歴史のかけら
101
病身にはきつい長旅である。 「松寿を亡きものにせよと・・・・!」
話を聞いた七郎左衛門は声を落とし、深刻そうに眉根を寄せた。 「むごいのぉ・・・・」 この老人は嘆くように何度も言った。
松寿丸は藤吉朗の一門の子供たちや他の人質の子弟などと共に長浜城の奥で暮らしている。当
然だが、奥の宰領者である寧々に話を通さねばならない。 「あぁ、半兵衛殿、しばらくぶりですね」 久々に半兵衛を見た寧々は、そのやつれ振りに驚いたようであった。 「ずいぶんお痩せになりましたね。あの人がご苦労をお掛けしているのでしょう」 申し訳なさそうに表情を曇らせたので、 「奥方さまは、また肉(しし)置きが豊かになられましたようで――」
半兵衛はわざと軽口で返した。 「お身体――どこぞお悪いのではないですか?」 真剣な口調で訊いた。 「お気遣い、ありがたく存じますが――私の虚弱は生来のものにて、昨日今日始まったもので もありません」 「そうですか・・・・。此度の帰国は、少しはゆるりとできるのですか?」 「国許(こちら)での用が済みましたら、京でしばらく静養するよう殿から命ぜられました。殿 にはご心配ばかりをお掛けし、かえって申し訳なく思うております」 半兵衛は、あらためて藤吉朗の消息、摂津や播磨の政情、先の見通しなどを寧々に語り、さ らに本題に入った。言い出しにくいことではあったが、官兵衛が有岡城で消息不明となったこ と、それに続く信長の命令と自身の帰国の趣旨などを正直に伝えた。 「お松を――」
寧々はほとんど呆然と呟いた。 「殺すのですか・・・・」 さすがに寧々も戦国の女であり、取り乱すことこそなかったが、その表情に濃い哀情と憐憫の 翳が浮いた。
ここまでのやり取りは、半兵衛の隣に座る七郎左衛門はもちろん、廊下で控える寧々の侍女、
次室にいる小姓などの耳にも当然聞こえている。 「私には黒田官兵衛が裏切ったとは思えません。いま松寿殿を殺してしまえば、後々取り返しの つかぬことになるのではないかと危惧しておるのです。他聞をはばかることですが――上様には 始末したと報告し、事の実相が分明致すまで松寿殿を隠します」
寧々は肝が据わった女である。さほどには驚かなかった。 「その事は、あの人は存じておりますか?」 と質問した。 「そのようにする、と、しかと伝えたわけではありませんが――お察しくだされてはおりましょ う。ただ、これは私が一存で為すことにて、殿はご存じなかったとしておく方が都合がよろしい かと・・・・」 「お松の父なるご仁は、信頼できる方ですか?」 「官兵衛は信じるに足る男です。そのことは私が請け合います」 「・・・・わかりました」 寧々はきっぱりと言った。 「半兵衛殿のお言葉を信じます。よきようになさってください」 「ありがとうございます」 半兵衛は深く頭を下げた。 「この事をお耳に入れたのは――奥方さまに、後のことをお願いしておきたかったからです。 武士として戦場にある以上、私もいつ命を落とさぬとも限りません。有岡城が落ち、官兵衛に 罪がなかったと分明しましたる時、私が生きておれば良いですが、もし死んでおったとすれば、 松寿殿の身が宙に浮いてしまいますので・・・・」
半兵衛の妻では信長との縁が薄すぎる。官兵衛の無罪が証明された時、松寿丸の生存を信長
に伝え、その罪の許されるよう取り成してもらうには、信長に愛されている寧々から口をきい
てもらうというのが最適であろう。 「お引き受けしました。ただ――私(わたくし)には出番はないものと思っています。官兵衛 殿の身の潔白が明らかとなった時には、半兵衛殿ご自身が上様にお詫び申し上げるのがおよろ しいでしょう」 「はい。私もそのつもりでおります」
そこで半兵衛は、總持寺で謁見した信長の様子を話した。 「あるいは上様も、私の肚を見抜いておられるやもしれません」 と言うと、寧々は頷いた。 「そうかもしれませんね・・・・」 信長ほど人を見抜くに鋭い男もないのである。 「上様のことを悪鬼や魔王のように言う方もあるようですが――あのお方はお若い頃から、ご 自分にも厳しく、他人(ひと)にも同じように厳しいというだけなのだと思います。少し天邪 鬼なところもおありですし、ひとたびお怒りになられるとそれは荒神(あらがみ)のように怖 ろしいですけれど――本当は思いやりのある、お優しい方です。愛憎は紙一重と申しますでし ょう? 上様は、きっと、常の人よりもずっと情(じょう)深くお生まれになったのでしょ う」 愛することも憎むことも、常人の数倍のエネルギーでそれを行うのかもしれない。 「なるほど・・・・」 こういう信長評を聞くのは半兵衛にしても初めてである。女性ならではの見解と言えそうだ が、頷けるところがないでもない。
ただ、地位が人を作るということがあるように、地位が人を壊してしまうこともままあると
いうことを半兵衛は知っている。絶対的な権力を握った人間というのは容易に人格を持ち崩す
ものであり、特にその老後――精神にある種の張りを失った時――抑制のタガが外れ、自己が
どこまでも肥大化し、人変わりしたように醜悪な所業に手を染めてしまうという例が実に多い
のである。古今東西の覇者の歴史がまさにそれを証明している。 (幸か不幸か――私はそれを見届けることができない・・・・)
諦念と共に、半兵衛はそう自覚してもいるのだった。 「どうかお身体をお労りくださいね。半兵衛殿が傍にあってくれるだけで心強いと、あの人はい つも申しておりました。半兵衛殿には、これからも長くあの人を支えてやって頂きたいのです」 と寧々が言った。 「お言葉、ありがたく肝に銘じます」 半兵衛は目礼し、城を下がった。
さすがに身体がひどく疲れている。
半兵衛が書院で待っていると、黒田家の家臣二人に付き添われて松寿丸が現れた。 「あぁ、松寿殿、しばらくお会いせぬうちにまた大きゅうなられましたな」 会うのは一年ぶりである。 「お久しぶりでございます。またお目にかかれて嬉しゅうございます」 何も知らぬ少年は、半兵衛を見ると利発そうな目を輝かせ、膝を揃えて座ると礼儀正しく挨 拶した。いかにも腕白坊主といった利かん気の強そうな顔である。子供のわりに体躯が立派で、 たとえば相撲などを取らせると子供たちの中でも一二を争う強さなのだという。 「松寿殿はよう学ばれておりますか?」 半兵衛は柔和な笑みを浮かべ、少年の背後に控える二人の武士に尋ねた。松寿丸の守役とし て姫路からついて来た者たちで、名は井口と大野といったはずだ。 「日々よう励まれておりまする。若様は文事より武事がお好みのご様子で――」 年かさの井口兵助が答えようとすると、 「弓と太刀と槍を、毎日修練しております。馬にも乗れるようになりました!」 語尾をむしり取るように松寿丸が大声で応えた。 「それは重畳。・・・・ですが、文事を疎かになされては、父御(ててご)のような立派な武 士にはなれませんぞ。松寿殿は、末は黒田家の大将――文武両方の道に励まれねばなりません。 そのことをお忘れあるな」 「はい!」
少年の返事が実に良い。 「実は、松寿殿に他へ移って頂くことになりました。明日、長浜を発ちます。そのおつもりで 今日のうちに身の周りを整理し、支度を済ませてください」
半兵衛の言葉に、二人の武士の顔が強張った。 (半兵衛殿は死の使者ではないのか・・・・) と疑ったのも当然であった。 「どちらへ行くのでしょうか?」 若い大野九郎左衛門が急き込むように尋ねた。 「詳しいことは、また道々お話します。出立は明日の夜明けとしましょう。そのおつもりで支度 をなされよ」 口調は優しいが、半兵衛の言葉には反論も質問も許さぬ強さがあった。
翌日、一行は長浜を発った。
進路は東である。 (安土にでも向かうのかと思うたが――行き先は美濃か尾張か・・・・?) 二人は首をひねった。 「あの遠くに長く南北に横たわるのが伊吹の山々。あれなる手前の小山が横山と申し、横山 城があります。まだ湖北に浅井氏があった昔、筑前殿と私たちはあの横山城にて浅井長政殿 と戦うておりましてな――」 傍らを歩く少年に、半兵衛は気さくに話しかけ、 「地理地勢を知っておくこと、道がどこからどこへ続いてゆくかを心得ておくことは、武将 にとって大事なことです。知らぬ土地を歩く時は、常に心に留められよ」
などと教導したりしながら歩を進めてゆく。 「松寿殿、お疲れではないか?」 「はい。平気です」
松寿丸は笑顔で即答した。 「あと一刻も歩けば、私の故郷です。不破郡(ふわのごおり)岩手村と申し、菩提山という山の 麓にある」 「半兵衛殿――」 ここまで黙って従って来た大野九郎左衛門がたまらず声を上げた。 「そろそろどちらへ向かっておるのかお明かし願えませぬか」 「ですから、不破郡岩手村――私の故郷ですよ」 「半兵衛殿の・・・・?」 「松寿殿には、世からしばらく消えてもらわねばなりません」
そこで半兵衛は、ようやく自分の意図を一行に明かした。 「――ですから、松寿殿はすでに長浜で死んだことになっています」 「では、半兵衛殿は安土さまを謀ってまで若様を・・・・!」 井口と大野は激しく感動した。 「ご窮屈ではあろうが、松寿殿はしばらく菩提山の城でお暮らしくだされ。そこに伊藤半左衛 門と申す信頼できる老臣がある。その男に万事申し含めておきますから、安堵なされよ」
松寿丸――後の黒田 甲斐守 長政は、この時受けた衝撃と半兵衛の厚情を生涯忘れなかった。 一行はその夜、人目をはばかりつつ岩手村に到り、菩提山の城に入った。
幼い身に遠路はこたえたのであろう。松寿丸は食事を取るとすぐに寝入ってしまった。 「有岡城が落ちれば、官兵衛殿の事については実相が知れましょう。その身が潔白であれば、 松寿殿を再び世に戻します。しかし、万一、官兵衛殿が二心を抱き、荒木殿に同心して毛利方 に合力しておったとすれば――」 「主君(あるじ)はそのような男ではありませぬ!」 若い大野九郎左衛門が叫ぶように言った。 「私もそう信じています。なればこそ、このようにしている。ですが、物事に絶対ということは ありません。まず聞かれよ」 半兵衛は噛んで含めるように言った。 「官兵衛殿が織田を裏切っておったとすれば、私は自らの不明を一死をもって安土さまに詫びね ばなりません。哀れですが――松寿殿も世には出せぬことになる。その時は、すでに死んだこと になっておるを幸い、寺に入れて僧になさるのがよろしいかと思います」 世を捨てて僧籍に入ってさえおけば、万一生きていることが露見したとしても、おそらく信長 も命までは取るまい――という意味のことを半兵衛は続けた。 「世は常に動いてゆきます。生きてさえあれば、先々どうなるかは解らない。十年、二十年 先――たとえば松寿殿が還俗して武士に戻り、黒田家の采配を握る日さえ来ないとも限りません。 ですから、決して急(せ)くことなく、お二人には慎重に事を処して頂きたいのです。松寿殿の 成長を陰から見守り、世が変わるのを待たれては如何かと――もちろん、これは万が一の時のこ とですが・・・・」 二人はあらためて半兵衛の思いやりとその深慮を知り、涙を流して平伏した。 「お命を賭けてまでのご厚情・・・・! 我ら、もはや感謝の言葉もありませぬ!」
年長の井口兵助が嗚咽(おえつ)をこらえつつ言った。 「かたじけない、かたじけない」 と土下座しながら叫ぶのが精一杯である。 「半兵衛殿のお言葉に従いまする。このご恩は、黒田の者は末代までも決して忘れませぬ!」 それを聞いた半兵衛は首を振り、微笑した。 「私は何も恩を売るために為しておるのではありません。私を動かしたものがあるとすれば、そ れは官兵衛殿の徳と申すものだ・・・・」 わずかに顎を上げ、中空を遠い目で見詰めた。 「ハキとせぬことは口にすべきではないが――私はなぜか、官兵衛殿が生きておるような気がし てならぬのですよ」 人にはそれぞれ天命というものがある。官兵衛が、天から与えられた役割をまだ全うしておら ぬなら、天は官兵衛を生かすに違いない。 (私の命が病で尽きるとすれば、それも天命――天から振られた私の役割が終わったということ なのであろう・・・・) そう考えれば、半兵衛が松寿丸を生かそうと決意したことも、あの少年の天命の為せるわざな のかもしれない。生きてこの世でせねばならぬことが、松寿丸の未来にはきっとあるのだろう。 (松寿が生きるのも、つまりは天命なのだ・・・・)
孔子は七十三年の天寿を生き、「五十にして天命を知る」と言った。
天正六年(1578)も暮れ、すでに十二月に入っている。 「いやいや、そのままそのまま。よいのだ。わしに気など使うな」
笑顔でそれを制し、半身を起こした半兵衛の傍らにどかりと座った。 「いやぁ、京の冬は相変わらず底冷えがひどいのぉ。これ、もっと火鉢に炭をくべよ。ケチる ことはないのだ。炭ならいくらでも届けさせるで、この離れのみは常に春のように暖かくして おけ」 などと半兵衛の近侍を陽気に叱った。 「実は明後日、再び播磨に下ることになってな。しばらく京には来れぬやもしれんで、半兵衛 殿の顔を拝んでおこうと思い立って、こうやって来たという次第じゃ。――あぁ、播磨のこと なら心配はいらんぞ。別所は相変わらず城に篭って出て来んと、小一郎の手紙(ふみ)に書い てあった。上様はわしの播磨入りにあたり兵糧、矢弾などを合力してくだされたし、右衛門 殿(佐久間信盛)、日州殿(明智光秀)らの兵を加勢につけてもくだされたで、三木城の戦も これでずいぶん楽になるじゃろう」
半兵衛は思わず微笑した。 「『播磨に行くついでに有馬も攻めよ』と命ぜられてしもうたで、すぐに播磨に入れるっちゅう わけでもなさそうやが、まぁ、そっちは何とでもなるわ」
信長の人使いは相変わらず荒いらしい。 「して、身体の方はどうじゃ」 「はい。もうずいぶん良いと思います」 「上様のご典医である曲直瀬(まなせ)道三殿に話しておいたが、ここへ来たか?」 「ご子息の玄朔(げんさく)殿が何度か参ってくださり、薬湯なども煎じて頂きました」 「それは重畳」 藤吉朗は満足げに頷いた。 「わしの母ちゃんなぞは、灸さえ据えればどんな病でも治ると信じておるらしゅうてな。わし が風邪でもひこうものなら、灸を据えよ据えよと今でも煩く言うて来るが、半兵衛殿の病には、 さすがにそれでは済むまい。曲直瀬殿は当代きっての名医と聞いておるで、そのご子息であれ ば腕は確かであろう。申しつけをよう聞き、病が治り切るまで十分に療養に努めてくだされよ」 その言葉に真心がこもっている。 「日々美味いものでも食い、まずはゆっくりと身体を休めることじゃ。決して急いではならん ぞ。気長に治せばよいでな」 「ありがとうございます」 その心遣いが半兵衛は嬉しかった。 「何なら、国許から妻女を呼んではどうか。むさい男手でばかりでは看病も行き届くまい」 家来の妻子が城下で暮らすのはそこに「人質」の意味合いがあるからで、この提案は異例で あり、藤吉朗の格別の配慮と言えたが、半兵衛は静かに首を振った。 「私の病は人に移るといいます。妻までこの病に掛かれば吉助が困りましょう」 吉助――半兵衛の一人息子――この時まだ六歳である。 「殿のそのお気持ちだけ、ありがたく頂戴しておきます」
半兵衛と藤吉朗は、久しぶりに主従水入らずでしばらく話をし、夜食を共にした。 藤吉朗はそのまま京屋敷で泊まり、翌朝、夜明けと共に再び摂津に戻って行った。 「京の朝夕は冷える。見送りは無用じゃぞ」 と前夜に釘を刺されたが、半兵衛は衣服をあらためて玄関に立ち、藤吉朗の門出を寿ぎ、 一行が見えなくなるまで門前で見送った。
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