長は、まさに志賀に釘付けにされていた。伊勢や摂河泉(大阪府)の戦場に援軍を送ることさ えできず、完全な手詰まり状態になっている。 「それで、吉報の方ですが――」 半兵衛は少しだけ声を和らげた。 「六角義賢(承禎)殿との間で、和議の話が出始めているそうです」 これには、小一郎は素直に驚いた。
六角氏の当主である六角義賢は、信長に南近江を奪われて以来、六角氏の残党を率いて南近江南
部の山岳地帯を根城にゲリラ的な抵抗を続けていた。これまで何度も兵を上げ、柴田勝家ら近江守
備軍と戦いを繰り返していたのだが、少数の織田守備軍が奮戦するために大軍を擁しながらも城を
攻めきれず、大した戦果を挙げることができないでいた。 「南近江が静まれば岐阜と京との行き来が安泰になり、兵糧・矢弾などの運搬も容易になりましょ う。浅井・朝倉とは根競べですから、この意味は大きいですよ」 「根競べ、ですか・・・・・」 「『時』は、我らの味方です。時が経てば経つほど、浅井・朝倉は叡山で頑張り続けることが苦しく なるはずですからね」
3万の人間というのは、1日につき3百俵以上の米を食う。当然ながら味噌、塩、副食、燃料な
ども必要になるから、これだけの大軍を維持しようと思えば食費だけでも莫大な戦費を負担するこ
とになる。兵農分離が進み、経済基盤も巨大な織田家であればそれも可能だが、軍兵の大半が百姓
である浅井・朝倉には苦しかろう。 「岐阜さまは、冬を待っておられるのでしょう。雪が降るようになれば、手詰まりになっている 戦局も、おそらく動く――」
北陸の冬は、畿内よりさらに早い。11月の初旬(新暦の12月初旬)には雪がちらつき始め、11月
下旬になると湖北の山間も雪に埋もれた。浅井・朝倉軍は退路を断たれた格好になり、同時に本国
からの物資の補給も困難になった。 とはいえ、より切羽詰っているのは、やはり信長であったろう。
この間、信長は、六角義賢との間に和睦を整え、さらに三好方の名将 篠原長房とも和を結び、
情勢を多少好転させてはいる。 (業腹だが、ここは一刻も早く和睦(あつかい)にするほかない・・・・)
信長は思ったであろう。
叡山が雪に埋もれるのを待って、信長は足利義昭を使い、浅井・朝倉に和睦を打診した。浅井・
朝倉がこれに応じないと見るや、今度は正親町天皇を担ぎ出し、勅命という形で和平を呼びかけ
た。
逆に言えば、信長がそれだけ窮地にあるわけで、それがよく解っている浅井長政は徹底抗戦を主
張したが、肝心の朝倉義景の方は、すでに戦意を失い始めていたらしい。雪によって退路と糧
道(補給線)を断たれ、これが不安であったし、何より寒さが身にこたえていたのである。 「畏れ多くも宸襟(天子の心)を騒がせ、忝(かたじけな)き勅諚に与(あずか)ったる上 は、家の面目もこれに過ぎたるはなし」
という理由をつけて、渋々という体(てい)でこの講和を受けた。 結果論から言えば、このときこそが、浅井・朝倉にとっての運命の岐路であったろう。
『信長公記』によると、浅井・朝倉と織田の間で正式な和平の調印が行われたのは、元亀元
年12月13日である。
織田と浅井・朝倉のこの和睦は、一般に「江濃越一和(こうじょうえついちわ)」と呼ばれて
いる。
信長は、軍勢を引き連れて12月17日に岐阜に戻った。 「北国街道と脇往還に関所を作るぞ。姉川の線で、人と荷の往来を止めるんじゃ。行商人はもちろん、 山伏、放下師(旅芸人)、神主や巫女の類に至るまで、北から上ってくる者、北へ下ってゆこうとす る者、これらをみな追い返し、何人(なんぴと)も通すな」 岐阜で行われた元旦の祝いから戻った藤吉朗は、すぐさま横山城の諸将にそのことを命じた。 「小六殿、朝妻や今浜あたりの『渡り衆』に話をつけてくだされ。琵琶湖においても南北の船の行 き来は一切許さぬというのが信長さまのご意向じゃ」 「いや、しかし、いかに信長さまのご命令とはいえ、『渡り衆』に船商いを止めよと言うのは死ねと 言うようなもんじゃ。おいそれと承知はせんぞ」 小六は渋い顔で反対したが、 「信長さまのご命令は絶対じゃ」 藤吉朗は断固として言った。 「何も船商いすべてがイカンと言うておるわけではない。南近江でいくら商売をしてくれてもそれ は構わん。ただ、南近江の湊(みなと)と北近江の湊の間では行き来は許さん。敦賀や小浜から来 る北陸の荷を畿内に入れてはならんし、畿内から北陸へゆく荷もすべて止める。人の行き来もも ちろんじゃ」 信長が下したこの「荷留め・人留め令」は、本願寺を中心とする畿内の敵対勢力と浅井・朝倉 との連絡を断つと同時に、浅井・朝倉に対する経済封鎖でもあった。ことに浅井は琵琶湖の水運 を利用して多大な運上金(関税収入)を得ていたから、湖上貿易の封鎖は経済的な大打撃になるで あろう。 「浅井・朝倉が滅ぶまでの辛抱じゃ。地の者にはなるだけ難儀を掛けとうはないが、この禁制を破 った者は、見つけ次第斬らねばならん。浅井・朝倉が滅んだ暁には、これまで以上に儲けさせてや るで、それまでは堪忍せよと言うてやってくだされ」 湖南の湊に多数の軍船を並べた織田家の経済封鎖は徹底された。琵琶湖の南北の往来が禁止され たことで、京への道が閉ざされた湖北の塩津、海津、今津などの湊は火が消えたようになった。 (それ見たことか・・・・) と、浅井長政は思ったに違いない。
京との商いの道が断たれたことによって、浅井・朝倉の力はさらに削がれるであろう。 (叡山で雌雄を決するべきであったのだ・・・・)
叡山に陣取ったあのときこそが信長を滅ぼす絶好のチャンスであり、多少無理をしてでも乾坤一
擲の勝負をすべき「機」であったと、長政は考えている。あのときならば勝算も十分にあったはず
だが、その「機」さえ掴めぬ朝倉義景という男の暗愚さに、長政は未来に対する暗い予感を抱かず
にはおれなかった。
ここ数ヶ月にわたる騒乱で、北近江にせよ越前にせよ、百姓たちはかなり疲弊している。これ
を無視して今後も無理に動員を重ね、戦をし続ければ、百姓たちは経済的に破綻するだろうし、そ
うなれば浅井も朝倉も足元から崩れることになる。いったん動員を解いた以上、少なくとも半
年――来年の田植えを終えるまでは領民を休ませねばならず、新たな軍事作戦を発動させること
も極めて難しくなるが、その半年を、あの信長が無為に過ごしてくれるはずがないではないか―― 長政は、自らが滅びの坂をゆっくりと転がり始めていることを自覚した。
しかし、ひとたび信長の信頼を裏切り、公然と敵対したからには、再び誼(よしみ)を結ぶこと
はできそうにない。あの詐略に満ちた義兄は決して自分を許さないであろうし、よしんばいったん
許されたとしても、後々までその時の恨みを忘れず、自分という存在が不要になった時点で過去を
蒸し返して滅ぼそうとするに違いない。信長とはその手の怖さを持った男なのである。 (親父殿が朝倉につきさえしなければ・・・・)
とは、長政は思わない。 (わしに運さえあれば、先々何とかなろう・・・・)
叡山での「機」は失したが、今後いかなる天の配剤で再び「機」が巡って来ぬとも限らない。朝
倉はどうやら頼りにならないが、本願寺という強大な同盟勢力がある以上、戦い方によっては浅井
が生き延びる道はあるだろうし、織田家を滅ぼすことだってできないとは言い切れない。
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