歴史のかけら
103昨年の早春、信長が上京の二条に新邸を造ったことを受け、藤吉朗が新たに持つことにした 装束屋敷である。元亀四年(天正元年)に信長が行った「上京焼き討ち」で半焼し、以来打ち 捨てられていた公家邸を買い取り、簡単な改修と増築を施して住めるようにした。
板壁で仕切られた敷地は広く、造りは簡素だが広壮な母屋と、渡り廊下で繋がった離れ、別
棟の長屋、納屋、厩(うまや)、土蔵などが甍を並べている。母屋と長屋だけで二、三百人は
寝泊りできるだろう。 天正七年(1579)二月下旬のある日――
半兵衛は離れの濡れ縁に独り座し、春のやわらかな陽を浴びながら、その老樹を眺めていた。 「願わくは 花の下にて 春死なん――」 西行法師の有名な歌がつい口をついた。 「そのきさらぎの 望月のころ・・・・」 如月(きさらぎ)は二月である。 (望月はすでに過ぎたか・・・・)
望月とは満月のことで、陰暦ではちょうど十五日にその月がのぼる。今夜の月は、もうすっ
かり欠けてしまっているはずだ。 (これは困った・・・・) 自嘲せざるを得ない。
京で療養生活を始めて以来、半兵衛は、生きることに対して張りを失っている自分に気付い
ていた。人の生が何かを成し遂げるためにあるのだとすれば、この京での日々は、「生きるた
めに生きている」ようなもので、一日でも長く生きるというそのこと自体が目的になってしま
っている気がするのである。 (播磨の桜は、すでに散ったであろうか・・・・) 呆然と桜を眺める半兵衛を現実に引き戻したのは、よく聞き慣れた声であった。 「殿――」 振り向くと、病間の入り口に近侍の伊藤半次郎という少年が控えている。 「曲直瀬道三さまがお見えにございます」 「あぁ――」 半兵衛は投げ出していた足をあぐらに組み、わずかに姿勢を正した。 「お通し致せ」 近侍が消えると、しばらくして廊下を渡ってくる足音と共に痩身禿頭の老人が飄々と離れに 入って来た。 「あぁ、半兵衛さん、起きていてよろしいのかな」 「今日は暖かいので――」 半兵衛は微笑と共に目礼した。 道三はお付きの弟子に履物を持って来るよう言いつけ、自身はそのまま病間を通り抜けて鴨 居をくぐり、庭に降りて縁に腰掛けた。この老人はこのとき七十二だが、足腰などはしっかり したもので、肌艶も良く、見ようによっては半兵衛などよりよほど元気そうである。 「確かに今日はええ陽気になりましたなぁ。あぁ、こう拝見すると、この前お会いした時より お顔の色もずいぶんと良うならはったようや・・・・」 柔和な笑顔を浮かべた老人は、「ちと失礼しますぞ」なぞと言いながら半兵衛の手首を取っ て脈を診、額に手をやって熱を診た。 「少し熱があるようですな。どこぞ痛いとことか具合の悪いとことかはございませんか?」 「いえ、これといって・・・・」 「喉や肺腑(むね)も?」 「はい」 「先ほど台所の者に聞いたんですが、あまりお食べになっておられんようですなぁ」 「食欲があまり湧かぬもので・・・・」 「それはいけません。医食同源と申しまして、食べることはすべての大本。健康な者でも食 べんと死ぬんです。病身の者が食べんでどうします?」 「はぁ・・・・」 「薬湯はちゃんと飲んでくださっておりますか」 「なるべく飲むようにはしておりますが――」 「なるべくでは困ります。きちんきちんと飲んで頂かねば」 「できるだけそのようにします・・・・」 半兵衛ほどの男を、まるで子供扱いである。
当代の名医として名高いこの老人は、正親町天皇や信長をはじめ高貴な方々の脈を診た
ということで戦国史上に有名だが、身分の上下にこだわることなく病苦に困っている人であれ
ば庶民でもその診療に応じるというごく気さくな人物であったらしい。上京の相国寺の近くで
「啓迪院(けいてきいん)」という診療所を開いていて、これは我が国最初の医学校としても
知られている。その門前は常に病人で溢れ、道三の医療技術と人柄を慕う何十人もの弟子がそ
の仕事を手伝いながら医学を学んでいた。道三に師事した医徒は、実に八百人を越えるとさえ
言われている。 道三は信長に随身して摂津に出向いていたのだが、昨年末に信長が安土へ帰ったのを期に京 に戻って来た。以来、啓迪院で病人の治療や後進の指導など多忙に過ごしつつ、その合間を縫 うようにして十日に一度は半兵衛の様子を見に来てくれている。 「まぁ、何にしてもお元気そうでよかった。やはりこれまでは戦陣の激務で、知らず知らずお 身体に疲れが溜まっていなさったんでしょう。ここでこうしてお静かにお暮らしあれば、病も 徐々に快方に向かうと思います」 そう道三は言ってくれたが、それが死病につかれた人間に対する医者の「優しさ」であるこ とを知っている半兵衛は、ただ曖昧に微笑を返した。 「あぁ、この桜、今年も見事に花をつけましたなぁ。いやいや、なかなか枝ぶりなぞもええ按配 で・・・・」 いま気付いたという風に老樹を見上げ、道三が目を細めた。 「私のような年齢(とし)になりますと、来年の桜は見れんのとちゃうかと、毎年毎年ちょっ とした覚悟をするもんでしてなぁ。・・・・願わくは 花の下にて 春死なん――」 その符合が半兵衛には可笑しかった。『万葉集』の昔から桜を詠んだ歌はそれこそ無数にあ るだろうが、桜を見れば西行を思い出すという人間は、この京には意外に多いのかもしれない。 だとすれば、日本人の心象風景にこれほど根強い印象を焼き付けた西行の言葉というのは、よ ほど偉大だと思ったりした。 「西行がお好きですか?」 何気なく尋ねると、 「西行さんの歌にはええなぁと思うものが多いですなぁ。ただ、西行さんという方はどうも好 きません」
老人からは意外な答えが返ってきた。 「それはどうした理由(わけ)で?」 「貴方(あん)さんは――どうやって西行さんをお知りになりましたかな。やはり『新古今和 歌集』で? それとも能の『西行桜』ですかな?」 「歌にせよ能にせよ、私は門外漢です。よく憶えているのは『源平盛衰記』や『吾妻鑑』に出て くる西行ですね」 「あぁ、そりゃ話が早い」 老人は肉厚い笑みを見せた。 「私はね、『吾妻鑑』の西行さんがどうも戴けない。歌はなんとでも詠えますし、能の筋は世 阿弥さんの作り話ですわな。ところが『吾妻鑑』の西行さんは、実際に西行さんがなさったこ と、言わはったことが書いてあるわけですやろ?」 「そうでしょうね。『吾妻鑑』は鎌倉幕府が編纂した歴史書です。誤記はあるでしょうし、意 図的な嘘がないとも言い切れませんが、西行の件(くだり)にわざわざ嘘を書く必要があった とも思えません」 「西行さんは若くして厭世出家し、その後は現世の名利を一切求めず、その生涯の大半を遊 行(ゆぎょう)に費やしたもんやと、私なんかは素朴にそう思うておったんですが――『吾妻 鑑』に出てくる西行さんを読んだら、なにやら生臭い感じが致しましてなぁ」
老人が指摘した件とは、西行が源頼朝に謁見した場面である。 「私の知り合いに佐藤の姓の方がおりまして――ホンマかどうかは知りませんが、西行さんと は遠い遠い縁戚に当たるんやとか――その方が、お酒を飲まはるたんびに憤慨しておりますん ですわ。西行さんが佐藤の嫡流を名乗るとは何事か、言うて・・・・」 「あぁ――『秀郷朝臣(あそん)以来九代の嫡家相承の兵法を焼失す』ですか・・・・」 言われて半兵衛はすぐに察した。
西行は、頼朝に向かって「自分は藤原秀郷から九代の嫡家の生まれで、その証拠に家伝の兵
法書を受け継いでいたが、出家するときに焼き捨ててしまった」と述べているのである。「自
分の家系こそが秀郷以来の佐藤氏の嫡流である」ということを、さりげなくアピールしたと言
っていい。 「その頃の頼朝さんといえば、今で言うところの右府さま(信長)のような天下人でございま しょう? 西行さんは、頼朝さんに取り入って佐藤の嫡流を奪い取ったんやと、その方は言わ はるんですな。義経さんのために死んだ佐藤兄弟があんまり哀れやと――」 「その方は佐藤兄弟の血統に連なる方というわけですか・・・・」 半兵衛が言うと、老人は大きく二回頷いた。 「奥州の佐藤氏は南北朝の頃に伊勢に移ったとかで――その方もお生まれは伊勢と言うとりま したが、まぁ、そのあたりは私にはどうでもええんですわ。佐藤氏の嫡流がどうなっとるのか もよう解りませんし、西行さんは『京に残った自分の家系こそが嫡流や』と信じておったのか もしれませんしな。ただ、そもそも西行さんは俗界と切れた出家の身でございましょう? 武 士の身分も佐藤の姓も、何十年も前に捨てなさったはずですわな。その西行さんがわざわざ頼 朝さんに会いに行って、歌道のことはそっちのけで武道の話ばっかり一晩中しておったわけで しょう。なんやこのあたりが、私には気持ち悪いんですわ」 「なるほど・・・・」 西行が真に孤高の歌人で世俗の名利に興味がなかったなら、時の権力者にわざわざ擦り寄る 必要はなく、自らの家系を粉飾する必要もなく、政治工作まがいの虚偽申告をする必要もある まい。まして、武家の棟梁たる頼朝を相手に、僧である西行が武道の話を一晩中したというの は、言われてみれば確かに違和感がある。 「西行さんは、歴代の天皇さんにたいそう愛されておったお人ですわな。後鳥羽さんの時に編 まれた『新古今和歌集』には百首近くも歌が選ばれて、西行さんの歌がもっとも多い。平氏に 担がれた高倉さんは措くとしても、その前の後白河さんいうのは今様とか和歌とかいった芸能 をたいそう偏愛したいうお人ですから、当然西行さんは目を掛けてもらったでしょう。この後 白河さんは、義経さんを取り込んで頼朝さんと喧嘩させて、共倒れを狙っておったというお人 ですな。武家の世を創ろうという頼朝さんにとれば敵も敵――頼朝さんは後白河さんを『日本 国第一の大天狗』なぞと揶揄したくらいです。後白河さんにとっても頼朝さんは不倶戴天の敵 や。その頼朝さんのとこで、後白河さんの息の掛かった西行さんが一晩も歓談しておったとい うだけで、なにやら想像を掻き立てられませんか?」 「確かに、疑えばいくらでも疑えますねぇ・・・・」 西行は、その僧の身分と歌人としての名声を利用して、後白河院の間諜を務めていたのでは ないか――と、老人は見ているらしい。 「私はね、『二足の草鞋』いうんが嫌いなんですわ。歌人は歌を詠んでおればええ、医者は病 人を診とればええ、という気質です。生まれは武家ですが、根っ子はたぶん職人ですな。西行 さんがホンマに孤高の歌人ならそりゃぁ偉いと思いますけど、西行さんて方は、もっとずっと 俗物やったんとちゃいますかなぁ。もちろん、歌は歌で別ですから、西行さんがどんな方であ っても、ええ歌はええもんやと思いますけど・・・・」 「歌を詠んでこその歌人、病人を診てこその医者――ですか・・・・」
半兵衛は呆然と呟いた。 (歌人は歌を詠み、医者は病人を診る――) ならば武士は―― (戦場(いくさば)にあってこその武士――か・・・・) 半兵衛の心中で、それまで形を得ずにわだかまっていた様々な想念が湧いた。
このまま京でただ死を待っていることに、どんな意味があるというのか。それで少しばかり
寿命が延びたとして、それが何だというのだろう。この人生の晩節、現世(うつしよ)に未練
を残すことなく、武士として生き切って死ぬには、自分は何をすべきなのか・・・・。 (これは私の我が儘だろうか・・・・)
労咳は人に移る病気である。自分のような病人が傍に居ては周囲は気を使うであろう。藤吉
朗にとってはかえって迷惑かもしれない。 武士は戦場にあってこそ―― (人生の先達(せんだつ)には、色々と教えられることが多い・・・・) 同じ死ぬなら、やはり戦場で―― 桜の老樹に目を向け、半兵衛は吹っ切れたように微笑した。 「話は変わりますが――」 「はい?」 「朝夕の冷え込みがもう少し緩んだら、播磨へ行こうと思います」 「何を――」 道三はさすがに驚いたようであった。 「とんでもない。お命を縮めることになりますぞ。筑前守さまからも、本復するまではきっち り養生させるようきつう言われております。医者としてお許しできません」 「道三殿に医者としてのお立場がおありのように、私にも武士として譲れぬところがある。 もう行くと決めました」 「これは・・・・・」 半兵衛の透き通るような微笑を見、道三は説得の無駄を悟った。 「弱りましたな・・・・」
武士がひとたびその死処を決めた以上、決意を変えさせることは不可能なのである。 「出立はいつごろのおつもりで?」 「次の望月のころ――ということにしておきます」 「・・・・それなら、今日からは二日に一度はこちらへ参ります。貴方(あん)さんの病にす ぐ効くような薬はあらしまへんけど、少しでも精をつけてもらわんことには、戦も何もないで すやろ。針と灸で気息と血の道を整えさせてもらいます。気休めにしかならんかもしれません が、尽くせるだけの手は尽くしておかんと、私の後生が悪い」 「お心遣い、ありがたく――」 半兵衛は威儀を正し、老人に深く頭を下げた。
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