歴史のかけら


王佐の才

 竹中半兵衛が稲葉山城を斉藤竜興に返却し、姿を消してから、1年半の歳月が流れた。
 暦は、すでに永禄9年(1566)になっている。

 この間、小一郎の周辺には少なからぬ変化があった。
 それは、多くは小一郎の兄である藤吉朗が、出世街道を驀進し始めたことによる。

 あまり知られていないが、後の豊臣秀吉――木下藤吉朗の出世の足がかりというのは、尾張北東部の野武士の棟 梁であった蜂須賀小六を織田家に帰属させたことであった。

 蜂須賀小六――本名を蜂須賀 彦右衛門 正勝と言うのだが、小六の方が人口に膾炙されていて通りが良い。
 蜂須賀氏というのは、もともと尾張の清洲から数里ほど西の蜂須賀村(現 愛知県海部郡美和町)というところに 根を張る土豪で、信長の父 信秀の代には織田家に属していたらしい。が、どういう経緯かは解らないが信秀に攻め られて蜂須賀村を捨て、小六が6歳のときに母 安井氏の実家である宮後村(現 江南市宮後町)へと移り住んだ。
 宮後村に城を構えていた安井重継という男は、小六の母の兄――つまり小六の叔父にあたる人物で、木曽川流 域に広く勢力を持つ独立豪族であった。『武功夜話』によると、安井氏というのは甲斐源氏の流れの名家で、数 代前は美濃の守護である土岐氏の重臣であったらしい。
 小六は、この安井重継に育てられた。

 安井氏が、木曽川流域に広く勢力を持っていた、ということは触れた。

 この当時、川筋――とりわけ大河の流域というのは、特殊な人々が住んでいる。
 河原というのは一般に人が住む地域ではないのだが、河川の多くが国と国、領地と領地の境になるために、誰か らも支配されない緩衝地帯になることが多く、その結果として、逃散した農耕民や罪を得て国を逃れた者、諸国 を漂白する遊行民にとっては格好の住処となっていたのである。それらの人々は時代を経るにつれ、いわ ゆる「川の民」になっていった。
 「川の民」というのは、現代でいうところの水運業者と商人を兼ねたような人々である。当時は一般に「渡り 衆」と呼ばれ、たとえば琵琶湖のような湖や全国の巨大な河川の流域に住み着き、舟を使うことで川筋を道のよ うに自在に往来し、多少の武力をもって自衛しながら人や荷物を運ぶことで生業を立てていた。
 いわば、「川賊」とでも呼ぶべき川の地侍である。
 もちろん、日本を代表する大河である木曽川にもそういう「川の民」がいて、この当時、「川並衆」と呼ばれ ていた。安井氏は、この「川並衆」と深く繋がりを持ち、これを利用することによって木曽川流域の水運を牛耳 り、そこから莫大な利潤を得ていたらしい。小土豪に過ぎない安井氏が、それなりの影響力と富力とを持って独 立していられたのはこのためである。
 安井重継という男は、よほどの切れ者であったのだろう。

 安井重継が住んでいた宮後城は、地元の人々から「安井屋敷」と呼ばれていた。これが、いつの頃からか「蜂 須賀屋敷」と呼ばれるようになる。察するに、成長した小六の人間を見込んだ安井重継が、家督をこの甥に譲った ものらしい。
 小六は一種の「徳」のある男で、一度引き受けた約束は何があっても守るような律儀さと男気があり、優しさ と思いやりも持っている上、人使いが上手かったから、配下の者たちからも「川並衆」からも慕われた。小六の 人柄を見込んで、近隣の地侍やならず者らが懐いてき、やがて小六は数百人の人数を動かせるほどの大将にな っていた。平素は半士半農の生活をし、戦があればそれらの人数を率い、大名に雇われて戦場稼ぎをすることで 暮らしを立てていたわけである。

 藤吉朗は、織田家に仕える以前、諸国を放浪していた時期があり、小六ともその頃に知り合ったらしい。知り 合ったと言っても、実際は「蜂須賀屋敷」に居候をさせてもらい、小六の使い走りのようなことをして飯を食わせ てもらっていたようなのだが、藤吉朗はそのあたりの事情を口にすることはなかったから、小一郎も詳しくは知 らない。

 いずれにせよ、この小六を藤吉朗は口説き、織田家に取り込むことに成功した。

 小一郎は、藤吉朗が連れてきた小六と初めて引き合わされたとき、この胸板の厚い四十男の落ち着いた 物腰が意外であった。もみあげから顎にかけていかにも硬そうな大髭を蓄え、陽によく焼けた野性的な 面相をしている割りにはどことなく長者のような風韻があり、頼れる兄貴的な雰囲気を醸し出している。

「小六殿、我が弟の小一郎でござる」

 と、藤吉朗が小一郎を紹介すると、

「ほ。これが藤吉の舎弟殿かよ。少しも似ておらぬではないか」

 小六は親しみ深い笑顔を見せた。
 相手を野武士の棟梁だと聞いて、どんな粗暴な男を連れて来るのかと多少緊張していた小一郎は、 一時に気持ちが軽くなった。

「小一郎でござります。小六殿のご高名は、兄者からたんと聞かされておりました。どうか兄者の力になって やってくだされませ」

「米のこと、銭のこと、その他こまごまとしたことは、みな小一郎に任せておるで、小六殿も気安う付き合うて やってくだされ」

 藤吉朗が言うと、

「それならば、藤吉よりもこの小一郎殿の方が偉いということになるな。ぜひともご昵懇に願いたい」

 と言って小六は大真面目に頭を下げた。
 その姿が、なんとも言えぬ飄逸味があって、小一郎はいっぺんにこの男が好きになった。

「小六殿は、兄者の昔馴染みでありまするそうな」

 水を向けると、

「おうおう、もう10年も昔になるか。あの頃、藤吉はわしを『殿様』などと呼んでおったのよ」

 ぼりぼりと頭を掻く藤吉朗を横目に、小六は爽やかに笑った。
 今の小六は織田家に籍を置き、藤吉朗の寄騎(与力)という立場だから、現代で喩えるなら上司と部下という関係 になってしまっているのだが、そのことを何の拘りも持たずに笑えるあたりが、小六という人間の良さであるのだ ろう。


 蜂須賀小六と「川並衆」を取り込んだことは、織田家にとって非常なプラスであった。
 小六を大将とする数百人の傭兵を織田家の戦力に加えることができたということももちろんだが、「川並衆」を 傘下に収めることで織田家は木曽川の水運を一手に掌握することができ、さらに安井氏と繋がりが深い木曽川流域 の豪族や地侍を、小六が橋渡しになることで交渉のテーブルに着かせることができたのである。

 藤吉朗は、小六と共に東美濃の豪族たちを調略して回った。このとき、鵜沼城主 大沢基康という者に捕らえられ て人質になり、命を危うくしたことさえあったのだが、藤吉朗の粘り強く真摯な説得活動によって木曽川周辺の豪 族たちは次第に心を開き、ついには根こそぎ織田家に帰属することになった。
 藤吉朗はこの功によって一躍300貫(約1500石)に加増され、伊木城(現 岐阜県各務原市鵜沼字伊木山)の城代と いう地位と、調略した東美濃の豪族たちをまとめる前線司令官のような役割を得た。300貫の禄取りと言えば貧弱 ながらも物頭(武将)であり、しかも城を預かるほどの立場になったというわけである。

 これに伴って、小一郎の仕事は一気に増えた。

 もともと藤吉朗は足軽組頭であったが、組下の足軽たちの世話などはめったに焼いたことがない。というのも、 藤吉朗は呼ばれもせぬのに常に城に登って信長の周りに詰め、功名手柄の種が落ちていないかと犬のように嗅ぎま わっており、たまの非番となればプイとどこぞに出かけてしまうから、木下組の足軽たちの面倒は小一郎に任せ っきりになっていたのである。
 足軽という連中は、「木下家の家来」ではない。織田家に足軽奉公に来た無頼漢たちを組頭という資格で藤吉 朗が預かっているだけだから、この連中には遠慮もなければ会釈もない。まして小一郎は「組頭の弟」に過ぎ ないわけで、彼らに命令をする資格さえあやふやなのである。さらに言えば、小一郎は数年前までは田を這い回 る百姓であり、ろくに喧嘩もしたことがないという温厚な性格だから暴力に訴えることもできない。血 の気の多い乱世の足軽どもが素直に信服するわけもないのである。

 それでも小一郎は、「組頭の代理」という役をこれまで過不足なく十分にこなしてきた。
 小一郎という男は、どうやら天性の調整家であったらしい。足軽たちと同じ長屋に入って生活を共にし、相談事 は親身になって聞いてやり、困っている者には銭を貸し、病気をした者があれば見舞ってやり、日々小まめに、実 直に律儀に足軽たちの面倒を見てやっているうちに、次第に彼らも小一郎に懐くようになっていったのである。
 なかでも小一郎は喧嘩や揉め事の仲裁が上手く、双方の言い分をよく聞き、悪い者がある場合には厳しく罰を 与え、一方の顔を立てねばならないときは他方に銭や酒を与えるなどして物心両面から足軽たちを慰撫したから、 小一郎の評判はすこぶる良かった。

 そんなこんなで今まではなんとかやってきたのだが、ここで降って湧いたような「城代への昇進」である。
 藤吉朗が足軽大将格になり、木下組の足軽が数倍になったところに、小六率いる「川並衆」までもが藤吉 朗付きとなったため、小一郎が世話をして回らねばならない人間が、一気に6百人近くにまで増えてしまった。 古くから木下組にいる者と新参者との間には当然のようにいざこざが起こるから、これら雑多な人間の調和を保 つだけでも並みの仕事ではない。
 しかも「城代」である藤吉朗は彼らを食わせていかなければならないから、そのための兵站事務が必要になって くる。信長から銭を預かり、その銭で近隣の農村や町から必要な糧食や資材、武器や矢弾まで買い揃えるわけだ が、こういう仕事は小一郎は初めてであり、勝手がまるで解らない。
 さらに加えれば、小一郎らがいるのは東美濃の最前線である。いつ何時、斉藤家の軍勢が攻め寄せて来ぬとも限ら ない上、新参の「川並衆」――川筋の地侍たちには、当然だが斉藤家から寝返り工作が入る。諜者や間者の類も入 り込んで来るわけだが、軍紀を締め付けすぎると、

「成り上がり者が、何様のつもりじゃ!」

 と、配下の人々から不平や不満が噴出するし、かといって緩めすぎると、

「木下というヤツは大した頭ではないわ」

 と舐められる。
 このバランスを保ちつつ揮下の人間たちを統制してゆくのは、なんとも厄介な仕事なのである。

(信長さまは、なんで兄者なんぞにこんな大役を・・・)

 と、つい愚痴りたくもなってしまう。

 もともと成り上がりの藤吉朗には家来らしい家来が小一郎しかいない。300貫に加増された以上、新規に10人以 上の士分の家来を抱え、その家来の小者や馬の口取りなども揃え、さらに木下家としての雑兵も集めねばならな いのだが、縁故も地縁もない藤吉朗は身元がしっかりした人間を召抱えるのが難しく、成り上がりの藤吉朗風情の 家来に進んでなってやろうという奇特な人間もそうはいないから、ろくな人材を集めることができないでいた。
 やむを得ず藤吉朗は、妻 寧々の実家の係累に頼み込んだり、百姓をしている姉や妹の夫を無 理やり連れてきて侍に仕立てたりして頭数だけはなんとか揃えたのだが、藤吉朗を縁の下で支え る小一郎を補佐することができるほどの有為の人材は当然集まらない。結局ほとんどの雑用を一 人でこなさねばならず、その負担が小一郎に重くのしかかっていた。

 しかし、小一郎のそんな苦労を知ってか知らずか、藤吉朗は陽気なものである。

「小一郎よ、織田家に仕えて良かったじゃろ! 能さえありゃぁ、わしらのような者でも城が持てるわ!」

 新たに得たこの境遇と仕事とを、心から喜んで楽しんでいるらしい。

(兄者のこの陽気さが、わしらの救いじゃな)

 藤吉朗にせよ小一郎にせよ、これまでとは比べ物にならないほどの忙しさなのだが、周りが不思議と殺伐とし た雰囲気にならないのは、ひとえに藤吉朗という人間が持つ陽気な個性と、人あしらいの上手さの賜物であ るらしい。


 それまで伊勢を攻めていた信長は、藤吉朗の伊木城の態勢が整うと、それを後方基地にして、今度は東美濃の 諸城を攻め始めた。
 藤吉朗が命じられた仕事は、織田の遠征軍を後方で支える兵站事務が主なものとなった。
 兵站輜重役というのは、軍勢を支える根本であってもっとも重要な仕事ではあるのだが、哀しいばかりに地味 で目立たない。当然だが、戦場で華々しい功名手柄を樹てたいと念願している藤吉朗の落胆は甚だしかった。こ の頃の藤吉朗というのは戦場で武功を樹てたことが一度もなかったから、まだ信長も戦場の指揮官としての才を 認めてはいなかったのである。

 大軍を率いた信長は、多治見 修理が篭る猿啄城、岸 勘解由が守る堂洞城を猛攻の末に落とし、東美濃の南部を 完全に掌握することに成功した。

 ちなみにこの時、信長はかなり油断をしていたらしい。軍団の体制を解き、この遠征から帰る途中、斉藤竜興 自らが率いる軍勢と不覚にも遭遇し、攻撃を受けてしまったのである。信長は自分を守る8百の旗本衆しか率き 連れていなかったから、多勢に無勢でどうしようもない。多数の死傷者を出して惨敗し、命からがら尾張へ逃 げ帰っている。
 斉藤竜興は辛うじて信長に一矢報いたわけだが、美濃に対する織田家の影響力の増大というのはいかんともし 難く、斉藤家の衰亡の速度はますます勢いを増してゆくことになる。

 そしてこの頃、小一郎は再び竹中半兵衛という男の噂を耳にした。




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