歴史のかけら
32永禄12年は、そのまま何事もなく暮れた。
翌永禄13年(1570)は、4月23日をもって元亀元年と改元される。
伊勢平定に先立ち、志摩の豪族たちの盟主的な存在であった九鬼氏が織田家に誼(よしみ)を通 じて来ていた。織田家の領地は尾張、美濃、伊勢、志摩、南近江の五ヶ国まで増えており、堺、京、 大津、草津、岐阜、清洲などの大都市から上がってくる運上金(税収入)も莫大で、その経済的実 力はすでに三百万石を優に超えていただろう。北近江、三河、遠江、山城、大和、摂津、河内、和 泉、若狭、丹後、丹波などもすべて同盟国となっており、本州の中心部がほぼ織田一色に塗り替え られたと言っていい。
先年の「六条合戦」および伊勢征伐における木下勢の活躍と、京奉行としての藤吉朗の功績を認め
た信長は、藤吉朗の禄をそれまでの2万石から一気に5万石にまで引き上げた。 これに伴い、木下家の第一の臣である小一郎の禄も、一躍四千石まで増えた。 そもそも小一郎にはほとんど出世欲のようなものがなく、己の禄高などはそれほど気にしていな かったのだが、藤吉朗の家来の中で、小一郎の禄高は常に群を抜いて大きかった。木下家の第一の 臣として藤吉朗の働きを影で支え続けている小一郎の存在の有難さと大きさを、藤吉朗自身が誰よ りも認めていたし、それに感謝もしていたからであろう。
木下家が5万石の身代を持つようになった以上、これからは戦場では5万石分の戦役を果たさねば ならぬ義務があり、最低でも千五百人程度の人数は家来として抱えておかねばならない。何より必要 なのはまずその頭数だが、木下家の今後というものを考えれば家来の質もまた重要になってくる。 そもそもが土百姓の出である藤吉朗には、武士の親戚や縁者もなければ譜代と呼べるような郎党も ない。その意味では、ここで抱える人間たちこそがそれに代わる重要な人材ということになってくる わけで、いい加減な人間を集めてお茶を濁すわけにはいかないのである。 織田家に属していた小身の侍で、この時期、木下家に移籍した者は多い。 加藤光泰、山内一豊、仙石秀久、中村一氏、一柳直末、堀尾吉晴、脇坂安治、山口正弘、森吉 成(後の毛利勝信)などがそれで、これらはいずれも50石とかそれ以下で織田家に仕えていた足軽 に毛の生えたような若者たちだが、藤吉朗自らが信長にねだり、下級将校として貰い受けた。
また、有名どころでは、浅野長政がいる。
寧々の義父 浅野又衛門が、織田家で“三指に入る精兵(弓の名手)”と謳われ、弓組頭を務めて
いた男である、というのは先にも触れた。
又衛門は、織田家の弓組頭である浅野家というものに誇りを持っており、浅野家を織田家から離籍
させて木下家の家来にすることには最後まで反対だったらしい。 長政は利発で明るく勇気もある将来有望な若者で、このとき23歳。藤吉朗や小一郎とは義理の 兄弟、蜂須賀小六とは年の離れた従兄弟という関係もあり、木下家の今後にとって重要な役割を演じ てゆくことになる。 さらに、竹中半兵衛――
と言いたいところだが、半兵衛は、この元亀元年の段階では木下家には属さない。 半兵衛や小六たちが木下家に籍を置き、正式に藤吉朗の家来となるのは、北近江の浅井氏が滅び、 藤吉朗が北近江3郡を信長から頂戴し、長浜で12万石の城持ち大名となる天正元年(1573)まで待たな くてはならない。
ただ頭数を揃えるだけなら、さしたる苦労はなかったであろう。
できれば出自がはっきりしている農家の次男や三男坊が良い。それもお国言葉が通じて気心が知れ
る同郷の者か、織田家に馴染みの深い尾張や美濃に暮らしている者が良い。また浪人者なら、多少は
名の知れた者や経験豊かな者が良いに決まっているが、元の主家と履歴がはっきりしている者でなけ
ればとても召抱えられないし、性格的に倣岸な者や協調性に欠ける人間ではやはり困る。 結局は、小一郎が足でもって人材を集めて回らねばならなくなった。 小一郎は元亀元年の正月から京を離れ、尾張の郷里や知行地、美濃の村々などを巡り歩き、郷里の 縁者や友人知人、農家の次男や三男、浪人者などで使えそうな人材を探して回った。 「とにかく4月までには戻ってこい。春から何やら忙しくなりそうじゃからの」
出立するとき、藤吉朗はこう念を押した。 いずれにせよ、こうして木下家の家臣団は徐々に体裁を整えていったのである。
元亀元年の正月23日、信長は、朝山日乗と明智光秀を使者として、足利義昭に5ヶ条の掟書きを突
きつけた。 その掟書きは、
・御内書(将軍が発給する文章)を下すときは、事前にそれを信長に見せて承認を得、信長の添え状
と共に発給すること。
という内容で、武家の棟梁としての将軍の権能を大幅に制限するものであった。 (六十余州はことごとくわしが平らかにしてやる。将軍は天下の政道に嘴を入れようとせず、禁裏 の機嫌でも取って暮らしておれ) というあたりが信長の本音であったに違いない。
足利義昭は、信長によって将軍にしてもらった男である。
(信長とは、いったい何様のつもりじゃ・・・!) 新築されたばかりの将軍御所の御座所の御簾の奥で、歯噛みして憤慨していたはずである。
義昭は、信長に対して感謝する気持ちはさほど持ち合わせていない。
歴史の流れを知り、後世に生きている我々には、この義昭の気持ちは解ってやりにくい。
しかし、この元亀元年という時代には、足利幕府は厳然として生きている。
近畿一帯の大名小名たちは、信長に従っているというよりは「将軍の権威の代行者」に従っているの
であり、彼らが信長に従う法的根拠も「将軍の家来」であるからに過ぎない。彼らは信長を「己の主
君」とまではまだ考えておらず、畿内に暮らす地下の人々もまだ信長が将軍より偉いとまでは思って
いない。
信長のように将軍を擁して京に旗を立て、天下に臨んだ実力者の例は、過去にいくらでもある。近
年では大内氏、細川氏、三好氏などがそれで、それらの大名たちは、誰一人として「幕府体制」その
ものまでを壊そうとはしなかった。 その意味で、将軍の権威や現実にまだ存在する幕府体制というものをまったく意に介さない信長こ そが異端者であり、そういう考え方そのものが奇形であった。義昭が幕府を日本の政治の最高機関と 捉え、将軍を最高権力者と考えていることの方がむしろ自然で、日本に住むほとんどすべての人間が それと同じような考え方を持っていると言っても言い過ぎではないのである。 (信長だけが大きな力を持つのは、まずいな・・・) と義昭が考えるようになったのは、理の当然と言うべきであったであろう。
諸国の大名たちの上に超然と乗り、それらの利害を調整してやるのが「将軍」というもののそも
そもの役割であり、その存在意義であった。
義昭は、己の思惑を「信長に対する裏切り」だとは微塵も思わない。 信長は、義昭が与えてやろうとした「副将軍」の地位も「室町管領」の地位も受けず、将軍や幕府 といったものに対する軽視が甚だしい。信長には将軍にしてもらった恩があり、織田家を滅ぼしてし まおうとまでは思わなかったが、「このまま信長の力が大きくなり過ぎるのは危険だ」という直感が 義昭にはあり、諸大名の勢力バランスを取らねばならないという想いが、義昭の中の自己保存の本能 とでもいうべきものと結びついた。 (信長に、思い知らせねばなるまい・・・)
と、義昭は思った。
藤吉朗や小一郎はもちろん、半兵衛の視線さえ届かぬところで、順風だった織田家への風向きが、 静かに変わろうとしていた。
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