歴史のかけら
37勝ち戦のお陰で士気こそ下がってないが、誰もがすでに20時間以上も不眠で動き続けているわけ で、この後、敵の攻撃を受けつつ京まで逃げねばならぬと思えば、暗澹とした気分にもなるだろ う。 小一郎は、この兵たちの士気と疲労のことが気になっていた。気組みが萎えてしまっては退却戦 などできたものではないし、それは生存の可能性の激減に直結する。 (何ぞわしにできることはないもんか・・・) 思いはするが、小一郎にはあの兄のような強烈な求心力もなければ人々の気持ちを煽り立て 浮き上がらせるような特技もない。小一郎にできることと言えば、せいぜい兵糧の計算をすること とそれを配ることくらいのものなのだ。 「半兵衛殿・・・」 いたたまれず、傍らの半兵衛に声をかけてしまった。 「・・・はい?」 半兵衛は、床机に腰を据え、顎をわずかに上げて夜空を睨みながら何事か考えている様子だったが、 小一郎の声で我に返ったのか、居住まいを正してこちらに向き直った。 「その・・・何かわしにできることはないもんでしょうか? こうしてただ朝を待っておるちゅう のは、どうにも不安でして・・・」 「良いお心がけです。私も同じことを考えておりました」 半兵衛は微笑した。 「それでは、小一郎殿には大将の演技(ふり)をしていただきましょうか。これは、小一郎殿にし かできぬことですしね」 「大将の振り・・・ですか・・・?」 そう言われても、小一郎は何をすれば良いのかが解らない。 「軍兵たちを、勇気付けてやることです」 半兵衛は言った。 「木下家の方々には、この春に新規に召抱えられ、此度の越前討ち入りが初陣という者も少なくな いはず――当然、死処を知らず、戦にも不慣れ。初陣がこのような危難では、今頃は不安のどん底 でしょう。そのような状態では、常の力を出すことさえできぬものです」 実際、金ヶ崎に残っている兵の4割近くがこの春に小一郎自身が募兵した新兵たちだった。彼ら にしてみれば、仕官して1ヶ月もせぬうちにこのような絶体絶命の危地に放り込まれるとは想像も していなかったに違いない。 「確かに今は、十の力を、二十にも三十にもせねばならぬときですな。皆には、なんとか決死 の覚悟を持ってもらわねば・・・」
小一郎はそう受けた。 そのように言うと、 「確かにそういうことはあるかもしれません。しかし今は、そのような考え方はするべきではない と私は思います」 と半兵衛は目を伏せ、別のことを言った。 「岐阜さまは、今頃は若狭の熊川宿あたりまで足を伸ばされておるか――あるいはもっと先にまで 進んでおられるか――いずれにせよ、我らの金ヶ崎での殿(しんがり)の役目は、すでに成功してい ます。我らが死なねば岐阜さまが生き延びられないというなら死に甲斐もありますが、今さら我ら がここで死ぬのは何としても無意味――つまり、木下勢の役目は死ぬことではなく、今は生きて帰 ること。そして我らの役目は、1人でも多くの者を生きて京まで帰らせること、ということにな る」 「はい・・・」
それは、その通りだろう。 「死を決した者というのは、たとえ一縷の生きる望みが残っていようとも、自らの満足のために 死を選ぶということがある。主のため、武名のため、意地のため、あるいは恥をかかぬため――理 由はいろいろとあるでしょうが、最後の最後の土壇場で簡単に死の方を選ぶ。それを生き死にの潔 さというなら確かにそうですが、私はどうも、それが今、この場で正しいこととも思えないので す」
半兵衛は眉根を寄せた。 「たとえば――死を決した者と、そうでない者とが戦うというのなら、確かに死を決した者が勝つ こともあるでしょう。『死に華を咲かす』ということもある。武士には死なねばならぬ場所がある というのも事実です。しかし、死を決した者と絶対に死にたくないと思っている者とが共に逃げる とき、どちらがより生き残れるか――今は、それこそが問題であると思うのですよ。死ぬが当然と 思っている者が、果たして最後の最後まで生き延びようと懸命になれるでしょうか?」 「・・・・・・・・・」 「死を決した者が強いのは、ひとえに死に対する怖れを持たぬからです。臆した者から死んでゆく のは戦場の常。確かに決死の者は強い。しかしながら、生きるために懸命になり、遮二無二働いて 怖れを忘れた者というのも同様に強い――それは、決して死兵に劣るものではないと思います」
小一郎は半兵衛の言葉を咀嚼し、懸命に考えている。 「人が生きようとする想いは、ことのほか強いものです。今はそこにこそ、望みを賭けてみたいと いうのが私の本音です。今ここで千にも満たぬ我らが全員死兵になったところで、敵の大軍をどう こうできるものではありません。それこそ全員死んで、それで終わりですよ。私はそれよりも、少 しでも生き延びられる可能性が高まる策をひとつでも多く積み重ね、皆みなが絶望することな く、生き延びようと懸命になれるような道をつけ、それを手繰れるようにしたいと――そんなこと を考えていました。無駄な足掻きに終わるかもしれませんが、生あるうちは、足掻けるだけ足掻い てみるのも、武士らしいのではないかと思うのです」
小一郎は、頭を殴られたような衝撃を受けていた。 「・・・それでは、わしは――」 「小一郎殿には、大将として、皆に死ぬなと訓戒して頂きたいのですよ。京に戻ったら美味い酒を 飲ませてやるとか、女を抱かせてやるとか――方々が喜ぶ、気が浮かぶようなことなら何でも良 い。景気の良い言葉で、木下殿がするように兵たちを笑わせてやってくだされ」 半兵衛は、城に施すいくつかの「小細工」を小一郎に献策し、まずその準備をさせ、さらにすべて の将兵を大手門前に集めるよう依頼した。集まった兵たちを前に、精神論などにはまったく触れず、 ただ黙々と退却戦時の陣立てや戦術、戦闘時における心得やコツ、果ては本隊からはぐれてしまっ たとき何処を目指して落ちて行けば良いか、何に気をつけて逃げれば良いかというようなことまで を、いちいち具体的に、かつ噛み砕くようにして諭して聞かせた。 「この場に半兵衛殿がおられる以上、何も心配することはないぞ!」 小一郎は皆を前に、腹の底からの大声でそれを言った。 「大船に乗った気で、半兵衛殿の軍配に従っておればええんじゃ! 敵の首なぞは1つも拾わずと も、我らは生きて京に帰るだけで大手柄じゃで、ここで死んでは阿呆らしゅうて死んでも死に切れ んぞ! 皆、たとえ散り散りになり、はぐれることがあっても、這ってでも京まで辿り着いてく れ!」 その後、その場で全員に腹ごしらえをさせ、酒を振舞った。 夜明けは、もうすぐそこまで迫っている。 小一郎は2日分の腰兵糧だけを皆に持たせると、全軍を率い、夜陰に紛れて城を出た。
空が白み始める直前に城を出た小一郎たちは、先頭の1人のみに松明を持たせ、あとの者は無灯火 という隠密行動をしつつ、若狭を指して駆けに駆けた。敵が追いすがって来る前に、できる限りの 距離を稼がねばならない。まさに命からがら、息の続く限りひたすら走った。
朝倉勢は――やはり戦場諜報には不熱心だったようで――木下勢の逃亡にさえ気付かず、夜が明
けるのを待って金ヶ崎城へ攻撃を仕掛けた。
とはいえ、こんなものはほんの小手先仕事に過ぎない。
木下勢は、そのほとんどが徒歩(かち)である。 「この場は私が。小一郎殿は、前軍を連れてそのまま走ってください!」 半兵衛は街道の坂を登りきったあたりで叫んだ。2百の鉄砲隊と2百の弓隊を率いてそこに 踏みとどまり、敵を迎え撃とうというのだ。
この退却戦で小一郎の命を救ったのは、ひとつにはこの鉄砲であったろう。 「鉄砲というのは、人の技や力で差がでにくい道具です。立て続けにご加増を受け、 次々と増えておる木下勢の雑兵たちというのはなかなか錬兵も行き届かず、槍や弓の上手を作ると いうのも難しいでしょうから、余裕があれば、少しでも多くこの鉄砲を増やしておかれるが良いと 思います」
という半兵衛の勧めもあって小一郎はこれを以前から熱心に買い集めていて、今や木下勢の鉄砲
の装備率は織田家の中でも群を抜いて高い水準にある。京の守備のために信長から貸し与えられた
2百の鉄砲足軽の他に、木下家としての鉄砲も2百ほどは揃えてあり、つまり3千の木下勢だけで
4百挺もの鉄砲を持っているのである。織田全軍の鉄砲の数がまだ2千挺ほど――これは他の諸侯か
ら見ればあり得ないほどの大量の保有数である――だから、実に織田家の2割の鉄砲が木下
勢に集中していることになる。 半兵衛は、街道を追いすがって来る騎馬武者たちを十分引き付け、一斉射撃でその先頭を打ち砕 いた。 「敵の馬を狙え! 一発で討って取れ!」 半兵衛はこのことを、あらかじめ鉄砲足軽たちに徹底していた。
騎馬武者というのは、鉄砲の攻撃とは相性が悪い。 「弓勢!」
繰り代わって前に出た弓隊に矢を矢継ぎ早に射掛けさせ、鉄砲の装填時間を稼ぐと、さらに隊列
を入れ替えて銃隊で射撃し、それを2度まで繰り返し、敵を滅多打ちにした。 さしもの半兵衛も、この期に及んでできることと言えば、この遅滞戦術を粘り強く繰り返すこと しかなかった。
が、木下勢が組織立った抵抗を示せたのは、このあたりまでだった。
木下勢はすでに35時間以上を不眠で働き続け、しかもここ15時間はほとんど休みなく合戦と全力
疾走を繰り返している。いかに戦国に生きた人々が現代人と比べて頑健であるにしても、人の体力
にはおのずと限界があるだろう。 元亀元年(1570)4月28日――
小一郎にとって、この日は生涯忘れ難い一日になった。
その地獄の中で、小一郎は半兵衛の姿にどれほど救われる想いをしたか解らない。 「やがて前をゆく木下殿の軍に追いつけます。それまでの辛抱です」 絶望しがちになる兵たちに馬上から常に声を掛け、希望を与え続けてくれた。このとき半兵衛が 居てくれなかったなら、小一郎などはとうに絶望し、生きることを諦めていただろうし、小一郎の 部隊は間違いなく全滅していたに違いなかった。 (死ぬの生きるのと愚痴愚痴言っておった自分が恥ずかしい――!)
最後の最後まで物事を投げず、希望を捨てず、節を曲げない精神力。
休ませることも水を飼わせることもできない小一郎たちの馬は、当然だが次々と潰れていった。 半兵衛はたびたび踏みとどまって鉄砲隊で敵を銃撃し、敵の追撃の足を止めさせ、そのたびに敵 の猛烈な矢弾を浴びつつ退却を続けた。その鎧の袖には何本もの折れ矢が突き立ち、ゆったりと長い 浅葱色の胴服はドロと埃に塗れ、弾痕さえいくつか見える。幸い大きな手傷こそないようだが、疲 労の色はさすがに濃い。 それでも半兵衛は、変わらぬ口調で言うのである。 「あともう少しの辛抱ですよ」
その声を聞くだけで、勇気付けられる。
追撃を掻い潜りながら海に沿った丹後街道をさらに10km以上駆け、三方湖南方の田園あたりまで
来たとき、小一郎たちは先行していた藤吉朗の部隊についに追いついた。 「おぉ! 小一郎! 半兵衛殿も! 無事じゃったか!」 藤吉朗は顔をくしゃくしゃにして喜んだ。
が、それでも惨憺たる退却戦の状況はさほどに変わることはない。
小一郎らにとっての僥倖は、さらに先に退却していた徳川家康の部隊に追いつけたことであった
ろう。
それでも、朝倉方の追撃は執拗を極めた。
陽が没してからは、夜陰に紛れ、そのまま不眠不休で走った。視界が利かなくなることで、敵の矢
弾の命中精度がぐんと下がってくれたから、これにはよほど救われた。 小一郎らがようやく足を止め、蘇生するような思いを味わったのは、山深い朽木谷付近まで辿り ついた頃だったろう。さらに南下し、蓬莱山の尾根から陽光に輝く琵琶湖を眺めたときは、帰り着 いたという実感で涙があふれそうになった。 5月1日の夜、ついに小一郎は、藤吉朗、半兵衛らと共に、散り散りになった敗残兵をできる限 り収容しつつ、叡山の脇を通って京へと帰還を果たしたのだった。
結局、木下勢に属した者で京まで生きて辿りつけたのは、2千人を割り込んでいた。もちろん、
大半の者が傷を負い、まともに歩くことができないような者も多く、五体無傷の者となるとさら
にその半数以下という惨状だった。 しかし、それでもよく残ったと言うべきであったろう。 もし半兵衛があの場に居てくれなければ、この4百がゼロになっていたであろうことを、小一 郎は誰よりもよく知っていたのである。
「もし三河殿(家康)がおらねば、この猿は生きて帰れなんだであろう」 信長はまず慇懃に家康の労に謝し、当座の褒美として黄金30枚をすぐさま与えた。 「猿、此度の働き健気であった。汝(われ)がおらねば、我らが勢は、若狭、近江の山野に累々と 屍を晒すところであったわ」 と、藤吉朗には珍しく長い言葉を掛け、やはり黄金30枚を褒美として下賜した。
余談だが、この「黄金」というのは当時においては大変に珍しいもので、後世のように通貨とし
てはまだ機能も流通もしておらず、非常なまでに価値が高かった。 「もったいないお言葉、有難き幸せにござりまする!」 藤吉朗は死ぬほど疲労していたが、それを顔には出さず、満面の笑みを浮かべて深々と拝礼し、 黄金の乗った三方を高々と頭上にいただいたのだった。 (この猿は、ただの口巧者のお調子者ではない。身を捨てても織田家のために――わしのために尽 くすことができる男じゃ) 平蜘蛛のように下座で這い蹲る藤吉朗を眺め、信長は思った。
そうであろう。 金ヶ崎での殿(しんがり)は、誇張でなく九死に一生という役割であった。半兵衛の戦術レベ ルの武略と徳川家康率いる三河勢の奮闘とによって辛うじて過半数の者が生き残ることができたと はいえ、少しでも風向きが違っていれば、木下勢は全滅の憂き目に会っていたとしてもおかしくは なかったし、むしろその公算の方が大きかった。もし藤吉朗が己の功名出世のみを求める奸臣・佞 臣の類であったなら、あそこで自ら死に役を買って出るなどということはしなかったに違いない。
藤吉朗は、文字通り身を捨て、自分にその命をくれた。 織田家中でのそれまでの評判を一変させたという意味でも、信長から絶対の信頼を勝ち得たとい う点においても、今回の金ヶ崎での働きは、その後の藤吉朗にとって、巨大な財産になったと 言っていい。
木下 藤吉朗 秀吉のこの活躍は、「金ヶ崎の退き口」という名で、同時代はもちろん後世にま
で有名になる。
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