歴史のかけら
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この里謡は、「藤吉朗は木綿のように使い勝手が良く、丹羽長秀は米のように常に無くてはならない
ものであり、柴田勝家は先鋒大将としてこれ以上の人材はなく、もっとも難しい退却戦は佐久間信盛に
任せれば安心である」といったような意味で、人の仇名をつける名人であった信長が作ったとも言い、
そうでないとも言うのだが、ともかくこのように歌われていたというそのことだけで、織田家では武将
としてこの4人の名が高かったことが解る。 他にも、織田家の宿老である林通勝や信長の乳兄弟である池田恒興。信長に古くから仕え、その 信頼を得ている者では森可成、坂井政尚、中川重政、蜂屋頼隆。美濃攻略から織田家に従った者で は西美濃三人衆(安藤守就、氏家卜全、稲葉一鉄)や不破光治。畿内平定後では和田惟政、蒲生賢秀、 松永久秀、三好義継、筒井順慶などが武将として有力で、さらにこの後、明智光秀、細川藤孝、荒 木村重、塙直政、簗田広正といった武将が頭角を現してくるのだが、ともかくもこの永 禄12年(1569)の段階では、先に挙げた5人が、まず織田家の中核を担っていた男たちと考えて良い。 この5人の中で、藤吉朗との繋がりが深いのが、丹羽長秀と佐久間信盛である。
丹羽長秀は、信長がまだ尾張半国の主であった時代から織田家中で政事・軍事両面において重きをな
していた譜代の重臣で、このとき34歳。戦はもちろん築城や普請事、さらには兵站輜重役まで何でもそ
つなくこなす器用さと安心して仕事を任せられる実務力があって、まさに織田家にとって「無くてはな
らぬ」存在であった。温厚にして沈毅な性格で人当たりも良く、周旋や交渉事をも得意としているあた
り、藤吉朗ほどの陽気さと軽さはないものの万能タイプという意味ではよく似ている。しかし、信長の
姪を妻にしているくらいだから織田家臣としての毛並みでは下郎上がりの藤吉朗とは比べ物にならず、
信長からの信頼も絶大なものがあった。
一方、佐久間信盛はこのとき40代の働き盛りで、織田家には先代の信秀(信長の父)の頃から仕え、信
長が弟に叛かれて家督を争ったときには一貫して信長を支持し、以後、信長に重用され、現在では家老
の座に就いている男である。「退き佐久間」の異名に恥じない歴戦の武将で、信長が行ったあらゆる合
戦に従軍し、人目を驚かすような働きこそないものの大きな失敗を犯すこともなく、堅実に武功を積み重
ねることで累進し、南近江攻略戦では別動部隊の大将に指名され、蓑作山城を落とす功を挙げている。
藤吉朗が、信長の上洛以後、京奉行の職についていたことは、公家や寺社と交わした数々の公文書、
書簡などに「木下藤吉朗」の署名があることから見て歴史的な事実と断定できる。
丹羽長秀が京を離れたこともあり、京に残る織田家の高官といえば先述した佐久間信盛と文吏派トッ
プの村井貞勝があるのみで、藤吉朗は京で実質的にナンバー3の地位にまで上ったことになる。 言うまでもないが、藤吉朗の仕事は増える一方であった。 信長の代官に過ぎないとはいえ、いまや京都守護職とも言うべき藤吉朗の元には、これと繋がりを持 ちたいという有象無象が群がるように集まって来る。藤吉朗の身分が上がり、その責任が重くなり、多 忙になるにつれ、藤吉朗の第一の臣である小一郎に対する人々のアプローチも当然のように増え始めた。 将を討たんとすれば、まずその馬を射よ、というわけである。 藤吉朗に取り入ろうとするのは、公家や高僧といった貴人から畿内の大名小名たち、果ては京や堺の 商人まで、実に多種多彩な人々である。それらがいちいち手土産を携え、毎日のようにやって来ては小 一郎に面会を求め、様々な要求や嘆願を置いていく。 なかでも難しいのは、訴訟事の裁定であった。
たとえば、「父祖以来の我が土地を、誰某が不当に占拠して困っている。織田さまのお力でこれを
取り返していただけないか」などという土地の相続権に関する訴えがあったとする。その土地に関する
古文書を当たったり、関係者に事情を聞いてみると、確かに気の遠くなるような昔には、訴え出た者の先
祖がその土地の権利が認められた事実があるのだが、時代が変わると別人にまったく別の安堵状が発給
されたりしていて、結局はその土地を奪い合っている双方の言い分がどちらも正しい、などという事例
が実に多い。 これらの訴えに対応することは、小一郎にとって決して楽な仕事ではなかった。そもそも小一郎は20歳 過ぎまで泥田をかき回す百姓だった男であり、都の貴人や分限者(金持ち)と上手に付き合ってゆくような 作法も常識もまったく持ちあわせていない。そのくせ、なまじ真面目で思いやりのある性格であるため、 いい加減な裁定でお茶を濁すこともできず、寝る間もないほどに多忙な藤吉朗に問題を丸投げすること もできないから、結局は自分で前後関係をいちいち丹念に調べ、川辺に生える葦のようにもつれにもつ れた事情を丁寧に聞き質し、その正邪を判断してから藤吉朗に報告し、最終的な決済を仰ぐという形に ならざるを得ない。 (なんの因果でわしがこんなことに頭を痛めにゃならんのじゃ・・・) 連日持ち込まれるこれらの訴えのために、大げさに言えばノイローゼになりそうであった。 「難しくお考えになることはないですよ」 半兵衛は、細々とした事務仕事を手伝いながら、小一郎をよく支えてくれた。 「岐阜さまが、なぜ木下殿を京の奉行になされたか――そこのところを考えれば、小一郎殿がどのよう に振舞われれば良いのかも、おのずと決まって参りましょう」 「兄者が京奉行をやっておる理由ですか・・・・?」 「都人に親しまれ、幕府や朝廷の方々の機嫌を取り結ぶことだけが仕事なら、典礼作法に通じ、教養も ある明智殿などの方が木下殿よりはるかに適任です。しかし、岐阜さまはそれを承知で、わざわざ木下殿に 京を任せておられる・・・。この都にある者たちのやり方に、こちらが合わせてやる必要などないとい うことですよ。織田家には織田家のやり方というものがある」 「それはそうなのかもしれませぬが・・・」 生活が豊かになり、装束が立派になっても、小一郎には自分の卑しい出自と無教養とに対する拭い がたい劣等感があり、都に暮らす貴人たちに対する引け目や遠慮がどうしても抜けなかった。
そういう気持ちは、小一郎とまったく同じ出自である藤吉朗にもあって良さそうなものだが、藤吉朗は
自分の出自の卑しさと無教養の上に平気でふんぞり返っているようなふてぶてしさがあって、蔑みの目
で見られたり悪口を投げつけられても常に陽気に笑い飛ばして来たし、この京にあってもその行き方で通
している。 そんなある時、藤吉朗が将軍 義昭の側近を怒鳴りつけた、というような話が噂として伝わってきた。 「なんでも木下殿は、自分は尾張の田舎者だから礼などは知らぬ、と嘯(うそぶ)いたそうですよ」 小一郎の執務室になっている禅寺の小院で、半兵衛は可笑しそうに笑った。 「あの大声でどやしつけられては、礼や作法もさぞ遠くまで吹き飛んだことでしょう。公方さまのご側 近がどんな顔をなされたか、見てみたかったものです」 「はぁ・・・なんというか、兄者も無茶をしますなぁ・・・」 織田家と幕府の関係というようなことを考えると、小一郎は無邪気に笑う気にはなれない。 「いやいや、それでこそ木下殿を京奉行に据えた甲斐があったと、岐阜さまなどはかえってお喜びになって おられるでしょう。遠慮をするというのは、この場合は、相手をつけ上がらせるだけなのですよ」 半兵衛の言い方にも凄みがある。 「貴人というのは情けを知らぬと言いますし、恩を感じるに薄い生き物です。生まれたときから下々の 者たちを当然に見下し、奉仕されるのが当たり前であると思い込んでいますからね。古き慣習と申しま すか、昔からの決まり事と申しますか・・・何百年もそうして暮らしてきておるのですから、これはも う、病と言うほかありません。しかし、岐阜さまは、そのような者たちを必要としておられない」 「・・・信長さまには、幕府はいらんと・・・?」 小一郎は声を落とした。 「あぁ・・・いやいや、そういう者たちを生む元となった古き秩序を、壊そうとしておられる、という ことですね」 半兵衛は少し考えて言い直した。 「たとえば京に公方さまがあるように、国々にはそれぞれ守護があります。しかし、そのほとんどの者は 力を失い、有名無実の存在になっている。守護のままに大名でおるのは、近国では甲斐守護である武田 氏と伊勢の国司である北畠氏くらいのもので、他はみな滅びるか、守護代などの下克上で領地を乗っ取ら れるか・・・いずれにしても没落しておりますでしょう?」 小一郎の生まれた尾張でも、守護であった斯波氏は零落し、一族の者がわずかな捨扶持を信長から与 えられ、家名の存続だけは許されているものの、守護としては完全に滅び去っている。 「乱世というのは、実力ある者だけが生き残り、実力のない者は滅んでいかざるを得ぬ時代ですから、 力の伴わぬ権威というのは成り立ちえないのです。権威に力があるのではなく、力が権威を作るというこ とですね」 半兵衛はいちいち実例を挙げて話してくれるから、教養のない小一郎などにも非常に解りやすい。 「たとえば遠い昔――鎌倉の右大将殿(源頼朝)は、律令の世を壊し、武家の世を拓かれるにあたり、さ かんに『天下草創』という言葉を使われたと聞きます。世に新しき秩序を敷く、というような意味でし ょうが、岐阜さまが目指されておるのも、まさにそういうことであるのだと思うのです。力をもって、 乱世に新しき権威と秩序を打ち立てる――と。ですから、室町風の古い権威や慣習などには、岐阜さま は頓着なさらないのですよ」
なるほどその通りだ、と小一郎は思った。
乱世に新しき権威と秩序を打ち立てる――『天下草創』。 「兄者は、そういうことをすべて解っておるっちゅうことですか! だから、あのように傍若無人に振舞 えると・・・」 「それも、理由の1つではあると思います。古くからの慣習や秩序、権威などを好み、それに親炙す るような者では、岐阜さまの代官は務まりませんでしょうからね」 半兵衛は微笑した。 「古くからあるものにも、良いものはたくさんある。そのすべてを、古いという理由で壊すことはな い。たとえば岐阜さまも、熱田神宮や伊勢神宮を、古いという理由で焼こうとはなさいませぬでしょ う?」 焼かぬどころか、信長は熱田神宮や伊勢神宮には多額の援助さえしている。 「しかし、古いがゆえの悪弊は、これを取り除かねばなりません。たとえば『座』の特権などは解りやす いかもしれませんね。あのように世に蔓延る悪政、悪法、悪弊は、人の暮らしにとって百害あって一利も ない・・・」 信長は、見事なまでに生まれながらの天下人だ、という意味のことを半兵衛は言った。 「岐阜さまは、己が目指す天下の姿を、すでに胸のうちに描いておいでなのでしょう。その絵に向かって、 邪魔なもの、道を塞ぐものは躊躇なく打ち壊し、ひたすらに進んでゆかれる。木下殿は、そういう岐阜さ まをよく解っておいでなのですよ」
信長の価値観を自分の規範にしているからこそ出自の悪さや教養のなさなどで嘆くことはなく、かえっ
てそれさえも利用し、信長の良き手足であることに徹し抜いてゆく―― (わしも、それでええのか・・・・)
小一郎は思った。 「岐阜さまが描いておるその絵を、一度見てみたいものですねぇ・・・」 半兵衛は書類を整理する手を止め、遠い目をした。 季節はそろそろ初夏――梅雨に入ろうとしている時期であった。
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