歴史のかけら
18京は四方を山に囲まれた典型的な盆地で、夏は風があまり吹かず、鍋底のように太陽に照り付けら れて気温がぐんぐんと上がるが、逆に冬は比叡山から吹き下ろす「比叡おろし」が吹きすさび、手足 の先が凍るほどに底冷えする。 「尾張に比べりゃぁ岐阜も寒かったですが、この京の寒さというのは格別に身にこたえます なぁ・・・」 両手を擦り合わせながら小一郎が言った。 「えぇ・・・おかげでなかなか・・・・・・」 傍らを歩く半兵衛は、そこで少し咳き込み、 「・・・・風邪が治りません」
と言って苦笑した。 天を見上げると、雪でも落ちてきそうな厚い雲が空を覆い尽くし、陽の光をまったく遮ってしまっ ている。昼も近いというのに、気温がほとんど上がってこないのはこのためだろう。しかし、京者た ちにとってはこの寒さも常態なのか、辻々を行き交う人の数は岐阜をしのぐほどである。 「他行(外出)なぞはせず、まだ横になられていた方が良いのではありませんか?」 下手にこじらせてもらっても困るから、安静にしていて欲しいと思うのだが、 「いえ。今日ばかりはどうしても同道させてもらいます」 と、半兵衛は意に介した様子もない。
いま、小一郎たちは、京の油小路を北へと辿りながら下京の市街地へと入って行こうとしている。
この頃――永禄11年ごろの京は、上京下京合わせて120を越える町組がひしめき合い、上は天皇、
公卿、将軍から、下は河原などに野宿する乞食、異色なところでは異国の宣教師などといった者た
ちまで、ありとあらゆる職種の20万を越える人間たちが暮らしていた。応仁以来の戦乱で焼けた町
並みには往時の落ちつきや典雅さは失われ、碁盤の目に整えられたいたはずの市街地はいびつな瓢
箪形にゆがみはしたが、「構(かまえ)」と呼ばれる堀と土塀で外界を遮断し、町の入り口にはそれ
ぞれ櫓門を配した乱世向きの城壁都市として見事に復興がなされていた。 「それにしても、あの兄者が京奉行とは・・・えらい時勢になったもんですなぁ」
多少の皮肉を込めて小一郎が言った。 「そこは、乱世のことですからね・・・。けれど此度の木下殿の抜擢は、岐阜さまらしい、深く周到 なお考えの末のことだと思いますよ」 半兵衛が応えた。 「京はとかく先例やしきたりにうるさい土地柄ですし、都人は本音の上に建前を幾重にも築いてなか なか腹を表に出しません。こういう場所では、武にかたよったお人では『野卑』と蔑みを受けますし、 文にかたよったお人では『惰弱』と舐められてしまいます。そこへゆくと木下殿は、硬軟自在――武 に振れすぎず、文に流れず、厳しさも甘さもほどよう持ち合わせておられる。加えてあの陽気さと機 転、さらには誰もが思わず頬をゆるめてしまうような愛嬌――京奉行は確かに難しいお役目ですが、 木下殿以上の適任者はちょっとおらぬでしょう」 「それは兄者を褒めすぎでござりまするよ」 小一郎が笑うと、半兵衛もつられて笑った。 「将軍になられた義昭さまなぞは、明智光秀殿を京奉行にするよう信長さまに懇請されておったとか 漏れ聞きました。室町典礼に明るく、幕府に顔が利き、また義昭さまの昵懇を得ているという明智殿 こそ適任ではないかと思ったりも致しまするが・・・」 例の明智 十兵衛 光秀は、この上洛戦の直前に、義昭からの推挙という形で織田家に籍を置く身分 になっていた。信長はすぐさま5千石の禄を光秀に与えたというから、藤吉朗を一足飛びで飛び越え ていきなり織田家の重臣に加わったと言っても言い過ぎではない。 「確かに十兵衛殿ならば京奉行のお役目をそつなくこなしはしましょうが、かの仁は織田家ではまだ新 参。またお立場が、少々将軍家に近すぎましょう」 京都奉行は織田家と将軍家とのパイプであることはもちろんだが、京での織田家の顔であり、威厳の 象徴でもある。将軍家の威ではなく、織田家の威を天下に示すためには、昨日今 日の新参者ではなく、織田家譜代の家臣をもってそれに充てるべきであろう。藤吉朗は織田家譜代でこ そないが、信長自身が泥の中から拾い上げ、抜擢に抜擢を繰り返して今の地位まで引き上げた股肱であ るから、へたな譜代家臣よりも信長との結びつきはよっぽど深い。 「まぁ、いずれにせよ、京者たちをつけ上がらせず、また怖れさせすぎぬような細やかな配慮が、木 下殿ならばできると、岐阜さまはお考えなされたのですよ。木下殿にすれば、これでまた出世の階 段を1つ登った、ということになりますね」 無役だった藤吉朗にとっては確かに栄転には違いないわけで、木下組の誰にとっても喜ばしいこと なのだろうが、小一郎にすれば頭痛の種が増えただけと言えないこともない。 小一郎が頭を痛めているのは、藤吉朗の揮下に入っている人間たちをどうやって食わせていくか、 というこの一点に尽きた。
この時期、藤吉朗は、信長から預けられた寄騎(与力)を含めて約3千の軍兵を率い、その小者や
中間、雑夫の類を含めると5千人近い人間を扶養する責任があるのだが、5千人の人間という
のは、10日の間に実に5百俵以上の米を食う。当然、味噌や塩、副食なども必要になるから、食費
だけで考えてもその出費たるや莫大な額になるのである。 小一郎の用向きを知ると、半兵衛は是非とも小一郎に同行したいと珍しく積極的に主張した。 「京の台所事情に興味があるのですよ」 と、半兵衛は言う。 「たとえば、京者たちが、何処でとれた米を食うているのか――何処で獲れた魚を食うているの か――そういうことが知りたいのです」 京で幾万の民が生活するためには、京者たちが消費するに十分な食料や燃料が安定的に供給されて いるはずだが、京のような人口の多い消費型の都市ではそれらすべてを近隣だけで自給することがで きるわけがないから、当然どこかから買い付けて運び込んでいるはずである。たとえば米なら、そ れがどこから運ばれてくるのか、誰がどのルートで運んでいるのか、どのようなシステムで流 通しているのか、どの程度の相場で取引されているのか――そういったことを、知っておきたいのだ という。 「はぁ・・・また変ったところに目をつけられましたなぁ」 呆れたように小一郎が言うと、 「戦において兵の食を確保するのは、もっとも重要なことですよ。木下勢を切り盛りして おる小一郎殿ならば、兵糧の大切さはお解りでしょう?」 と、半兵衛は悪戯っぽい笑みを見せた。 「・・・なるほど。京に入ってくる米を知るということは、五畿内はおろか近国の米の事情を 知ることになるわけですな。それが、いざというときに役に立つと・・・」 「それだけではありません。米を運ぶ馬借や車借(現代でいう流通業者)は諸国の産物や事情、人物や 噂話に通じておりますから、それらを束ねる商人たちは、多くの話を聞き知っておりましょう。こと に京は海のない国でありながら、古くから琵琶湖の水運で敦賀との交わりが深く、そこから北陸や山 陰の国々と繋がりを持ち、伊勢の安濃津(津市)で東海に繋がり、尾張、三河、駿河――さらには箱根 より東の国々まで往来がある。また淀川の流れが泉州 堺に直通し、そこから瀬戸内や九州の国々はも ちろん、唐、天竺、果ては南蛮にまで商いの道が拓けておるやに聞きます。陸の道しか知らぬ我らより、 京者たちは遥かに広い世を生きているのですね。そして、その広大な世をしたたかに泳ぎ回って利を稼 ぎ出し、金穀を山と積み上げていくつも蔵を建てるほどにまでなったのが、京や堺に棲む豪商富商とい った連中です」 「大商人(おおあきゅうど)ですか・・・」 「海千山千――妖怪のような者たちですよ」
半兵衛の眼光が、一瞬鋭くなった。 「今後、織田家の戦は京を中心としたものになるでしょう。戦になれば、兵は米を食い散らかし、 矢弾を湯水の如くに使いますから、我らが戦を続ける以上、好むと好まざるとに関わらず豪商富商と の関わりは増えてゆかざるを得ません。今のうちから木下藤吉朗の名と小一郎殿の顔を売っておいて も、おそらく無駄にはならないでしょう」
半兵衛の視線というのは、小一郎が見ているよりも視界が常に広く、しかも遠くまで見通しているら
しい。 「それにしても、京は瓦の屋根が多うござりまするなぁ・・・」 大都会だと思っていた岐阜の町でさえ、屋根といえば板葺きか こけら葺き が普通で、瓦で葺い た屋根などは市街ではあまりお目に掛かれないのだが、この京の町ではどちらを向いても普通に目に することができる。それも、ほとんどが小一郎でさえ名を聞いたことがあるような由緒正しい寺院の屋 根で、京の寺社の多さが視覚的にありありと実感できた。 ちなみに、小一郎と半兵衛が連れ立って歩いているこのときから20年ほど前の京の姿を描いたと推 定される『(上杉本)洛中洛外図』を眺めると、京を代表する高名著名な寺社だけで実に百を超える建 築物が描かれている。それらの末寺や末社、無名の寺社を含めると、当時の京の寺社の数はお そらく数百にも登ったであろう。 「京の風景といえば、応仁の戦乱で燃えた相国寺の七重大塔と、東寺の五重塔がなんといっても有名 ですが、その五重塔も、5年前の落雷で燃え落ちたと聞きます。残っておれば――」 半兵衛は南西の空を指差し、 「あのあたりに高楼が遠望できたはずなのですがね」 と、少し残念そうに言った。 「半兵衛殿は、京の様子にもお詳しいのですなぁ。以前にも来られたことがござりまするので?」 半兵衛は浪人時代に近江で暮らしていたこともあるくらいだから、あるいは目と鼻の先の京まで足を 伸ばしたこともあるかもしれないと思ったのだが、 「いえいえ。上洛したのは此度が初めてです」 半兵衛はあっさり否定した。 「都は、多くの古典の舞台になった場所ですから、そういったものを読んだり、人の話を聞いたりして いるうちに、頭の中に大まかな地図ができたのですね。応仁の戦乱や、先年の法華衆の騒乱(『天文法 華の乱』のこと)などで京の姿は大きく変ったと聞きますからあまりあてにはできませんが、それでも 法華宗以外の寺社の位置はさほど変っていないようですしね」 「はぁ・・・大したものですなぁ」 小一郎は素直に感心した。 「それでは、米場がどの辺りにあるかもご存知で?」
米場というのは、現在で言うところの米の卸売市場のことである。近隣の国々から買い集められた
余剰米がこの米場に集積され、競りによって値段が決められ、馬借や車借といった流通業者のネット
ワークによって近国に運ばれている。京ほどの大都市になるとすでにそういう役割の施設が存在して
いて、たとえば魚棚(魚の卸売り市場)などは上京下京にそれぞれあり、瀬戸内海で獲れ、淀川を使っ
て運ばれた鰯や鱈、蛸やスルメ、海藻や貝などの海産物が大量に集められ、近畿地方の消費者の元に
届けられる仕組みになっている。 「いやぁ、それはさすがに存じません」 半兵衛は首を振り、 「しかし、我らが上洛して以来、京の諸式はことごとく品薄になり、値が高騰していると聞きますか ら、米場で大量の米を買い付けるのは難しいかもしれませんよ」 と言った。
今回の上洛戦で信長が引き連れてきた軍兵は、援軍の諸軍勢を含めて実に5万――非戦闘員を含め
ると7、8万はいたであろう――である。信長の指示によってこれらの遠征軍は十分な糧食を帯同し
てきており、京の近辺で糧食を買い占めたり百姓の収穫を略奪したりということをしなかったのだが、
摂津侵攻戦などで京に入ってくる物資の流通が一時的に滞り、さらに戦乱に備えた京者たちが慌てて
食料品や生活物資を買い込んだりしたから、結果としてあらゆる物が品不足を起こし、値が暴騰してし
まっていた。 「いっそ有力な米商人に直接話をつける方が早いかもしれません。収穫からまだ三月かそこらですか ら、蔵には米が山積みになっておりましょう。あとは、有力寺社に合力を申し入れて兵糧を分けて もらうという手もありますが――これは、あまりお薦めできませんね」 「と、申しますと?」 「岐阜さまが、京の寺社を今後どう扱ってゆこうとしているのか、まだはっきりしておらぬからです。 それらの寺社に勝手に借りを作っては、木下殿が岐阜さまのご機嫌を損うことにもなりかねませ んし・・・」 「あぁ・・・・」 そこまで聞いて、小一郎は納得した。
この時代、宗教勢力というのは、一面で「国」と呼べるような存在である、ということは以前も触
れた。寺社ごとに領地を持ち、その領地の税収権、裁判権、警察権を持ち、大名たちに対しては「守
護不入」という独立権さえ保障された独立勢力なのである。
信長は、基本的にこの時期までは宗教勢力に対する大規模な弾圧は行ってはいない。しかし、寺社が
矢銭(軍用金)の供出に応じないときや織田家に敵対した場合は容赦なくこれを排撃しており、たとえば
伊勢侵攻のときなども寺社仏閣の多くを躊躇なく焼いている。 「ならば、やはり、米屋に伝手を求めるしかありませんなぁ。・・・しかし、わしは京に知り合いなど ありませんから・・・これは難儀なことじゃ・・・」 小一郎は泣きそうな声を出した。 「商人(あきゅうど)のことは、商人に聞くのが一番早いでしょう。まぁ、そう考えずとも、行けばなん とかなるものですよ」 何か成算でもあるのか、半兵衛の足取りは常と変らずに軽い。
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