歴史のかけら
31「おぉ、小一郎、京は変わりなかったか?」 本陣にしている稲荷社の門前で馬から飛び降りた藤吉朗は、いつものように屈託なく笑っていた。余 分な油が落ちた頬は引き締まり、戦場焼けした顔は精悍そのものである。 「無事のご帰還、まずは祝着! 皆様方も、ご無事で何よりでござりました!」
小一郎は心から言った。 「今日ばかりは無礼講じゃ。小一郎、ありったけの酒と食い物を出して足軽の端々にまで好きなだけ飲 み食いさせてやれ。皆、よう働いてくれたわ」 藤吉朗は上機嫌で言うと、主立つ者たちを本殿に集め、慰労の酒宴を開いた。 「いやぁ〜、それにしても、此度は骨が折れたわい」
たった2杯の酒で顔を真っ赤にした藤吉朗が言った。 「伊勢での活躍ぶりは手紙(ふみ)で読ませて貰うたが、手傷を負うたっちゅうのには驚いたわ。もう傷 の具合はええんか?」 「おう、もう傷は塞がった。しっかし、あらどえりゃぁ痛かったぞ」 藤吉朗は自らの襟元をくつろげ、肩口の矢傷を自慢げに見せてくれた。 「まぁ、この傷のお陰で家中の者どもがわしを見る目も多少は変わったようじゃし、そう思やぁ安い買い 物じゃったがな」 「大事に至らず、何よりでした」 傍らの半兵衛が藤吉朗と小一郎の盃に酒を注ぎながら言った。 「伊勢での岐阜さまの戦振り、詳しゅう聞かせてもらえませんか」 「おうおう、是非とも我が師の半兵衛殿にも聞いてもらわにゃならん。ありゃ、なんとも奇妙な戦でし たぞ」 藤吉朗は、信長自ら指揮をとった大河内城攻めを語りだした。
大河内城が建つ丘陵の東にある桂瀬山に本陣を据えた信長は、まず城下町を焼き払わせ、城を 孤立させると、城の南側に滝川一益、丹羽長秀らの軍勢を、西側に佐久間信盛、藤吉朗、西美濃三人 衆らの軍勢を、北側には坂井政尚らの軍勢を、東側には柴田勝家、森可成らの軍勢をそれぞれ配し、 蟻の這い出る隙間もないほどに厳重な封鎖態勢を敷いた。
織田勢は、浅井長政率いる浅井勢が援軍として加わったために、その総数は5万余というところま
で膨れ上がっている。対する北畠勢は、阿坂城の敗兵を収容したとはいえ、総数1万に満たない。 が、城を守る北畠勢の奮戦は、凄まじかった。
伊勢の国司である北畠氏というのは、村上天皇から発する村上源氏の名族である。
しかも、南伊勢の武士たちを率いる総大将が、なかなか良い。
北畠具教は、この永禄12年で41歳になる。 その大河内城が、信長によって十重二十重に包囲されている。 信長の下知の元、織田勢は何度もこの城に攻勢を掛けたのだが、そのたびに手痛いしっぺ返しを喰ら い、甚大な損害を受けるばかりで城の外囲いさえ破ることができなかった。 (どうもこの南伊勢は、南近江のようにはいかんらしい・・・) と、信長が思うようになったのは、城攻めの流血を10日も繰り返した頃だったろう。 (思うていたよりよほどに厄介じゃ・・・) 苦虫を噛み潰したような気分だったに違いない。
信長が上洛を決意し、南近江の六角氏を攻めた時などは、今回と同様の戦略で苦もなく国を奪えた。
本拠の観音寺城を包囲された六角義賢(承禎)は、篭城わずか2日で城を捨てて逃散しているのである。
信長は、正面攻撃で血を流し続けることを躊躇した。
半兵衛が驚いたように言った。 「まぁ、兵糧攻めっちゅうても、大河内の城の兵糧がのぉなるまで本気で囲い続けるつもりじゃったと は思えんで。そういう振りをして見せたっちゅうことでしょうなぁ。囲うてさえおけば、城方の夜襲を 防ぐこともできますからの」 「それで?」 「いやぁ、それ以後、さすがに城衆は手も足も出んようになったんですが・・・」 亀のように城に閉じこもって出てこなくなったという。
信長は、城内の将兵に投降を呼びかけたり内応者(裏切り者)を作ろうと矢文などをもって誘いかけ たりもしたが、北畠家の武士たちの結束力と具教への忠誠は硬く、ほとんど効果を得られなかった。 焦りを感じた信長は、城への夜襲を考えた。 大部隊による夜襲というのは、軍事作戦上もっとも至難であるとされている。まして、古来より夜 の城攻めはしないのが原則になっている。大部隊であればあるほど敵に作戦意図を気取られる可能性 が高くなり、逆襲を受けやすい上、夜陰で視界が利かず、音による連絡も使えないために部隊の意志統 一や連携行動が難しく、同士討ちなどの不測の事態が起こりやすいからだ。 しかし、信長はあえてその禁を破り、丹羽長秀、稲葉良通(一鉄)、池田恒興らに命じ、城の南側に ある搦め手門へ暗夜の強行突撃を行わしめた。
結果は、惨憺たるものだった。
この敗戦によって、信長の苛立ちはほとんど頂点に達した。
北畠氏にとって、信長が伊勢へ侵攻を始めた数年前から、対織田戦略というのは最大の課題であり、
関心事であった。南勢地方の中心という地理的条件を鑑みれば、大河内城がいかに重要な拠点であるか
は言うまでもないことであり、だからこそ北畠具教自身がここに本拠を移し、信長の大軍が現れたとき
も主力をこの城に集めて防戦態勢を敷いた。防御力を高めるための普請もすでに入念に行われているし、
戦のための兵糧や物資、矢弾などの備蓄も十分にできており、一年は無理としても半年やそこらの篭城
ならば楽々と耐え得るだけの準備を整えてある。
十日、二十日と、滞陣だけが無為に伸びていった。 信長が敵の本拠を直撃する戦略を取り、付近の端城――多芸御所(霧山城)、船江城、田丸城、五箇篠 山城、松ヶ島城など――を放置していたため、それらの城から夜な夜な北畠家の武士たちが小勢で夜襲を掛けてきたり、 ゲリラ戦術を展開したりして織田勢の周囲や背後を常に騒がせていた。少数とはいえ、地理を知り尽く す地侍たちのゲリラ戦術というのは思いのほか手を焼くもので、織田方は夜は満足に眠ることもでき ず、苛立ちと焦燥とを募らせることになっていったのである。
藤吉朗は、意地悪く笑いながら言った。
大河内城の西の丸と本丸の間には、「まむし谷」と呼ばれる深い谷が横たわっているということは
先にも触れた。
滝川一益の吶喊(とっかん)は、戦術的には明らかな無理がある。 「滝川勢はことごとく撃ち殺されて人馬で谷を埋めた」
という惨状であったらしい。 信長は、この結果を見て、力攻めによる短期的な勝利は不可能であるという認識を一層強くした。
信長とすれば、この戦の落とし所を考え始めねばならなかった。南伊勢という大田舎で、半年、一年
と戦を続けるつもりは、信長にはさらさらないのである。
信長の感情から言えば、ここまで攻め込んでおきながら当方から下手に出て和議を言い出すのは業腹
であった。出来れば北畠家の側から和議の申し出させ、それを信長が寛大さを見せて承諾する、という
形がもっとも望ましい。
半兵衛が目を輝かすようにして聞いた。 「半兵衛殿なら、如何になされますかな?」 藤吉朗は逆に、楽しげに半兵衛に尋ねた。 「そうですねぇ・・・・」 半兵衛は自らの顎を撫で、中空を睨んで少しばかり考えた後、 「私ならば、大河内の城の周囲の固めを堅固にし、敵を座敷牢に入れたように封じ込めにします。その 上で軍勢を四方に送り、伊勢に散らばる端城を片っ端から抜き、国そのものを奪うでしょう。その時点 で敵が和を乞うてくるならそれも良し。和議を言い出さぬようなら、大河内の城は食(じき)攻めにした まま、軍勢の主力は美濃へ引き上げさせます」
と言った。 「さすがは我が師の半兵衛殿じゃ。実に抜け目ない策を申される」 藤吉朗は感心したように言った。 「しかし、それには少々時が掛かりますな?」 「はい。伊勢を平定するのに早くとも半年。大河内の城が落ちるには、一年近く掛かってしまうかもし れませんね」 「仮の話でござる。たとえば仮に、その一年の間に、三好三人衆と六角の残党ども、伊賀や紀州の者ど もなどが大きく手を結び、伊勢の侍たちを後押しすれば、戦はどう転ぶか解りませんな?」 「そうですねぇ。それは、その通りだと思います。伊賀や紀州のことはよく知りませんが、北畠国司家 と南近江の六角家とは縁が深い。北畠具教殿の妻は、確か――六角義賢殿の娘であったはず・・・。 当主の北畠具房殿は、六角義賢殿の孫に当たるわけですからね。三好氏と北畠氏とは過去に弓矢の事(戦 争)もあり、仲が悪かったはずですが、織田という共通の大敵があれば、これも手を結ばぬとは言い切れ ません。六角義賢殿が間に立って膠(にかわ)の役を果たせば、三者がくっついてしまうことは十分あり 得ます。そんなことになれば・・・事態はよほど厄介ですね」 「信長さまは、戦を長引かせることをお嫌いになったのじゃなぁ・・・」 半兵衛の言葉を聞いて藤吉朗は変に納得し、詠嘆するように言った。
多芸御所は、北畠氏の重臣 大河内 宮内少輔、森本 飛騨守らが2千の兵をもって守っていた。
と、藤吉朗は続ける。
朝廷としても、戦の仲裁は悪い話ではない。織田家と北畠家の双方に恩を売ることができ、失墜し
てしまっている朝廷の権威を世に顕すことにもなり、信長から多額の謝礼をもらうことさえできるか
らである。 久我家というのは「清華家」のランクに属する非常に家格の高い公家で、その血筋は村上源氏の嫡流 という名誉の家柄であり、村上源氏の枝流である北畠氏にとっては宗家筋に当たる。その久我家の当主 である久我通堅は、妻が六角氏の出であったと記録にあり、六角義賢の娘を妻に持つ北畠具教とは遠縁 の縁戚でさえあった。和歌のやり取りや季節の贈答などを通じてその繋がりは深かったろうし、北畠氏 にとってはよほど親しみやすい人物であったに違いない。 この久我家からの働きかけは、北畠氏の戦意に大きな影響を与えた。
北畠具教としても、このまま徹底抗戦を続け、滅亡してしまうことは必ずしも本意ではない。 武門に生きる人間にとって、大いなる者に従うというのは必ずしも恥ずべき事ではない。まして北畠 具教とすれば今回の篭城戦の連戦連勝によって武士としての意地と面目は十分に立ったとも言えるわけで、 これ以上の徹底抗戦は無駄に人を死なせる「わがまま」に過ぎないと取れないこともない。 それに、信長が出してきた和議の条件も良かった。信長の子を、北畠家の現当主である北畠具房の養 子にし、ゆくゆく北畠家の家督を継がせる、というこの一項だけなのである。
これは、信長が同じ伊勢の神戸家や工藤家に対してした和睦の時と同様で、北畠家乗っ取りのための
謀略には違いないのだが、裏を返せば、北畠家の側が信長の実子を人質に取ったという風にも解釈でき
る。
戦に連戦連勝し、朝廷の仲裁を受けて敵と和を結ぶ――北畠家として、この和議が武門の恥になるは
ずもない。 冷静になって考えれば、必ずしも悪い話ではなかった。
北畠具教は、重臣たちと熟考の末、この和議を受けた。 信長の、政略の勝利と言っていい。
藤吉朗の話を聞き終えた半兵衛は、納得したように何度も頷いた。 「奇妙と言えば、これほど奇妙な戦もなかったですわい。信長さまは、戦に連戦連敗しておりながら、 うまうまと伊勢を盗ってしまわれた」
と藤吉朗が言ったから、小一郎はあらためてそのことの奇妙さを思った。 「岐阜さまが将として優れているのは、『勝ち易きに勝つ』ところですね。戦に負けることがあって も、国を盗るという最初の目当てをちゃんと果たしている」 「『勝ち易きに勝つ』・・・・ですか?」 「『孫子』という唐土(もろこし)の書物に、『勝兵はまず勝ちてしかる後に戦いを求め、敗兵はまず 戦いてしかる後に勝ちを求む』という一節があります」 半兵衛は詠うように言った。 「名将は、あらかじめ必勝の態勢を築いてから戦を始め、凡将は戦を始めてしまってから勝とうとす る、というような意味ですね。岐阜さまは、戦を始めるまでに勝つべき態勢を常に整えている。そこ が、かのお人の非凡なるところです」 半兵衛は、小一郎にも解り易い表現で、信長という男を評した。 「名を捨てて実を取る、と申しますか・・・これは、簡単なようでいて、なかなかに難しいことなの ですよ」
半兵衛が現代人ならば、「戦術レベルの戦いで負けても、戦略と政略のレベルで勝利をもぎ取るとこ
ろが信長の偉さであり、勝利条件を堅実に築いてゆくその手腕こそが非凡なのだ」とでも表現したであ
ろう。
信長は、戦術家として見た場合、お世辞にも戦上手ではない。
信長は、常に「勝ち易きに勝つ」男であった。 「ともあれ、これで岐阜さまは当面の敵がいなくなったということになりますね。次に目を向け られる先は、西か、あるいは北か――」 小一郎はその口元を見守ったが、半兵衛は微笑し、それ以上は語ろうとしなかった。
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