歴史のかけら
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たとえば正親町天皇は、信長が京を出陣していった五日後、御所の内侍所で信長のために「千
度祓」を行った。
畿内に住む人々というのは、現代に生きる我々が想像する以上に耳が早い。
信長が京に帰還したのは――小一郎らの帰京より丸一日早い――四月三十日であった。 翌五月一日になって信長は、幕府御所に入り、将軍 義昭や公家衆などに対面し、浅井長政が敵に 寝返ったこと、織田勢がほとんど無傷で帰京したこと、敦賀を捨てて帰ったことなどを報告したが、 その姿は常のごとくに英気に溢れ、憔悴したり萎れたりした様子は微塵もなかった。
信長が自身の健在ぶりを示すことで京の諸人は大いに安堵したであろうが、それにしても今度の
越前征伐の大失敗は大きな痛手であったことに違いはない。
浅井長政の離反というのは、織田家の置かれた状況を劇的に変化させた。
まず、何より浅井氏の盤踞する北近江という地域が重要であった。
信長のこの懸念は、早くも実現する。
その後、浅井・朝倉軍は、伊吹山の南方の山腹にある刈安尾城とそのさらに南西の長久寺にある
長比(たけくらべ)城を大改修し、ここに朝倉勢二万がそのまま腰を据えた。美濃と近江の国境線
には数珠球のように城や砦が築かれているのだが、これらの防御拠点にもそれぞれ兵員を増強し、
蟻一匹通さない厳重な封鎖態勢を敷いたのである。
また、浅井氏の造反に力を得たのが、南近江の六角氏の残党どもだった。 (ともかくも、いったん岐阜に戻らねばどうにもならん)
と、信長は思った。 しかし、このような混乱の最中で織田の大軍が畿内から消えれば、織田家の影響力が極端に低下 し、日和見している諸大名が雪崩を打つようにして織田から離れていかぬとも限らず、どのような 政変が起こるか知れたものではない。何よりの急務はまず畿内の混乱を沈静化させることであり、 これ以上の醜態をさらさぬことだった。 信長は、実に素早く手を打った。
信長は、まず若狭で再び敵対した武藤友益に対し、丹羽長秀を主将とする征伐軍をすぐさま派遣
した。丹羽長秀は、京から休む間もなく再び若狭に赴き、五月六日、石山城を落として武藤氏を滅
ぼした。
さらに、急を要するのが南近江であった。伊賀に近い南部山岳地帯までは手が回らぬものの、琵
琶湖南岸から東岸の地域だけは断固として維持せねばならない。
そのまま北へ向かえば、浅井・朝倉の連合軍が道を塞いで待ち構えている。
信長は伊勢の桑名から船を使って尾張に渡り、五月二十一日、ようやく岐阜へと帰還すること
ができた。もしあらかじめ伊勢を押さえてなかったならば、浅井の離反一発で、信長は進退に窮
し、織田家はあるいは滅びていたかもしれない。 ついでながらこの岐阜への帰路――千種越えをとって鈴鹿の山を抜けているとき、信長は六角氏 の残党が雇った杉谷善住房という名の鉄砲名人によって二ツ弾で狙撃されるというオマケまでつい た。幸い弾丸は袖をかすった程度で信長に怪我はなかったが、一時は一気に天下を掴み取るかと見 えるほどだったこの男が、それだけ危機的な状況に陥っているということを端的に表しているよう にも思う。 ちなみに小一郎は、藤吉朗らと共にこの信長の軍勢の中に居た。織田勢の中でも木下勢の疲弊と 損耗はもっとも酷かったから、京の守備の任は丹羽長秀、明智光秀らに変更になり、岐阜に帰還す ることになったのである。
小一郎が「信長狙撃」の事実を知ったのは、すでに伊勢に入って桑名城の付近で宿営していると
きだった。 「信長さまは、自らの身体に弾がかすっても少しも騒がず、『捨て置け。急ぐ』とだけ言って周囲 の者たちを静まらせ、行軍を続けさせたんじゃそうじゃ」 話を聞き込んできた藤吉朗は、なぜか我がことのようにそれを自慢した。
木下勢は、桑名郊外の荒れ寺に一夜の本陣を据えていた。 「鉄砲声などしたかのぉ? 気付いたか?」 蜂須賀小六が傍らの前野将右衛門に顎を向けた。 「いや、まったく気付かなんだな」 「わしらはだいぶ後ろを歩いとったからのぉ」 藤吉朗が声を挟んだ。 「しっかし、さすがに信長さまは、肝が据わっておらっしゃるではないか。天下の大将軍に、当た る弾があろうはずもないっちゅうこっちゃな。弾の方が信長さまの威を畏れて道を避けるわ」
藤吉朗はゲラゲラと笑ったが、小一郎は笑う気になれなかった。 (織田家は大丈夫なんじゃろうか・・・) 決して口には出さないが、そんな心配が多くの兵の心にも同様に芽生え始めているに違いな かった。 「半兵衛殿は、信長さまはこれからどうなさるとお考えですかいな?」
ネギと大根の味噌汁を啜りながら小六が尋ねた。 「浅井殿の離反は、岐阜さまにとってはまさに痛恨事――」 汁をかけた飯を品良く食べていた半兵衛は、箸を止め、椀を膝元に置いて応えた。 「京を押さえ畿内を支配する岐阜さまにとって、北近江の通行は絶対条件です。岐阜に戻れば、 真っ先に関ヶ原から醒ヶ井に抜ける東山道を突き通そうとなさるでしょう。しかし、逆に言えば、 敵もここを厳重に固め、美濃からの侵入を何としても拒もうとするでしょうね」 「岐阜に戻れば、またすぐにも戦になるっちゅうことか。ろくに骨を休める間もないのぉ」 小六が渋い顔で愚痴ると、 「それこそ望むところじゃ。殿戦(しんがりいくさ)も悪しゅうはないが、戦はやはり攻めねば面 白うない」
将右衛門が太い眉をひらいて嬉しそうに言った。 「美濃と近江の境と言えば、あの辺りは――昔、半兵衛殿が世を隠れて暮らしておられた・・・」 藤吉朗が小首を傾げた。 「はい。木下殿もおいでになられましたな。まさにあの辺りですよ」 半兵衛は頷いた。 「あの近江の庵(いお)は、松尾山とかいう山の麓でありましたな。山のすぐ上辺りに、浅井方の 砦があった・・・あれは確か――」 「長亭軒という名の砦です。ご存知のように美濃と近江の境には数珠球のように浅井方の砦が築か れておりましてな。須川山の城、大峰の砦などと同じように、松尾山に置かれているのが長亭軒の 砦です。守将は――代わってなければ、ですが――樋口 三郎左衛門 直房殿と申す五十年配の男で、 私が斉藤家を退転し、近江に隠棲しておりました折、ずいぶんと世話にもなり、友誼を暖めも しました」 それを聞いた途端、藤吉朗の表情が微妙に変わった。 「して、その樋口殿と申すご仁は、どのような?」 話の続きを促す。 「三郎左衛門殿は、性は快活にして豪胆。度量広くして聡明。忠節を重んじ、戦にも明るい老巧の 物師(戦場巧者)です。また、下の者を労わる心強く、軍兵からも領民からも慕われている。私の知 る限り、北近江ではまず第一等の人物ですね」 「ふむ・・・・」 「樋口氏というのは、近江の鎌刃城に居を構え坂田郡を代々領している堀氏の重臣なのですが、堀 家の当主である次郎 秀村殿がまだ幼少であるため、三郎左衛門殿が主君に代わって家中を束ね、執 権のようになって家を取り仕切っておられます。家中の人望厚く、主君からの信任も厚い」 「なるほど・・・。半兵衛殿と入魂とは、こりゃ好都合じゃな。半兵衛殿、その樋口三郎左衛 門――調略で味方に引き込めませぬかな?」 浅井方の最前線基地の司令官を味方に引き抜こうというのだから、相変わらず大胆な発想であ る。 「その樋口殿が転べば、鎌刃城の幼君も一緒に転ぶということになる。一挙両得じゃ」
鎌刃城(米原市番場)というのは浅井の本拠である小谷城にも優るとも劣らない湖北では最大級
の規模を持つ雄大な山城で、この時代、すでに立派な石垣をもっていたということでも有名な堅城
であった。城に石垣を用いるのは後年でこそ当然になるが、信長が安土城を築く以前の時代におい
て石垣が多用された城というのは極めて珍しく、近江ではこの鎌刃城と、六角氏の本拠であっ
た観音寺城があったのみであろう。
小一郎は、半兵衛を見た。 「聡明にして硬骨の忠臣――となると、なかなか難しいでしょうかな?」 藤吉朗が言ったので、小一郎はそれに乗った。 「のこのこ逢いに行けば、その場で斬られちまうかもしれんで。そんな危ない橋を渡らずと も・・・」 「しかし、樋口殿にとっての主家は、堀家であって浅井ではあるまい。まして堀家にとっての主家 とは先の北近江の守護であった京極家であって、浅井に仕えておるっちゅうてもそれはここ最近の 話。浅井が累代の主家というわけでもないはずじゃ」
わずか四十年ほど前に北近江を奪って独立した浅井家の泣き所は、譜代の家来が少ないという
ことであった。 「おっしゃる通りです。その線で口説けば、三郎左衛門殿を寝返らせること、不可能ではないかも しれません」
目を伏せた半兵衛は、少しばかり哀しげであった。 「岐阜に帰ったら、さっそくわしが逢いに行ってみるとしよう。戦をせず、無駄な血も流さずに 済めば、それが何よりじゃからの」 「いえ――」 しかし、半兵衛はそれを否定した。 「木下殿はすでに、押しも押されぬ織田家の重臣。織田家が旭日の勢いのときならともかく、いま 自らが出向かれるのは、かえって不心得を起こす者が出ぬとも言い切れません」 織田と浅井が手切れになった直後という時期でもあり、信長の寵が厚い藤吉朗がのこのこ浅井の 武将の元に出かけて行けば、これ幸いとその首を刎ね、軍神の血祭りにあげようと思うような、血 の気の多い者がいないとも限らない、ということだろう。 「三郎左衛門殿は昔馴染みでもありますし、ここは私が参らねばなりますまい。木下殿の名代の方 を、誰か一人付けてください」 「よろしいのですかな?」 藤吉朗が気遣わしげに聞いた。 「はい」 半兵衛は、何かを振り切るように、きっぱりと言った。
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