歴史のかけら
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『言継卿記』という文献がある。
山科家は、公家のうちでは摂関家、清華家に次ぐ羽林家というランクに属している。家格としてはそ
の高さを誇れるほどでもないが、内蔵頭(くらのかみ)という役職を世襲し、有職故実に通じ、天皇の衣
文・装束を整え、また雅楽器の笙(しょう)を奉仕することをその家業としていたらしい。
まず、手に職がある。 彼が公家らしい一流の風流人であり、文化人でもあったということは、あらためて言うまでもないだ ろう。酒は出されればどこまででも飲めるという大変な酒豪で、博打(囲碁や将棋、双六などのゲーム を指す)をこよなく好み、歌道や文芸、学問にも深い造詣を持ち、仕事がら音曲にも通じ、また運動神 経にも優れていたらしく舞いや蹴鞠にまで長じていた。 もっとも、言継という人物を後世に特徴づけているのは、そのような彼自身に付随する特質ではな く、その広い交友関係であったろう。 言継は非常に社交的な人物で、同業の公家衆や御所に詰める女房たちは言うに及ばず、僧侶や神官、 果ては京の市井の人々とまで、四季折々の贈答、会食、酒宴などを通じて実に頻繁に交遊している。 また各界の人物との交流も幅広く、若い頃は信秀(信長の父)の頃の織田家や駿河の今川家などに出かけ ていって歓待されたりしているし、たとえば“剣聖”上泉信綱や連歌師の里村紹巴、絵師の狩野永徳、京 や堺の茶人などとも深い親交を持っていた。
他人に対して好悪の情が甚だしい信長も、父の代から付き合いのあるこの老人には好意を持っていた
ようで、言継がご機嫌伺いに逢いに来るとヒマなときは気持ちよく面会してやっているし、たとえば後
奈良天皇十三回忌の仏事のときなどは、その費用を捻出するために老躯を押して三河の徳川家康の元ま
で出かけてゆかねばならなくなった言継を哀れがり、言継を岐阜に逗留させつつ信長から家康へ話を通
してやり、銭2万疋(20万枚)を調達してやったりしている。 この言継の社交上手というのは正親町天皇からも重宝されていたようで、言継が信長と懇意と知るや、 武家伝奏を飛び越えて直接に織田家との折衝や接待をやらせようとし、天正年間にはしばしば勅命をも って走り回らせている。
山科言継という人物が面白いので、つい余談が長くなった。 『言継卿記』のこの時期の記述を見ると、1月4日に『三好三人衆、京中へ侵入し「以外騒動」と なる』とある。それ以前に三好勢来襲の風聞は見えないから、これが寝耳に水の「以外(意外)な騒 乱」で、つまり三好勢の「奇襲」であったことがうかがえる。 続く5日は、多少の続報が入ったようで、『三好三人衆、足利義昭の宿所である本圀寺を攻撃。 将軍方の足軽衆20余人が討死、三好三人衆の軍勢では死人・負傷者が多数であった』と報じている。
翌6日になると、すでに将軍方が勝利を収め、三好三人衆が撃退されたという確報が入っていたよう
で、言継は御所の内侍所で公家仲間たちと酒を飲みながら双六に興じたりしている。なんとものん気な
話だが、この騒乱が上京にまったく及んでいなかったことが、こののんびりした様子からも見て取れ
る。
3日の夜に小一郎が岐阜へ走らせた早馬は、折からの豪雪で路程がよほどに難渋したらしく、6日に
なってようやく岐阜城に辿り着いた。年始から続くこの悪天候のせいで、せっかく用意していた狼煙の
通信がまったく役に立たなかったというのは、運が悪かったとしか言いようがない。 信長は、この報に接するや電光のような素早さで行動を起こした。 「馬曳けぇぇぇぇい!」 一声叫んで部屋を飛び出し、装束を調えるやすぐさま馬上の人になった。 「京へゆく!」
と、信長の命令はいつもこうである。 「お、お待ち下されませ! 暫時、暫時お待ちをっ!」
左右の者が泣きそうになりながら駆け回り、大慌てで陣触れの太鼓を叩き、法螺貝を吹き立て、岐阜
の城下は灰神楽が舞うような騒ぎになった。 「この大雪でござりまする。ご出立は数日延ばされませ!」
などと諫言する者もあったであろう。
しかし、信長にすればそれどころではない。 「いらざる差し出口をするなっ!」 と一喝し、生ぬるい意見などは吹き飛ばしてしまった。
遠方の諸将に対する軍令書の送付などといった細々とした指示を終えた信長は、再び大手門まで戻っ
て馬を立てた。この間に、数十人の旗本の武者と荷駄隊の一部が大手門の前まで集まっていた。 「これらはいずれも同じ重さである。うぬらは早う出立の支度を致せ」 と言って人夫たちを黙らせ、畏れ入らせたりした。 信長はある程度の人数が集まったと見るや陽があるうちに岐阜を出陣し、ほとんど一騎駆けの勢いで 吹雪の中を疾駆した。信長の速度についていけない者は容赦なく置いていかれ、美濃と近江の国境 あたりは硬く積もった雪を削りぬくようにして道を作り、ほとんど不眠で進み続けたらしい。その行軍 の凄まじさは、折からの寒波のために凍死する者が出るほどだったという。
『信長公記』によると、信長はわずか2日で京に到ったということになっているが、これはいくらな
んでも言い過ぎであろう。
ちなみに藤吉朗は、信長との謁見と相談を済ませた後、とんぼ返りで岐阜を発ったと思われるから、
出立が信長よりは数日早く、京に戻ったのは7日前後であったとしておきたい。 藤吉朗が小一郎を伴って宿所に半兵衛を見舞ったとき、この行儀の良い男はわざわざ臥所を片付け、 衣服まで整えて対面した。 「此度のお骨折り、いちいち小一郎から聞き申した」 半兵衛の手をとって藤吉朗は深く頭を下げた。 「わしの思慮が足りなんだばかりに、半兵衛殿にはいかい(大層)お手間をお掛けしましたのぉ」 「なんの」 半兵衛は、痛々しいほど血の気が失せた顔に微笑を浮かべて言った。 「此度の留守を立派に守られたは、ひとえに小一郎殿のご分別の賜物です。私などは、さしたる働き も致しておりませぬよ」 「とんでもない」 小一郎は大仰に首を振った。 「いま思い返しても、半兵衛殿のお言葉は、怖いほどにひとつ残らずピタリピタリと壷に嵌っており ました。神算鬼謀っちゅうのは、まさに半兵衛殿の知恵のことを言うんじゃと、わしゃ驚かされっぱな しでしたわ」 藤吉朗は何度も頷きながら、 「何より、この京を焼かずに済んだのが第一等の功じゃ。この事はわしからも、信長さまによう言上致し ておきまするぞ」 と、心から誠意を込めつつ言った。 「それは、どうかご容赦ください」 半兵衛は苦笑した。 「私は、木下殿があらかじめ下された命に従ったまでのこと。そのことは、木下勢の寄騎の方々にも申 し渡しましたし、軍議の席でも申し上げました。敵を退けたは明智殿と京畿の諸将の功、京を守られた は木下殿の功、木下勢を動かされたは小一郎殿の功。それでよろしいではありませんか」 「いやいや、そうは参りませぬわい」
それでは半兵衛の働きに何も報いることができないではないか――と、藤吉朗は言った。 それでも、半兵衛は穏やかに首を振った。 「私は織田家に身を置いてはおりますが、この方寸(心)は――」 と、自らの胸に手を当てた。 「この方寸は、すでに木下殿の家来のつもりでおるのです。そのようなお気遣いは、してくださるな」 ものに感じやすい藤吉朗は、その言葉を聞くとみるみる目に涙を溜めた。 「半兵衛殿・・・・!」 両手をつき、 「あの近江の庵(いお)にて語り合い、約定致したこと、わしゃ片時も忘れておりませぬぞ。必ず国持ち大 名ほどにも立身し、半兵衛殿を信長さまからもらい受けまするによって、いま暫くご辛抱くだされ!」 腹の底から搾り出すような声でそれを言った。 「辛抱などと・・・私はいまでも、何の不満もありはしませんよ」 半兵衛は笑いながら藤吉朗の手をとり、その顔を上げさせた。
藤吉朗が何と言って半兵衛を口説き、半兵衛が何に絆されて世捨て人の境遇を捨て、あの墨俣砦に足
を運んでくれたのかというのは、半兵衛から聞いた程度のことしか小一郎は知らない。まして、半兵衛
が隠棲していたという近江の山間のあばら家で、半兵衛と藤吉朗が何を語り合い、どんな約束をしたか
というようなことは知りようはずもない。 本國寺までの長くもない帰路、静かに馬をうたせながら藤吉朗は言った 「小一郎よ、よう覚えておけよ」 「ん?」 自らの馬を藤吉朗のそれに寄せ、小一郎は聞いた。 「智者と悪人っちゅうのは、ほんの紙一重じゃ」 両者の違いは、その心事だけであると、藤吉朗は言う。 「たとえば松永久秀っちゅう男は、ありゃ相当の知恵者じゃが、もう小気味良いほどの悪人じゃな。 毒気が強すぎるわ」 その人間の心に毒気があれば、知恵者とはすなわち悪人であろう。欲心が強く、己を愛することに深い 者は、身に備わった知恵を己の欲望を満たすために働かせるから、その所業はおのずと悪人のものとな る。 「そこへゆくと半兵衛殿は、ありゃぁまことの智者じゃ」 智者の心事とは、常に風が吹き通っているような爽快なものでなければならない、と藤吉朗は続け た。 「家屋敷に喩えるなら、じめじめと湿気が強いのもイカンし、埃っぽいのもイカン。襖を開け、風を吹 き通してやらねばならん。あるいは水のようなもんに見立てれば、流れ続ける川は澱むということがな いが、流れのない沼は水が澱み、やがては腐る――と、まぁ、そういうことじゃ。・・・解るか?」 「まぁ、解る」 そんな喩え話より、半兵衛の人柄に思いを致せばそれで足る。 「智者の心事は、常に透き通るようでなければならんちゅうこっちゃな。透き通っておれば、物が よう見える」 「ほんなら、兄者はどうじゃ?」 小一郎は逆に尋ねた。 「兄者はよう知恵が回るが、兄者は智者か?」 功名出世に目の色を変える藤吉朗の心事が智者ほどに清々しいものであるはずがないが、しかし、 藤吉朗が悪人でないということも小一郎は知っている。 「そりゃ難しいところじゃのぉ」 藤吉朗は少し考えて、こう答えた。 「わしはどうやら悪人じゃな。智者と言うには、欲があり過ぎるわい。じゃが、ただの悪人とはちゃう ぞ。わしは、常に智者の心事であらんとしておる悪人じゃ」 「・・・そりゃぁ一番性質(たち)が悪いんとちゃうか?」 と言って、小一郎は笑った。
信長はこの大軍勢を京に留め、正式に堺に対して「最後通牒」を突きつけた。
この効果はてきめんだった。 ちなみに千宗易は、この直前の時期、しきりに今井宗久、津田宗及と茶会を持っている。茶室の中で どのような密談が交わされていたかは想像の域を出ないが、これ以後、堺衆の中で宗易の存在感が急激 に高まっていくことを思えば、おそらく堺を織田家に従わせる方向に導いたのであろう。 ともあれ、自由都市としての堺の矜持はこのとき滅び、以後、堺は織田家の重要な経済基盤となり、 同時に鉄砲や硝煙、火薬、鎧兜、武具、馬具などの軍需物資を生産する最も有力な基地になった。
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