歴史のかけら
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小一郎は、この正月を平井山の城で迎えた。
毛利方に寝返った御着の小寺氏はその動向が懸念されたが、姫路の黒田氏を怖れてかこれも大
きな行動は起こさなかった。
播磨第二の勢力である小寺氏でさえこの体たらくだから、他の毛利方の小豪族の動静は推して
知るべしである。 一方、藤吉朗は、真冬の寒風を冒して忙しく働きまわっている。
摂津にいる藤吉朗の手持ちの軍勢は二千ほどだったが、信長が加勢を付けてくれた(大和の筒
井順慶と、佐久間信盛、明智光秀の軍の一部)お陰で五千余にまで増えた。藤吉朗はこれを率い、
伊丹から武庫川に沿って北西に進み、摂津と播磨との国境(くにざかい)である有馬郡へと兵を
進めた。
この有馬郡一帯を治めていた豪族を、有馬氏と言う。播磨守護・赤松氏に繋がる名家で、荒木
村重が織田家の武将として摂津の旗頭になってからはこれに属していた。
ところで、有馬郡の西隣はすぐ播磨である。
話を戻すと―― ともあれ、こうして有馬郡を無血で手に入れた藤吉朗は、さらにこの周辺で織田に従わない 豪族の小城や砦を虱潰しに攻めた。有馬郡の西隣――播磨の美嚢(みの)郡 淡河(おうご)に は、三木城から荒木方の摂津花隈城へと到る陸路の補給線が繋がっており、これを潰すことは 三木城を封殺するためにも重要だったのである。
六甲山脈の西――丹生山(たんじょうさん)山系の山々には別所方の拠点がいくつもあり、
ことに丹生山山頂の明要寺は毛利氏が三木城へ陸路で兵糧を運び入れる際の中継基地と食料貯
蔵基地の役割を担っていた。これを守るために子飼いの僧兵はもちろん、一向門徒や近在の一
揆勢が二千人ばかりも立て篭っていたという。また、丹生山から一里ほど北には、淡河定範
が篭る淡河城がまだ無傷で残っている。 藤吉朗と小一郎が久々に顔を合わせたのは、一月の末だったと思われる。
三木城東方の糧道(補給線)を潰されてしまった別所氏は哀れであった。 「このまま城に篭ってばかりおっても埒が明きませんぞ!」 「一戦もせず、ただ飢えを待つは、敵の思う壺ではござらんか!」 などと別所氏の首脳陣を突き上げるようになった。
別所家の舵を事実上握っているのは別所長治の叔父・別所吉親である。この男は勝算のない
出戦には反対だったようだが、その思惑とは別に家中では主戦派の勢いが日増しに強くなって
いった。これを黙殺し続ければ、せっかく高まっている軍兵たちの士気を疎漏させることにな
るし、何より吉親が臆病風に吹かれたというような誤解を生まぬとも限らない。
吉親は当主の長治とも相談し、二月六日に羽柴軍に野戦を仕掛けることを決め、その前日に
軍議を開いた。 評定の冒頭、上座に座す別所長治がまず口を開いた。 「昨年、野口、神吉、志方、高砂などの城を落とされし事は、まったく士卒の咎(とが)では ない。ひとえにこの長治の謀事(はかりごと)と武運の拙さゆえである。今また当城、織田の 大軍に囲まれ、この難敵を相手にどのように勝利を得るべきか――この上は皆々の意見に任せ ようと思う。我に遠慮なく、考えのある者は申すべきことを申し、評定を尽くしてくれ」 この言葉を受け、広間を埋める群臣の最前列に座った別所吉親が声を上げた。 「明日の合戦、敵は我らに倍する人数である。この大敵に正面から挑むは、勇に似て勇に非ず。 無謀な戦立てにて大切な士を死なすは愚と言わねばなるまい。よって、謀事を巡らさねばなら ぬ」
と前置きし、己の作戦案を披露した。
が、血気にはやる別所家の武将たちはそれでは収まらない。 「これは山城守殿(別所吉親)のご存念とも思えぬ。そもそも古来より、戦は川を渡った側が 必ず勝つものじゃ。これはなぜかと言えば、戦は何より兵の気と勢いがものを言うからである と存ずる。川を勇躍して渡れば、弥(いや)が上にも気勢が上がる。この気勢をもって敵に当 たるを『気に乗ずる』と言う。お味方こそこうあるべきで、逆に多勢の敵に川を渡られるよう なことになれば、この城までが危うくなりましょう」
美嚢川は三木城の外堀というべき川で、この渡河を許すことは敵を懐に入れてしまうに等し
い。そういう小手先の消極策よりも、こちらから全軍で美嚢川を渡り、渡った勢いで堂々と敵
陣に攻め懸けるべし、というのがこの男の主張であるらしい。 これを聞いた吉親は、迷惑げに眉間の皺を深くした。 「不意に川を渡って攻め懸けて来た敵というのは確かに防ぎ難いが、それは要は敵に不意をつ かれたからで、味方にその備えがなかったということであろう。わしが申しておるのは、そう ではない。伏兵を埋め、敵にわざと川を渡らせ、これを討つ――元弘の昔、楠木正成(まさし げ)が敵をおびき寄せて渡部の川を渡らせ、須田、高橋などの勢を破ったのがこの軍略じゃ。 そもそも戦とは、将の優劣、兵の多寡、地理地勢、季節天候時刻など、毎度まったく勝手も流 れも違うものじゃ。一概に、川を渡れば勝ち、渡らずば負ける、なぞということがあるわけが ない」
吉親の悪癖で、この男は機嫌が悪くなると別人のように意地の悪い顔になる。声音にも表情
にも、発言した久米五郎を蔑(さげす)んだような色が露骨に出た。 「いやいや、我が先祖・久米 十郎左衛門尉 近氏が赤松上総介殿(義村)に仕えしより七十余 年、当国において数々の合戦あるといえど、我が一族が不覚をとった事は一度たりともござら ぬぞ!」 なぞと言わずもがなのことを口走ったのは、久米氏の武略の名誉を守るためであったろう。 「韓信の『背水の陣』の謀事も、要は川を背にすることで士卒に必死を悟らせ、心を決せしめ るためでござろう。川を渡って全軍に決死の覚悟を持たせ、心をひとつにして進めば、何ぞ怖 れることやある。これこそまさに必勝の軍略ではござらんか。東播八郡の大将たる別所が、天 下の兵をむこうに回して戦うこの合戦は、一世の耳目を集めるはもちろん、後々の世まで必ず 語り草となるでござろう。それほどの大戦に、小手先の謀略を巡らせたなぞと人に笑われるの は無念でござる。敵がたとえ我らの十倍の人数であったとしても、我らは勝敗を天に預け、た だ渾身の戦をするのみ!」 (何を馬鹿な・・・・)
吉親は呆れざるを得ない。
しかし、消極策と積極策を並べれば、常に積極策の方が華々しく、いかにも耳に勇ましく響
く。長く城に封じ込まれている篭城の士卒は、当然のように久米五郎の景気の良い言葉を喜ん
だ。戦意が高い者ほどその傾向は強く、吉親の消極策に賛同しようとする者は少なかった。 「――されば如何であろう、明日の合戦、全軍を二手に分け、一手は山城守殿が大将となって 敵の先手(先鋒)に懸かってくだされ。一手は小八郎殿(長治の弟・治定)を大将に戴き、我 らがこれにお供つかまつり、東の山の麓より羽柴が本陣に攻め登り、陣城に斬り込んで、一息 に羽柴秀吉の首を挙げてご覧に入れる」
と大見得を切ると、群臣は興奮で猛り立った。 「いやいや、潔し! 久米殿の申されるところ、まことに天晴れの手立てと存ずる。ご一同も これにご賛同あれ。なぁに、もしお味方が負けるようなことがあれば、その時はわしが敵の陣 中へ紛れ入り、敵将と刺し違えてご当家の恩に報じてみせる。羽柴秀吉さえ殺せば、たとえ負 けても損な戦にはなるまいよ」
などと放言したりした。 「兄上、わしに久米、清水らの兵をお預けくだされ。たとえ敵陣に屍を晒すとも、必ず羽柴め を我が槍に掛けてみせる!」
若殿のこの勇ましい発言で座は弾けたように盛り上がった。群臣は競うように治定の勇気と
気骨を褒め、治定が率いる突撃部隊に参加することを志願した。 上座からこの議論の成り行きを眺めていた別所長治は、弟と群臣に向けて静かに頷き、 「されば、明日は正々堂々、当方より敵に攻め懸かろう」 と実に爽やかに一決した。 長治にとって、大将とは、家中の武士たちの上に超然と乗り、彼らの象徴として常に美しく 誇り高くあるべきものであった。別所の当主に担がれた十二の頃から、常にそのように周囲か ら教育されてきた。その意味で、長治は生の人間というよりは別所武士団の統率の核たるべき 一個の「機関」であり、家中の衆議が一致して出した結論であれば、たとえそれがどんな暴論 であっても、どんな結果を招くものであっても、長治は泰然として首を縦に振ったであろう。 二月六日、別所軍は夜明けと共に三木城の城門を開き、打って出た。
先鋒軍は、別所吉親を総大将に、三人の侍大将と三人の足軽大将、七十二人の物頭(武将)
が加わり、総勢二千五百騎であったと『播州太平記』に書いてある。が、一騎の武者に五人の
雑兵がつくとすれば総数は一万を遥かに越えるから、これは二千五百人と解釈すべきだろう。
騎馬武者はせいぜい五、六百騎、足軽雑兵まで含めても三千ばかりでなかったかと思われる。 この大軍が続々と美嚢川を渡り、平井山の正面に堂々と布陣する様を、藤吉朗は山頂の城頭 から見渡している。 「別所が城から出て来てくれるとは、こりゃ天佑じゃ。この方よりも打って出よ」
藤吉朗にはもとより篭城戦をするつもりなどはない。せっかく敵が出て来てくれたのを幸い、
野戦でこれを大いに破ってやるつもりであった。差し当たり平井山にあった五千ほどの軍勢の
うち三千を先手として駆け出させ、残る二千を山の中腹から麓に布陣させた。高所から戦場全
域を俯瞰しつつ、采配を振ろうというのである。同時に三木城の西方や南方を包囲のする各部
隊にも連絡し、そこから二百、三百と軍勢を引き抜いて別働隊を作り、敵が三木城へ帰るため
の退路を断つ形で伏兵になるよう命じた。 別所軍の先鋒大将である別所吉親は、この出戦に対して乗り気ではない。馬鹿げた戦と思っ ていたに違いないが、戦場に立ってしまえばそこは武士である。 「播州武者の弓矢の意地を見せるはこの一戦ぞ! ものども、懸かれや!」 先鋒軍を叱咤し、山を駆け下って来た羽柴軍と激突した。
この主戦場は、序盤は別所軍が優勢であった。別所吉親は老練の武将であり、戦場経験に不
足はない。別所軍の武士たちの奮戦も凄まじく、名門・別所の名に恥じない働き振りを見せた。
これに対して羽柴軍の軍兵たちは功に逸ってか統率を欠き、それぞれの武将が自侭に敵と戦っ
ているような状態である。勝手に突撃し、あるいは銃撃し、崩されたと見るや勝手に退却する。
三千対三千の戦いではあったが、別所方の統率された動きとは雲泥の差で、徐々に圧倒される
形勢であった。 (この程度のことを秘策にして戦をやっておるのか・・・・) 篭城に徹する別所軍がわざわざ城を出て野戦を仕掛けてくる以上、当然なんらかの策略を持 っているとは思っていたが、要するに正攻法である。奇策があるわけでなく、その戦の素朴な 田舎臭さを好意的に思うだけの余裕があった。 「敵は味方と駆け違い、我が本陣を狙ってくるぞ! これで戦は我らの勝ちと決まった!」 藤吉朗は持ち前の大声で天に届けとばかり叫んだ。 「その理(わけ)は――見よ! 彼我の間、十丁(約一キロ)ばかりもあるに、しかも敵は険 阻を登り来ねばならん。戦う前に人馬は疲れ、息は乱れ、備えはしどろに崩れるは必定!」 武者の鎧兜というのは武具や装具まで含めると三十キロ以上の重さがあり、これをつけて走 ればその疲労は並ではない。まして険阻な山道を登って来るとなれば、実際に白兵戦に入る頃 には戦闘どころではなくなっているであろう。 「それまで敵を引きつけ、味方は一時に堰(せき)を切ったように駆け下り、嵩(かさ)に掛 かって切り崩せば、我らの勝利は疑いない! ものども、今日の戦は手柄の立て得ぞ! 気張 って功名せい!」 藤吉朗の周囲でこの声を聞いた軍兵たちは勇み立った。
別所治定を大将とする別所軍の突撃隊は、ほとんど一キロの道のりを全力疾走で駆け抜け、
平井山の山裾に取り付き、そのまま山を駆け登り始めた。平井山の正面では両軍の先鋒軍同士
が戦っており、主戦場の東を迂回した突撃隊は、位置的に小一郎が布陣する与呂木山に取り付
いたことになる。ここから峰伝いに平井山本陣をつくつもりであったのだろう。 「懸かれぇ!」
と叫んで全軍に白兵突撃を命じた。
ともあれ、合戦の推移は藤吉朗の読み通りになった。
哀れだったのは大将に担がれた別所治定である。 久米五郎と清水弥四郎は、己の広言を忘れていない。味方の敗軍が定まると、羽柴軍の兵の 死体から旗指物を奪い、味方の死体から首を取り、それを太刀先に刺して羽柴軍の軍兵の中に 紛れ込み、 「大将はいずくにおわすや! 首実検をお願い申す!」 などと叫びながら平井山本陣を目指した。藤吉朗の暗殺を企てたわけだが、やがて露見し、 藤吉朗の旗本を相手にさんざんの奮戦の末に討ち死にした。
突撃隊の敗軍は、主戦場の別所軍の心理にも大きな影響を与えた。突撃隊が崩れて四散し、
平井山に布陣してこれを打ち崩した羽柴本軍が主戦場に雪崩れ込むと、形勢は一気に逆転した。
別所軍は狼狽し、左右の備えが次々と崩れ、収拾がつかない。 この日、別所軍の戦死者は八百余人にものぼったという。これは割合で言えば全軍の五人に 一人が死んだ計算であり、この時代の野戦の常識ではあり得ないレベルの大損害であった。別 所軍がいかに凄まじく戦ったかを歴然と物語る数字だが、それにしても痛恨の敗戦と言わねば ならない。 「こ、小八郎が死んだか・・・・!」
弟の訃報を聞かされた別所長治がどんな感想を漏らしたか――史書はそれを書き残してはい
ない。 『播州太平記』はこの敗戦を惜しみ、「別所長治は、勇士ではあったが若い大将であったが ゆえに別所吉親の上策を用いず、血気にはやる久米、清水らの無謀の軍議に固く同心してしま った」と書いている。同書は「史書」というよりは「読み物」だが、事実もそれに近い状況で あったかもしれない。ただ、筆者は、「若さゆえ」というよりは、「軍議でそう決まったから」 こそ長治は同意したのだろうと思っている。
軍事と外交において英明な君主の独裁が必要なこの時代、群臣の気分でその舵取りをするほ
ど愚かなことはない。たとえば半兵衛のような人間が若い長治を補佐・教導していたとすれば
播磨の戦国史はまったく違った展開を見せていたであろうが――
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