歴史のかけら
33その言葉の意味が、京に戻ってようやく小一郎にも解った。 元亀元年春――
信長が、大軍を率いて北方征伐に出陣したのである。
「天下静謐のために上洛し、幕府と朝廷に礼参せよ」 といった内容で、ようするに信長は、将軍の命に従って上洛するかどうかを見ることで、自分にとっ て誰が味方で誰が敵かを判断しようとしたらしい。 信長は村井貞勝らに命じ、昨年新築した将軍御所とは別に京の六条に義昭の邸宅を作ってやっていた のだが、この別邸が春に完成する。その落成祝いの宴席を設けるから、諸大名はそれに参賀せよ、とい う名目で、近畿、東海、北陸などの諸大名に上洛を促した。
この平和行事に参加するために、元亀元年の春、織田家の同盟大名たちは続々と京に集まった。
信長は集結したこれらの大名の軍勢の大半をそのまま引き連れ、4月20日、電撃的に京を出陣し
た。
そもそも朝倉氏というのは室町管領だった斯波氏の越前守護代で、尾張の守護代であった織田氏とは、 その成り立ちからしてライバル的な存在と言っていい。織田氏の分家である信長の織田家が尾張で戦国 大名化したように、朝倉氏は越前において下克上によって守護の座を奪い、戦国大名に成り上がったわ けである。5代・90年にわたって80万石近い勢力を蓄えた朝倉氏の力というのは侮りがたく、この当時、 若狭の武田氏、北近江の浅井氏などを従属させるほどに強勢を誇っていた。
朝倉氏の本拠である一乗谷は、“北陸の小京都”と呼ばれている。 その一乗谷には、流浪時代の足利義昭も一時滞在している。 この物語の現在――元亀元年(1570)――から数えてほんの5年前、第13代将軍 足利義輝が松永久秀 らによって殺されたとき、僧だった義昭は還俗して諸国を放浪し、近江の六角氏、若狭の武田氏を頼り、 次いで越前の朝倉氏の元に身を寄せた、ということは先にも触れた。
朝倉義景は、若狭に亡命していた足利義昭を越前に迎え、一乗谷に仮御所を築いてこれを住まわせ、
義昭の元服式のときにはその加冠親役を務めてやっている。足利将軍家と朝倉家の繋がりは以前から
強かったのだが、足利義昭と朝倉義景の間にはそのような直接的な情誼までがあって、幕臣たちも朝
倉氏には強い好意を抱いていた。 義景のような思考が固陋で果断さのない性格の男には、足利将軍の利用価値も解らなければそれを 押し立てた上洛などは現実問題として考えられなかっただろうが、実際に信長によって呆気ないほど の容易さでそれが実現されてみると、千載の好機を逸してしまったという後悔が潮のように彼を満たし ていたであろうことは想像に難くない。 (わしがあの時腰を上げておれば、今の信長の位置に自分が座っておったはずなのに・・・!) という慙愧の想いが義景にはあったはずだし、それが信長に対する嫉妬と憎しみに繋がってもいた であろう。
その信長が、「京に出て来い」と権高に命じてくる。 (わしが信長ずれに頭を下げねばならん謂れはどこにもないわ) と、信長の再三の上洛要請を無視し続けたのである。
この義景の峻拒は、信長にとっては想定内だったろう。 将軍の命に従わない者は、将軍に代わって信長が成敗する――
「五ヶ条の掟書き」にはそう明記されており、将軍である義昭はそれを支持しているのである。
ちなみにこの遠征には、浅井長政率いる北近江勢が参加していない。
信長の妹 市の婿である浅井長政は、信長の義理の弟である。 北近江を奪って戦国大名化した浅井氏は、南近江の六角氏に対抗するために越前の朝倉氏を頼り、そ の庇護を受けていた。この関係は長政の祖父 亮政の代から40年近くも続いてきたもので、ほんの数年間 に過ぎない織田家との同盟などとはその誼(よしみ)の深さにおいて比較にならないのである。朝倉氏 の本拠である一乗谷には浅井氏のための屋敷までがあったほどで、独立の戦国大名であると言うよりは、 朝倉氏の被官(家来)であったとする方がどうやら真実に近い。
このため、長政は信長と同盟するとき、「朝倉氏とは矛を交えない」という誓紙まで取ってその確約
を得ていた。朝倉氏に従属している浅井氏とすれば、織田と朝倉が喧嘩をしてもらっては困るので
ある。 この辺り、信長と長政の意思疎通がどの程度できていたのか、実はよく解らない。
信長の気持ちを想像してやるなら、浅井長政に朝倉攻めに加われと命じることには、さすがに後ろめ
たさがあったであろう。本音を言えば「朝倉を見限って織田につけ」と迫りたい気持ちもあっただろう
が、そこまでするのは情誼の上から酷だと、信長は長政を思いやった。
一方、浅井氏の側はと言えば、若い長政は比較的信長寄りだったのだが、長政の父 久政は大変な朝倉
贔屓であり、誓紙まで取った「朝倉を攻めない」という同盟の条件をあっさり反故にした信長に対する
反感や不信感も家中で強かった。
長政は、信長が京を出陣した数日後、隠居の久政と浅井家の老臣たちに押し切られる形で、織田家と
の同盟破棄を決める。
信長は、これから、信じた浅井長政に裏切られる。さらに後には、何度も命を助けてやった松永久秀 に背かれ、小豪族に過ぎない境遇から抜擢を繰り返して織田家の軍団長にまでしてやった荒木村重に寝 返られ、挙句の果てには、浪人のような境涯から拾い上げ、織田家一の出頭人と呼ばれるまでに出世さ せてやった明智光秀の謀反によって本能寺で殺されるのである。 ここに、信長という男の不思議さがあるように思う。 信長は、「敵」と認識した相手に対しては一切容赦をせず、一片の情けも掛けず、いかなる隙も見せ ない冷徹無比な男だったが、自分が目を掛けてやった人間に対しては、持ち前の猜疑心の働きが鈍って しまうようなところがあった。 この俺がよくしてやった人間が、俺を裏切るはずがない―― という信条が信長の中にはあったのか、あるいは「この男は信じられる」といった自分の直感に絶対 の自信を持っていたからか、「敵」には騙されたためしがないというほどに読みが深いはずのこの男が、 味方に対してはときに甘さを見せ、無用心としか言いようがないほどに無防備に横腹を曝してしまうの である。 信長という人間を考えるとき、このあたりに何やら重要なツボがあるような気がしてならない。
木下勢は、織田軍の主力としてこの遠征に加わることになった。
ところで、織田軍は、一般に軍装が華美である。 派手好みということでは人後に落ちない藤吉朗も装束には常に気を使っていて、鎧の威し糸などは 赤、白、藍色など3、4色も使った手の込んだものをわざわざ作らせているし、陣羽織はド派手な緋色 の羅紗(ラシャ)製のものなどを好んで愛用している。 これに比べると、小一郎などは地味なものである。
小一郎は、黒糸で威され黒漆で塗られた桶側胴(おけがわどう)の当世具足に身を包んで
いる。馬に乗る身分になってから新調したものだが、余計な装飾などには一切金を掛けずに済ませた
ために同色の頭形(ずなり)兜には前立てさえ打ってない。使い古した無地の陣羽織を羽織っている
こともあり、質朴と言うよりむしろ貧乏臭く見えるほどである。
ちなみに小一郎の隣でゆったりと馬をうたせている半兵衛は、浅黄色の木綿糸で威した革具足を着
込み、“虎御前”と名づけられた細身の太刀を腰に佩き、浅葱色に染めた木綿の胴服を長々と打ち羽
織っている。 「重いので、あまり好きではないのですよ」 というのが本人の弁で、この日も兜は小者に持たせ、侍烏帽子に鉢巻という姿であった。
ともあれ、木下勢の後衛の指揮を任された小一郎は、半兵衛と共に織田勢の長蛇の列の中ほどを
征く。 (戦らしい戦といえば、あの「六条合戦」以来じゃな・・・)
と、小一郎は思った。
小一郎たちは、行軍の列に従って将軍御所から室町通りを北へとのぼり、応仁の乱で焼け、以後百年
荒れたままになっている室町第(花の御所)の跡地で右に折れた。相国寺の大伽藍を左手に見ながらし
ばらく進むと、やがて上京の「構え」の北東の端に行き着く。
織田勢は、この20日のうちに坂本を経由して近江の和邇(わに)まで陣を進め、以後は琵琶湖に沿
って北上し、21日に近江の田中に着陣。ここから進路を北西に取って琵琶湖を背に山を登り、22日に
若狭の熊川、23日に若狭の佐柿と軍を進め、ここで一時軍を留めた。 要害を誇った手筒山城は、わずか一日で落ちる。
朝倉方は、今回の信長の電光石火の襲来を、ほとんど予期していなかったらしい。城兵は少なく、
一乗谷からの援軍も準備に手間取って間に合わなかった。
翌日は、敦賀の主城とも言うべき金ヶ崎城を包囲。 同時に信長は南方の疋田城にも兵を送って開城させ、これを破却した。
信長は、開戦わずか2日で、3つもの城を落としたことになる。 (この信長さまの勢いは、もはや誰も止めることはできんわ)
戦勝に酔いしれる兵たちの雰囲気に巻き込まれながら、小一郎なども無邪気にそう思った。
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