歴史のかけら
14半兵衛の予見の通り、信長は大規模な伊勢征伐を起こした。
『勢州軍記』という江戸初期に書かれた伊勢地方の軍記物語を見ると、織田勢はこのとき総数4万と呼号したら
しい。が、これは敵を脅すために誇張して言いふらした数字であろう。実数は、その半分ほどであったはずであ
る。 (何度やっても、戦というのはどうにも好きになれん・・・)
小雪がちらつく鈍色の空を仰ぎ、馬をゆったりとうたせながら、小一郎は思った。 (怖い)
と、素直にそう思う。
これが、生まれついての武士であるならば、幼いころから戦場という特殊な環境に慣らされて育てら
れたであろうし、怖いと思うその自分の感情を恥じ、それを殺し、闘志や怒りといった別の感情に変え
るよう心胆を訓練できたであろう。あるいは槍をしごき、弓を引き、小具足(格闘術)の修練を積んで日
々武勇を磨き、それをもって自分を支える自信にするようなこともできたかもしれない。 (因果なことじゃ・・・・)
戦場に引きずり出されるたびに、小一郎は思う。 (わしが戦場で見苦しい振舞いをすれば、やはりアレらは百姓よと人からあなどられ、兄者までが恥を かくことになる) という藤吉朗への配慮であり、「他人から笑われたくない」というこの時代の人間が多分に持っている 強烈な自尊心であり、「乗りかかった舟から途中で降りることはできん」という諦念と義務感、そして 責任感であった。 そういう、いわば後ろ向きの気持ちで戦場に臨んでいる以上、小一郎に大きな希望や颯爽とした目標 などはあろうはずもない。 (ともかくも、大過なく岐阜へ帰れりゃぁええんじゃが・・・)
というあたりがその精一杯であり、この小一郎の戦争に対する消極的な性向というのは終生ほとんど変ることは
なかった。 「武運――」 それを、信じる以外にない。 小一郎のつぶやきが聞こえたのか、馬の口を取っていた牛蔵という老僕が小一郎を振り仰いだ。 「・・・いや、なんでもない。独り言や」 小一郎が苦笑すると、老人は黙ったまま眠そうな目を再び前に向けた。
小一郎はこの牛蔵に加え、槍持ちと荷担ぎの小者、さらに2騎の武者と8人の徒歩(かち/馬に乗れない低い身分
の侍、歩卒)を家来として従えている。小一郎自身が藤吉朗から200石を給される木下家の将校だから、石高に応じ
た人数を扶養し、戦場ではそれを率いねばならないのである。こういう制度を当時の言葉で「賦役(ふえき)」と言
い、現代語なら「軍役」と呼ぶのだが、ようするに武士というのは俸禄によって主君に飼われているわけで、戦場
ではそれぞれの禄高に応じた働きを主君に対して還元する義務を負っている、と言えば解りやすいかも
しれない。
小一郎は、木下家の下級武士や足軽から、戦場で役に立たなさそうな者――槍働きが苦手な者や臆病な者、高齢
の者など――をリストアップし、その中から温厚で勤勉な者、誠実で計数に明るい者などを選んで藤吉朗から
もらい受け、自分の家来にしていた。 (戦場では、兄者が目立ってくれりゃぁええ) というのが小一郎の考えであり、木下組の裏方に自分の働く場所を定めていたから、兵糧荷駄の管理や雑務に向 いた者を集めたわけである。 このことを知ったとき、半兵衛などは手放しで小一郎を褒めてくれた。 「爾来、武家というものは、次男以下は長兄を立て、その影のようになっておるのが良いのです。一族一門の者が 功を競い合えば家来に必ず派閥ができ、派閥ができればいずれ仲たがいを起こし、家を危うくすると相場が決まっ ておりますからね」
応仁から続く戦乱――諸国の武家の盛衰は、必ず内部抗争がその火種なり引き金なりになっている、というよう
なことを半兵衛は言った。
伊勢の北部地方というのは、四十八家とも言われる小豪族たちがぞれぞれの村落に砦を構えて蟠踞し、離合集散
を繰り返しながら互いに争い合っていた、というのは先にも触れた。これらの豪族たち個々の動員力というのはせ
いぜい2、3百に過ぎず、2万という途方もない軍勢を引き連れてきた信長にはもともと歯が立たない。 しかし、同じ伊勢でも、そこから先はすこしばかり事情が違ってくる。 伊勢の中部地方は、関氏、神戸氏、工藤氏という有力豪族3氏が牛耳っており、南部地方から志摩半島にかけ ては北畠氏という守護大名が治めている。これらはいずれも源平の時代から連綿とこの地に根を張る由緒正しい武 家の名門で、お互いに仲が悪いものの、新興勢力である信長を快く思っていないことでは一致していた。 まず信長は、鈴鹿に根を張る神戸氏を降そうとし、神戸城(鈴鹿市神戸本多町)の前線基地にあたる高岡城を攻 めた。
高岡城というのは鈴鹿川北岸の丘陵地帯の東端に築かれた山城で、南と東は鈴鹿川がめぐり、北は深い谷をな
すという天然の要害である。唯一の攻め口になる城の西側は空堀と土塁と柵で守られ、小城ではあるが非常に攻めに
くい。ここに、神戸氏の家老である山路弾正という硬骨の勇将が千人ほどの兵を率いて篭っていた。 前回に倍する兵力をもって高岡城を完全に包囲した信長は、これを昼夜分かたず攻めに攻めた。が、山路弾正 以 下 城兵たちの抵抗は凄まじく、今回もどうしても落とすことができない。5日経ち、10日経ちするうちに、信長 はこの攻めにくい小城に煩わされているのが馬鹿らしくなってきた。 信長は後年、自らに楯突く勢力をことごとく殺し尽くし、「魔王」とまで呼ばれることになる男なのだが、美濃 の豪族たちの降伏を許してことごとくそれを吸収したことでも解る通り、この頃はその戦略に殲滅主義をとってい たわけではない。第一、抵抗する者を根こそぎ殺してゆくというのでは、織田家の勢力拡大に時間が掛かりすぎて しまうであろう。
信長は戦略を転換し、神戸氏を調略で降してしまおうとし、和睦の使者を送り、平和裏に織田家に属するよう勧
めることにした。
神戸友盛は、苦渋の決断を迫られた。信長の魂胆が神戸家の乗っ取りにあることは明白なのだが、抗戦してかな
うはずもない上、援軍のあてもないとなれば、どうしようもない。もしこの要求を突っぱねれば、桓武天皇から連
綿と続く平氏の名門 神戸家の家名が絶えてしまうであろう。武士らしく戦って潔く散るというのも一案ではある
が、大いなるものには従うというのが武家という渡世の宿命であるし、由緒ある武門の当主にとって、家名と血を後
世に存続させてゆくことこそが先祖から委託された最大の責務であることを考えれば、自分の代で家名を絶やすこ
とだけはしたくない、という想いも強い。
さて、神戸氏は現在の地名で言う三重県鈴鹿市の中央部から海側一帯を押さえていたのだが、鈴鹿市の西側から
亀山市にかけての山間部を押さえていたのが、関氏である。 (この手か・・・!)
神戸氏の誘降の成功で、信長は味を占めた。
信長は、安濃津(津市)の工藤氏にもこの手を用い、安濃津城を包囲し、これを攻め、軍事的圧力を掛けつつ
一方で和睦の交渉をし、弟の織田信包を養子として工藤家に送り込もうとした。 神戸氏、工藤氏が完全に織田家に組み込まれたことを受け、最後まで信長に降らなかった関氏の当主 関盛信も ついに事態を諦め、信長に降伏して織田家に降った。
信長はこうして、わずか3ヶ月ほどで伊勢の中部地方までもを完全に手中に収めることに成功したのである。
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