歴史のかけら
13
盃に満たされた乳白色の液体を一息に飲み干し、小一郎は陽気に言った。 「いや、まったくじゃ。美濃、北伊勢と手に入れて、織田家のご領地は倍以上に膨れたのぉ」 藤吉朗が、顔を真っ赤にして応えた。この兄は酒に弱く、わずかに飲んだだけで顔が猿よりも赤 くなる。 「なんとも目まぐるしい月日じゃったな。我らがこの墨俣砦を築いてから、もう一年と三月も経っ たかよ」
そう言った蜂須賀小六は、ため息をつくような面持ちであった。 「木曽川の無頼(ならず者)に過ぎなかった我らが、織田の禄取りになり、あの藤吉を“御大将”と 戴いておる。可笑しなもんじゃな、蜂小」
前野将右衛門が、臼のような顎で干魚をバリバリと咀嚼しながら豪快に盃をあおった。 「あぁ・・・じゃが、お前は無頼同士の細(こま)い喧嘩より、数千、数万というでかい戦の方が 血が騒ぐじゃろ。そう思えば、宮仕えもそう悪いものではあるまい」 小六が笑うと、 「違いねぇ」 将右衛門はまた盃を干した。 小一郎が見るところ、藤吉朗はこの小六と将右衛門の二人をよほど信頼しているようで、常に 相応の敬意を払い、おろそかにするということがない。内輪の話――たとえば寄騎衆をはぶいた 幕僚会議といったような場にも、小一郎と半兵衛、一門衆らと共に、この二人は必ず顔を揃えて いる。 「おめでたいと言えば――」 二人のやりとりを微笑をもって眺めていた半兵衛が口を開いた。 「先日またご婚儀がありましたね。湖北の浅井長政殿の元に、岐阜さま(信長)の妹御がお嫁ぎにな られた由、祝着でございました」 「おぉ、その通りじゃ。小一郎、嫁がれたお市さまを見たことがあるか? ないじゃろ?」 藤吉朗はなぜか自慢げに言った。 「わしは信長さまの草履を取っておったころ、廊下をお渡りになる市姫さまを何度か垣間見たこと があるが、あのお方のお美しさというのは、もう天女か神女(かんなぎ)かというほどのもので、こ の世のものとも思えんほどじゃったわ」 袖をまくって細い腕を突き出し、 「見よ、見よ、あのお姿を思い出しただけで鳥肌が立っとる」 などと言って皆を笑わせた。 信長の血筋というのは美人の家系だったようで、信長自身の美丈夫ぶりも若い頃から評判であっ たのだが、たとえば信長の弟 喜六郎 秀孝などは、絶世の美男子と隣国までその名が知られてい た。『信長公記』の記述を借りると、 「肌は白粉を振ったように白く透り、唇は朱を塗ったよう赤く、その姿、立ち居振る舞いは優しく 典雅で、顔かたちの麗しいことは衆に優れ、美しいともなんとも喩えようのないほど」
であったという。この喜六郎は十五歳のときに事故で命を落としたのだが、そのときの織田家の
女官たちの悲嘆は大変なものだった。 信長は、つい先日、琵琶湖北東の実力者 浅井長政にこのお市を嫁がせ、義理の弟とすることで これを味方に引き込むことに成功していた。半兵衛が言ったのは、そのことである。 信長がこの長政に目を付けたのは、まだ美濃に侵入を繰り返していた頃だったというから、時期 としては永禄四年(1561)ごろのことであったと思われる。美濃攻めをする信長とすれば、美濃の西 隣の浅井家と婚姻関係を結び、同盟することで南と西から美濃を圧迫したかったのであろう。しか しながら、この時は織田家の力がまだまだ過小に評価されていたから、長政自身の意向がどうであ ったかは解らないが、浅井家の家臣団から反対の声が高く、婚姻は実現しなかった。
それから六年が過ぎ、信長は今や旭日の勢いを示している。 「去年から今年にかけて、婚礼だけでも三河の徳川家、甲斐の武田家、それに此度の浅井家ですか。 まったく岐阜さまという方はやるとなると徹底しておりますね」 目元を少しばかり酔いに染めた半兵衛は、皮肉というよりも心から賞賛している口ぶりであっ た。 信長は今回の浅井家との婚姻の前に、三河の徳川家には長男 松平信康の妻として娘の五徳姫を、 甲斐と信濃を押さえる東の強豪 武田家には武田勝頼の側室として養女をそれぞれ縁付け、同盟の 絆を深くしている。大名同士の婚姻などは一朝一夕で成立するものではないから、これらの信長 の政略は、美濃攻略戦の最中から着々と進めてられていたものだということは言うまでもない。
ようするに信長は、一方で美濃侵攻を続けながら、一方ではなりふり構わず四方の情勢を整えて
いたわけである。 「京に旗を立てるために決まっておろうが!」と。
信長は、明確に「上洛」という目的を持った上ですべての行動を計画し、それをひとつひとつ着
実に実行に移していた。多方面作戦をせず、織田家の兵力を常に一点に集中できるように、伊勢以
外の近接勢力をみな味方にしてしまっているのである。伊勢を平定し終えたなら、同盟した浅井氏
と共に南近江に蟠踞する六角氏を攻め滅ぼし、一気に京まで歩を進めるつもりなのだろう。
織田家の他の多くの人間たちと同じように、たとえば小一郎は、「武田の騎馬軍団というのは鬼
のように強いらしい」と聞いたことがあっても甲斐という国がどこにあるかは知らなかったし、北
近江の浅井氏がどれほどの存在で、誰と敵対し、なぜ織田家と同盟したかということなども、考え
てみたことさえなかった。蜂須賀小六などは、木曽川筋の地侍として信濃のことについては多少聞
き知ってはいたが、美濃より西の諸国の事情となるとほとんど知識を持ってはいなかった。 一般的に言って、織田家に仕える者たちというのは、あの「桶狭間」で奇跡のような戦勝を挙げ て以来、信長の天才性の信者のようになっており、織田家がどんどんと大きくなり、いずれは天下 を取るのだということを、何の根拠もないままに赤子のようなあどけなさで信じていた。無論、こ れは信長自身がそのように仕向けていったということが大きいのだが、彼らは信長に従っておりさ えすれば間違いがないはずだと実に無邪気に思い込んでいて、能力主義で抜擢されたはずの織田家 の重臣たちでさえ、たとえば戦闘指揮官として、あるいは事務官僚としては確かに優秀な者が多か ったものの、織田家の進むべき道といったことに関しては、実際的にも精神的にも大将である信長 に頼りきっていたのである。
少しばかり余談をすると・・・。 こういった織田家の武将たちに比べ、藤吉朗と半兵衛という2人は、鮮やかなまでにその思考の レベルと世界観が違っている。 藤吉朗は、織田家に仕える以前、諸国を放浪していた時期があるというのはこれまでも何度か触 れてきた。藤吉朗は尾張、美濃、三河、遠江、駿河などの国々を自らの足で歩き回った経験を持っ ており、そのとき、駿河(静岡県東部)の今川家の武将の下に小者として仕え、そこで数年を過ごし てさえいる。今川家の家風や内情、当時はまだその属国であった三河の国振りや徳川家の事情には 当然通じているし、駿河から眺める富士の裏側に甲斐という国があることも、奥三河から東美濃に かけて国境を接する信濃(長野県)というのがいかに広大な国であるかということも実感を持って知 っていたのである。加えるなら、藤吉朗は自らの出世のために誰よりも熱心に諸国の情報を集めて いたから、武田信玄という男と最強と呼ばれる武田の騎馬軍団がどれほど恐るべき存在であるかと いうことも解っていたし、その信玄の泣き所が越後に蟠踞する関東管領 上杉輝虎であるという知 識も持っていた。また、京までの道のりに浅井、六角、三好などという大名どもが行く手を遮って おり、しかもそれらはお互いに仲が悪いということまでちゃんと耳に入っている。 一方、半兵衛はと言えば、古今の軍記物語に精通することで九州や四国の南部、東北や蝦夷地を のぞいた日本のおおまかな地図を頭の中で描けるほどに思考の訓練ができており、各国の守護や有 力な地頭などはみな諳んじるほどに伝統的な武家に対する知識が豊富な男であった。また、半兵衛 が住み暮らした西美濃というのは近江と隣接する地域であり、同じ国内の東美濃と比べても他国の 近江の方が距離的にははるかに近く、そこで行われた戦乱の歴史や浅井氏や六角氏のお家事情につ いても詳しかった。浪人していた二年ほどは近江で住み暮らしてさえおり、その間、浅井家から仕 官の誘いも頻繁にあり、懇意にしている浅井家の武将の元には何度も足を運んでいる。さらに加え るなら、北陸街道を往来する行商人などから北陸の覇王 朝倉氏のことなども多くを聞き知ってい た。
繰り返すようだが、この時代というのは、まだ日本地図などというものはなく、日本六十余州は
そこに住む在地勢力によって分割支配され、街道は数里も歩けば関所にぶち当たって銭を搾り取ら
れるから通行もままならず、山々には野武士や野盗が砦を構えて待ち伏せている、というような状
況であった。そこで暮らす武士や農民たちは他国まで出向くというようなことがまったく稀であり、
わずかに行商人や遊行民たちが移動をすることをのぞけば、人の移動というのは極端に少なく、情
報の伝播も同様に少なかったのである。全国的な規模で情報網を持っていたのは、大名たちよりも
むしろ独自の組織力を持った本願寺などの宗教勢力くらいであったろう。 いずれにせよ、この時期の小一郎の政略的な思考力は、他の多くの者たちと同様に、まだまだ幼 児のようだったということである。今の小一郎は、兄にとって少しでも優秀な手足となり、その出 世を援けるということだけを目標とする忠実な事務処理者であり、頭を使うという部分は藤吉朗に 任せきっていたのである。 もっとも、藤吉朗自身は小一郎に政略的な思考能力などは要求しておらず、その実務能力と人間 関係の調整能力を誰よりも評価していたから、自分の仕事を補佐するという点において、今のとこ ろその働きには十分満足していた。しかし、小一郎の教育を任されている半兵衛などは、思考を藤 吉朗に任せきっていることを多少歯がゆくも思っていたらしい。だからこそ小一郎や藤吉朗の腹心 たちにもっと広い視野を持たせようと努力しており、折りに触れてそれとなく情報を与え、思考の 訓練をさせようとする。 「私は一時近江で住み暮らしておりまして――浅井家の士とも、そのとき何人か面晤(逢って話を すること)したのですが・・・」 などと言い始めたのも、その一環だったろう。 近江国(滋賀県)について、半兵衛が小一郎らに語った程度のことを、読者にも知っておいてもら いたい。
近江国の北半分はもともと京極氏の領地であったのだが、現在これを支配している浅井氏という
のは、元をただせばこの京極氏の被官(家来)に過ぎなかった。
ところで、近江の南半国は、六角氏という守護大名が治めている。 浅井長政というのは、この亮政の孫にあたる人物である。
その勇気と武略は、祖父の亮政に優ると言われている。父 久政の代で六角氏の武威に圧倒
され、ほとんど属国のようになってしまった浅井家を強力なリーダーシップで建て直し、永禄三
年(1560)――信長が桶狭間で今川義元を破った年である――には野良田(滋賀県蒲生郡)で一万二千
の兵力でもって六角義賢(承禎)率いる二万五千の軍勢を破り、「湖北に浅井長政あり」と近隣に名
を轟かせるほどになった。 一万二千もの家臣団が溌剌とした長政の下に強固な団結を見せ、背後に北陸の大国 朝倉氏を味 方として背負う浅井氏が蟠踞する北近江というのは、暗愚で惰弱な男が国主であった美濃や、弱 小勢力が独立割拠している伊勢などとはまったく政情が違うということが、そろそろ読者にもお 解りになっていただけるであろう。 信長が浅井長政と敵対しようとしなかった理由は、つまり、敵に回せば厄介だと判断した、とい うことに尽きる。浅井家には三河の徳川家のような有力で優良な同盟国になってもらい、織田家の 覇業の尖兵とすることこそが、形としてはもっとも望ましかったのである。だからこそ、信長は自 分の実の妹を長政に嫁がせ、自分の義弟という破格の待遇を与えることまでしてこれを味方に引き 込んだ。 「岐阜さまのお心づもりというのは、このことでも明白です」 と、半兵衛は断定した。 「来年早々には、大規模な伊勢討ち入りが行われるでしょう。伊勢を押さえれば、鈴鹿峠を越えて の京への往還路が確保できる。それができれば、岐阜さまはいよいよ京を目指されることになると 思います」 「鈴鹿峠――ですか・・・・」 鈴鹿峠というのは、近江の南端から鈴鹿山脈を越えて伊勢へと抜ける獣道のように細い古街道で ある。そんなものと上洛との間にどんな関係があるのか解らないから、小一郎は思わず首を捻っ た。 「もし、織田勢が大挙上洛したとして、兵を京に置いた状態で浅井家が同盟を破棄し、敵に回るよ うなことがあれば、近江路をふさがれた我らは糧道(補給線)を断たれた上に岐阜に帰ることもでき ず、京で立ち往生をするハメになります。古来、京を守って戦って戦に勝ったという例はありませ んから、それだけは何としても避けねばなりません。あらかじめ伊勢を押さえ、鈴鹿峠からの往還 を確保してさえおけば、最悪の事態に立ち至ることだけは防げる、ということです」 「浅井は我らを裏切る、と・・・・半兵衛殿はお考えなのか?」 小六が怪訝そうに訊いた。 「いえいえ、そうは思ってはおりません。ですが、何が起こっても困らぬよう、あらゆることを考 えて手を打っておくのが武略というものです。岐阜さまは殊のほか慎重なお方ですから、そういう ことを怠るとは思えません」 もともと半兵衛は物静かな男で、必要がなければ半日でも口をきかないようなところがあるのだ が、ひとたび口を開けばその弁舌は立て板の上をすべり落ちる水のようによどみがなく、その言辞 は極めて流麗かつ論理的であった。どちらかと言えば感覚的な直感で物事を理解する藤吉朗などは、 弁舌では半兵衛にはとても及ばない。 「徳川家、武田家との誼(よしみ)を深くしたのも、これから西へと兵を向ける際の後顧の憂いをな くすためです。浅井家と手を握ったは、近江路を使うためと、なにより南近江の六角家と戦うため。 ここまで来れば、岐阜さまのお心が那辺にあるか、皆さまにもすでにお解りでしょう」 そこで我らがせねばならぬことは――と、半兵衛は続けた。 「まず、伊勢討ち入りに万端の準備を整える。これはもちろんですが、今のうちに南近江に人を入 れ、道や川、地理地勢、砦や城の位置などを調べ、国人(小領主)たちがどれほど六角家に従順であ るか、当主の六角義賢殿との仲はどうなのか、またそれぞれの国人たちの兵力がいかほどで、六角 勢がどれほどの兵を集めることができ、野戦ならばどこで決戦となるか、篭城ならば難攻不落と名 高い観音寺城に篭るでしょうから、観音寺城を攻める攻め口や、敵が伏兵を埋めることができるよ うな場所をあらかじめ調べておくべきでしょう。また、六角氏に援軍しようとする勢力があるのか ないのか、これも京や大和(奈良県)、摂津や河内(共に大阪府)などに人をやって、三好三人衆や松 永弾正らの動きを見極めておかねばなりません」 藤吉朗はもっともらしく腕を組みながら、小一郎や蜂須賀小六、前野将右衛門らはほとんど呆然 としながら、半兵衛の巧みすぎる弁舌を聞いていた。半兵衛が紡ぎだした言葉によって、これから 織田家が進んでゆくであろう道筋と、自分たちが果たさねばならない役割がありありと浮き彫りに され、小一郎などはそれだけで視界を覆っていた霧が晴れたような心地良さと爽快さを感じてしま っている。 「私の聞いたところでは、六角家では先年、義賢殿の嫡子である義治殿が、重臣 後藤賢豊殿を謀 殺するという事件があったそうで、それ以来、家中の人心は離れ、とても往年の六角家の武威は見 られぬという話です。それと、南近江の有力国人といえば、日野の蒲生定秀殿、犬上の山崎片家殿、 甲賀の三雲成持殿、和田惟政殿などの名が高いでしょうか。無論、このあたりのことはもっと調べ てみねばなりませんが・・・」 「さすがは半兵衛殿じゃな。もうわしが言わねばならんことは残っておらんわ」 藤吉朗は膝を叩いて笑った。 「小六殿、また人を貸していただきますぞ。川並衆の心利いた者を行商人などに扮させ、さっそく 南近江へ潜り込ませましょう。小一郎、われは明日から伊勢攻めの支度じゃ。兵糧と矢弾を山と買 い揃え、足軽どもの調練も抜かりのう頼むぞ」
いや、今宵は良い話を聞いた、さすが半兵衛殿じゃ、我らが軍師は頼りになるわ、と、藤吉朗は
はしゃぐように言いながら皆にさらに酒を振舞った。 半兵衛の信長の動きに対する予見というのは驚くほどの正確さをもってひとつひとつ実現されて ゆき、この夜の示唆がいかに適切なものであったかがこれから実証されてゆくことになる。驚愕と 戦慄をもってそれらを目の当たりにする小一郎や木下組の人々が、この稀代の軍略家が吐く言葉に 絶大な信頼を寄せるようになるのは、むしろ当然であったろう。
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