歴史のかけら


王佐の才

12

 大層なもんじゃ、と小一郎はあらためて思った。

 岐阜の城下――稲葉山の山麓に新築中の藤吉朗の屋敷である。
 敷地だけで、実に500坪。広壮な母屋と家来のための長屋が建ち、別棟の納屋に厩(うまや)までが板葺きの甍(い らか)を並べている。庭には根引きしてきた梨や柿、ムクなどの木が涼しげな木陰を作っているし、長屋の前に設け られた広場は足軽が調練できるほどの広さがある。

「その衣桁は私の部屋へ運んでください。そちらは、お義母さまのお部屋へ。あぁ、その櫃は食器ですから、勝手口 から中へ・・・・」

 襷を掛けた寧々が甲斐甲斐しく引越しの指揮を執り、木下家の下男や侍女たちが嬉々として動き回っている。主人 である藤吉朗が大出世を遂げ、何層倍も立派な屋敷へと越してきたわけだから、彼らとしてもこの栄転が嬉しくて仕 方がないのであろう。

(これほどの屋敷を持てるようになるとは、夢のようじゃな・・・)

 往時を思い出すと、小一郎にも多少の感慨がある。

 何処とも行方が知れなくなっていた兄の藤吉朗が10年ぶりに故郷の尾張中村にふらりと帰って来たのは、晩夏の 太陽がやたらと照りつける暑い日であった。汗と泥にまみれて田の雑草を抜いている小一郎の前に現れた藤吉朗 は――本人は故郷に錦を飾るような気分だったのであろうが――野武士か山賊かといったとても侍には見えない身 なりで、あばら骨が浮き出るほどに痩せた馬に麻布の鞍を置き、荒縄で作った鐙(あぶみ)に足を掛けて跨ってい た。出自が土百姓の息子ということを思えば馬に乗っているというのはそれだけで驚くべき出世ではあるのだが、 その身分と言えば足軽の組頭に過ぎず、禄は蔵米で(領地を貰うのではなく、米で給与を支給されていたという 意)わずかに25石。今にも倒れそうな足軽長屋に筵を1枚敷いて寝起きし、着る物はもちろんその日食う飯の 菜(さえ/副食)にも困るというなんとも情けない有様だったのである。
 あれから、わずかに6年――
 藤吉朗の収入はほぼ百倍にまで跳ね上がり、小一郎を筆頭に士分(馬に乗れる侍)20騎と歩卒80数人を家来として 抱え、信長から預けられた人数を合わせると実に千人近い兵の指揮を任されるほどの身分になっている。
 これは、乱世だからこそ起こり得た一種の奇跡と言うべきであろう。

「こないな立派なお屋敷に住まわせてもらえるんかね・・・」

 小一郎の傍らで呆然と呟いているのが、小一郎らの母 なか である。

 小牧から岐阜に住居を移すにあたり、藤吉朗は故郷の田畑を整理して正式に母を家に迎えるよう小一郎に指示し ていた。
 藤吉朗は、身内に対する愛の深い男である。なかでもこの母に対するそれは格別で、ちゃんと引き取って世話を したいと常々言っていたのだが、気楽な百姓暮らしを50年近く送っていた なか の方がまったく世間が違う武家の 生活を嫌がって故郷を離れたがらなかったから、今までは一緒に暮らすことができなかったのである。
 しかし、昔とは比較にならないほど身分が上がってしまった藤吉朗としては、世間の手前もあり、い つまでも「百姓の息子」でい続けるわけにもいかない。小一郎は自ら実家に足を運んでそのあたりの事 情を懇々と説明し、岐阜でも敷地の中に畑を作ることを条件にしてようやく母の重い腰を上げさせるこ とができたのだった。

「日吉は、またどえりゃぁ出世をしたもんやなぁ・・・」

「兄者は織田家の出世頭じゃでな。此度の美濃攻めでは、信長さまから直々に『功名第一』とお褒め頂いたほど じゃ」

「あの悪たれの日吉がなぁ・・・畏れ多いことやなぁ・・・」

 「日吉丸」というのは、藤吉朗の幼い頃の名前である。
 小一郎は詳しくは知らないのだが、幼い頃の藤吉朗は村では評判の悪童だったらしい。ひねくれ捻じ曲がった性 根の子供で、人の油断に付け入って悪戯では済まないような悪事をたびたび働き、村人を激怒させていたという。 母である なか はそのたびに肩身の狭い思いをさせられ、「何べん土下座してお詫びしたか、もう数えちゃおられ んほどだわ」と昔ぼやいていたことを小一郎は記憶している。
 しかし、

「もう日吉と言うとった昔とはちゃうぞ」

 小一郎は少し誇らしげに言った。

「今は、木下 藤吉朗 秀吉じゃ」

「小竹も、今は木下 小一郎じゃものなぁ」

「そういうこっちゃ。早うこっちの暮らしにも慣れてもらわにゃならん。母ちゃんに『日吉』、『小竹』と呼ばれて おったんでは、人に笑われるでな」

「秀吉殿、小一郎殿と、呼ばにゃぁならんかね?」

「武家ちゅうのはそういうもんらしいが、それじゃぁわしらの方がこそばゆいでイカンわ」

 わざと尾張訛りを丸出しにして、小一郎は笑った。

「呼び捨てにしてくれりゃぁええ」

 小一郎と藤吉朗は、この なか を母としてこの世に生を受けた。しかし、先にも述べたが、父親はそれぞれ別の人 間である。

 藤吉朗の父は弥右衛門という男で、若い頃は織田家で武家奉公をしていたらしいのだが、戦場で傷を負って不具 となり、武士を辞めて百姓になったのだという。縁あって なか と結ばれ、女と男の子をそれぞれ1人ずつもう けた。長男である藤吉朗に「日吉丸」という百姓の子としては立派すぎる幼名を付けたのは、自分はただの百姓で はないという矜持があったからか、あるいは長男の将来に多少の期待をしていたからなのだろう。弥右衛門は藤 吉朗がまだ幼い頃に病没したのだが、その当の本人でさえ、自分の息子がこれほど出世しようとは想像もしてい なかったに違いない。

 一方、小一郎の父親は、竹阿弥と言う。〜阿弥という名は一般に室町期に流行した時宗の信徒が使うもので、竹 阿弥は織田家で茶坊主をしていた男であったというから、頭を丸めたときに箔付けのつもりでそれらしい名を名 乗ったのであろう。お城勤めで小金を貯め、中村に多少の田畑を買って住み着いた竹阿弥だったが、そこがたま たま なか の家の隣家であった。夫を失い、子供を抱えて生活に難渋している なか を見かねたのか、村で世話を する者があり、入り婿という形で二人は夫婦になった。なか との間には一男一女――小一郎と妹とをもうけてい る。
 小一郎は、幼名を付けてもらった記憶がない。幼い頃から小竹、小竹と呼ばれていたのだが、今から思えばこれは 幼名などというような立派なものではなく、単に「竹阿弥の子」という意味だったのであろう。

 この竹阿弥という新しい父親に、思春期だった藤吉朗はまったく懐かなかった。懐かないどころか竹阿弥が家に 来てからというもの藤吉朗の傍若無人な暴れっぷりは手が付けられないほどになり、当然ながら竹阿弥の方も可愛 げのない厄介な継子を憎んだから、両者の関係は修復不可能なほどに反目した。小一郎はほとんど覚えていないの だが、間に立つ なか は辛かったであろう。藤吉朗は、一時は寺に預けられたりもしたのだが、ついには家を飛 び出した。これが、小一郎が10歳になるかならないかの頃の話である。
 藤吉朗がいなくなって数年――小一郎がいっぱしに働けるようになった頃、竹阿弥もポックリと流行り病で死ん だ。姉はすでに嫁にいっていたから、それからは母と妹と3人で、日が昇る前から日が沈むまでひたすら働いて、 爪に火を灯すようにして暮らしてきた。貧しくはあったが、百姓暮らししか知らない小一郎は別段それに不満や疑 問を持つことはなかったし、もし藤吉朗が現れなければ、今でも「尾張中村の百姓小竹」として土いじりを続けて いたであろうと思う。

 ところが、思いも寄らぬ形で因果は巡り、小一郎は今や多くの下男や下女にかしずかれ、これほどの屋敷に住ま うほどの身になってしまった。少しばかり感慨深い気分になるのも、無理からぬところであったろう。

 その小一郎の意識を現実に引き戻させたのは、傍らで額の汗をぬぐっている寧々だった。

「まったく・・・あの人も引越しのときくらいは帰ってきてくださればよろしいのに・・・」

 常に陽気なはずの寧々の顔に、いつもの精彩がない。

「いやいや、兄者も無論、気にしてはおるのですよ。しかしながら、わしと兄者が一緒に墨俣を離れるわけには いかないものですから・・・」

「それは解っておりまするが、ここの地鎮祭のときに一度顔を見せたきりで、近頃は前にも増してさっぱり家に 帰ってきてはくださりませぬ・・・・」

 寧々の顔に寂しげな影が差した。
 小一郎は、少し慌てた。

「いやぁ、兄者もあれで忙しい身なのです。この数年は、文字通り寝る間もないほどに走り回っておりました でな。しかし、美濃も織田家のものになりましたし、これからはこの屋敷で過ごす日も増えましょう」

 清洲の足軽長屋や小牧の屋敷で暮らしていた頃とは違い、藤吉朗が東美濃で伊木城の城代となって以来、この夫婦が共 に過ごせるのは、藤吉朗が信長の元に連絡のために帰った夜くらいのもので、せいぜい月に1度か2度、という風 になってしまっている。
 それにしても、小一郎が知る限り、寧々は藤吉朗に負けぬほどに陽気な性質(たち)で、他人においそ れと愚痴をこぼすような女ではなかった。

(よほどに、お寂しいのであろう・・・)

 ため息をつくような気分で、小一郎は思った。

 考えてみれば、寧々はまだやっと20歳である。いかにそれが武家の妻女の宿命であるとはいえ、夫の留守を家で ひたすら待ち続けているのでは、構ってもらえない寂しさから不満や鬱憤も溜まってしまうのであろう。

(子でもあれば、気も紛れるのかも知れんが・・・)

 この夫婦には、なぜかまだ子供ができない。1つの家庭に5、6人の子供がいるのが珍しくもないこの時代、結 婚後6年も経って子供が授からないというのは織田家中を見渡してもごく希な事例であった。「あの猿に人の子種 があってたまるか」とか「あそこの嫁御は石女(うまずめ)なのよ」などと心無い陰口が囁かれていることも小一郎 は知っている。
 しかし、こればかりは、さしもの小一郎もどうしてやることもできない。

「たまに義姉上も、墨俣にいらしてくださればよろしいのですよ」

「え?」

 寧々が、さすがに驚いたように小一郎を見た。

「・・・でも、女の私がそのような処に行くわけには・・・ご迷惑でしょう」

「いやいや、去年のことならいざ知らず、墨俣はすでに戦場ではありませんでな。端女(はしため/下女)なども雇 い入れておりますし、半兵衛殿などは妻女を呼び寄せて住んでおられるほどです」

 小一郎は、解っていて嘘をついている。
 確かに、墨俣砦はすでに前線の戦略拠点としての役割を終えており、その意味では女人禁制ということはない。 今は兵の駐屯基地になっているだけであり、炊事や洗濯など女性の活躍の場はいくらでもあるし、半兵衛の妻が、 岐阜の屋敷が完成するまでのほんの短い期間、砦の本丸館の半兵衛の離れ屋で寝起きしていたのも事実だった。
 しかし、それでも寧々は墨俣に行くことはできないのである。
 なぜなら、寧々は武将の妻であった。武将の妻子を信長がその膝元に置いておくのは、そこに「人質」という意 味合いが含まれているからであり、人質である以上、正当な理由なく勝手に岐阜を離れることはできないし、夫の いる砦に入るなどはもっての他であった。もし無断でそんなことをしたと知れれば、謀反の疑いを掛けられても 言い逃れができないほどの重罪になってしまう。
 それが解っていながら、なお、

「そうでなくとも、兄者は毎日、寧々よ寧々よと煩くてかなわなんだところなのですよ。この上は義姉上にお出ま し願うほかないと、実は思っておったのです」

 などと冗談めかして言っているのは、要するに寧々を慰めようとしているだけであった。

「朝になりゃ味噌汁の味が義姉上のものと違うなどと台所の者を困らせまするし、夜は夜で一人寝が寂しいの、義 姉上が恋しいのと、そりゃぁもう子供のようで・・・」

「まぁ、あの人がそんなことを・・・?」

 案の定、寧々は頬を少し赤く染めて笑った。

「兄者は義姉上が自慢の種ですからなぁ。酒に酔うた時なぞ、こっちが恥ずかしゅうなるほどの手痛い惚気ぶりで ・・・」

 小一郎は、藤吉朗の猿顔を真似、声を作って見せた。

「わしゃ分不相応な嬶殿をもろた。なぁ、小一郎、われでは逆立ちしてもあれほどの良え嫁御をもらうことはで きんぞ。あぁ、早う帰って二無き女房殿の顔を拝みたいもんじゃぁ」

 小一郎の猿顔が可笑しかったのであろう、寧々は腹を抱えて笑い出した。
 一緒になってひとりきり笑った後、

「兄者は明日、お城に登ることになっておりますで、夜にはこっちに帰って参りましょう。2、3日ゆっくりする よう言うておきますよ」

 と、小一郎は続けた。
 言いながら、

(どうにもわしは、損な役回りじゃな・・・)

 と、心の片隅で思ったりした。


 小一郎が墨俣に戻った翌日、案に相違して藤吉朗が早々と帰ってきた。

「なんじゃぁ、2、3日はゆっくり女房孝行してやってくれと言うておいたじゃろが」

 小一郎が不平顔で言うと、

「阿呆、それどころとちゃうわ。急いで広間に皆を集めよ、一大事じゃ」

 と、藤吉朗はせかした。しかし、一大事という割りに頬の辺りがニコニコと浮き立っているから、どうやら吉報を 持って帰ってきたらしい。
 小一郎が在城している主立つ家臣を大広間に集めると、勢い良く立ち上がった藤吉朗は首筋を真っ赤にして大声 を張り上げた。

「昨日、都にまします天子さまから、我らが主 織田尾張守(信長)さまに対し、畏れ多くもご綸旨がお下がりにあ いなった!」

 「綸旨」というのは、天皇の意思を表した書状のことである。
 並居る諸将は、一瞬 お互いに顔を見合わせた。いきなり「天子さま」などと言われても、野武士に毛が生えた ような墨俣砦の面々にとっては日常からはかけ離れすぎていたし、「綸旨」という耳慣れない言葉の意味も解らな いから、話がまったく見えなかったのである。

「思えば、我らが織田家は、万松寺さま(信長の父 信秀の戒名)の御世から、篤い勤皇のお家柄であった」

 と藤吉朗が言ったのは、付け焼刃の知識ではあったろうが、あながち嘘でもない。
 信長の父 信秀は、多くの遠隔地の大名がそうであったように天皇や朝廷といったものに対して素朴な憧憬の感 情を持っていたようで、たとえば天文10年(1541)には伊勢神宮 外宮仮殿の造営費を独力で負担してやっているし、 天文12年(1543)にはうら寂びれて修繕もままならなかった土御門内裏の修理費用として銭4千貫という常軌を逸した 巨額の献金をし、朝廷から表彰されたりしている。天皇、朝廷といった権威が失墜し切っていた戦国のこの時代に おいて、信秀の朝廷に対するこの入れ込みようというのは、かなり風変わりな話なのである。
 しかしながら、この亡父の酔狂のお陰で朝廷は織田家に対しては非常な好意を持っており、それが信長に対する 好意となって働いたことだけは疑いない。

「このたび信長さまに対して直接にご宸翰(天皇直筆の文章)が発給されたことは、まことに異例であり、織田家に とってこれほど名誉でめでたきことはない。畏れ多いことじゃが、ご綸旨の写しを信長さまから頂戴してきたで、 皆にもここで披露する」

 藤吉朗は懐から恭しく書状を取り出し、頭上に戴いて拝礼した。

「半兵衛殿、皆に読み聞かせてやってくだされるか」

「承知しました」

 藤吉朗の傍らに座る半兵衛は、丁寧に書状を受け取ると、はらはらと開き、低く落ち着いた声でそれを朗読 した。

「今度、国々本意に属するの由、もっとも武勇の長上、天道の感応、古今無双の名将なり。いよいよ勝ちに乗ぜら れるべきの条、勿論たり。・・・永禄10年11月9日。織田尾張守殿」

 これは、正親町天皇が信長に宛てて出した綸旨の前半部であった。この綸旨は、後半部で信長に対して美濃、尾張 両国の朝廷の領地を返還するよう書かれており、そう命じることこそが眼目だったのであろうが、そんな部分を信 長がわざわざ家臣に宣伝する必要はないから、自分を褒め上げている前半部だけを抜粋して書き写させたわけであ る。
 この綸旨で重要なことは、信長が美濃を手に入れたことを天皇の権威において正当化してくれたことであり、信 長を「古今無双の名将」と持ち上げた上、「いよいよ勝ちに乗ぜられるべき」――つまり、征服戦争を継続してど んどん領土を増やしてよい、というお墨付きを与えてくれたことであった。
 この手の綸旨を天皇が発給することは、これ以前にもままあったことなのだが、その場合、慣習として宛先は武 家伝奏か縁故の公卿の名を書くのが一般的で、今回のように宛名に信長の個人名を出したというのは極めて異例な ものであったらしい。正親町天皇は、これ以後、個別大名宛の綸旨を頻発するようになるのだが、何にしてもその 第一号が信長だったわけである。

「御大将!」

 一座を代表するようにして声を上げたのは、蜂須賀小六であった。

「こりゃ、要するに、天子さまが織田家の天下統一を望んでおられる、という風に解釈しても良うござろ うか?」

「さすがは小六殿! まさに御辺の申される通りじゃ!」

 藤吉朗はひときわ大声になって続けた。

「信長さまが掲げておわす『天下布武』の大目標は、畏れ多くも宸襟(天皇の御心)に沿い奉っておるっちゅう こっちゃ。織田勢の往くところ、仏天の加護はもはや疑いないぞ!」

 広間中を、無音の狂騒が駆け抜けているようであった。

(・・・なんちゅうどでかい話じゃ・・・!)

 大風呂敷も、ここまででかいと呆れるほかどうしようもない。
 小一郎は、胴が震えるような興奮を味わっていた。


 天運の巡りか、それともただの偶然か、この永禄10年の前後から、織田家には強烈な追い風が吹き始めて いるようである。




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