歴史のかけら


合戦師

 三河に起こった一向一揆について、この稿では書こうとしている。
 そのためにはまず、一向宗というものについて、読者に知っておいてもらわねばならな い。

 一向宗というのは、戦国初期から全国に爆発的に広まった宗教である。浄土真宗、真宗、 本願寺宗、あるいは単に門徒宗などとも呼ばれ、「南無阿弥陀仏」という声明を唱える。
 普通、仏教では、人は修行し、悟りをひらくことではじめてホトケになれるのであり、救 われるということになっている。その意味で、人は自分の努力によって救われるかどうか が決まるのであって、「絶対に救われる」などといった保証はどこにもないのだが、しかし、 一向宗はそうではない。
 一向宗の教義は、その本質において、むしろ一神教――たとえばキリスト教など――に近 い。
 一向宗では、人は「絶対に救われる」のである。
 すべての人々を救うことが真如(宇宙の真理)である阿弥陀如来の「本願」であり、この 阿弥陀如来の「絶対愛」にかかれば、どんなに逃れようと抵抗しても、必ずひっ捕まって救 われてしまう、というのが、一向宗という宗教が説く「世界観」であった。

「無限の慈悲を持つ阿弥陀如来は、罪深い者には、より深い慈悲を与えなさるはずである。 善人でさえ救われるのだから、悪人が救われないはずがない」

 と、親鸞聖人の言葉を集めた『歎異抄』にある。
 この一向宗の教義にかかると、阿弥陀如来の前では、農民も樵も商人も武士も、大名さえも 同列であり、「御同胞・御同行(共に仏の真理を探求する仲間)」ということになってしま う。
 この時代までの仏教というのは、上流階級や知識人のみが独占するものであり、いわばイ ンテリの知的遊戯であった。しかし、一向宗は「庶民」に根を張ることで爆発的に広がった。人々は、生まれて初めて「世界観」を与えられたのであり、この新鮮な衝撃は、末世的な戦 国乱世の世相ともあいまって、庶民に圧倒的に支持された。

「南無阿弥陀仏」

 と唱えて死ねば、必ず成仏し、「浄土」へと招かれ、輝かしい来世が約束されるのであ る。人々は、僧が語る「世界の仕組み」を心の底から「そういうものだ」と信じた。
 いや、信じたかったのであろう。
 苦しい現在の生活を精神的に支えるために、安らかな浄土を夢に見たかったのである。

 三河は、この一向宗が非常に強い勢力を持った地域であった。
 考えてみればそのはずで、三河は今川家によって支配され続けていた。三河の人たちは、 普段は犬猫のように扱われ、収穫は略取され、戦場では石ころのように使い捨てにされ、 消耗品のように殺され続けてきた。人々が、心の救いを別の次元の「原理」に求めたとし ても、誰も笑えないような環境だったのである。


 ことの発端は、家康が、兵糧を供出するよう本願寺の寺院に要求し、それに応じぬ寺院領から 無理やり収穫物を奪ったことであった。

 この時代の宗教というのは、一面で「国」といえる存在である。寺院ごとに領地を持ち、 そこに住む領民を支配し、領地での税収権、警察権、裁判権などを持ち、たとえその国の大 名といえども勝手にこの権利を侵すことはできないことになっていた。
 家康は、三河を武力統一するために、あえて、この中世から続く寺院の既得権を侵害するこ とにしたのである。
 しかし、寺院側の反発は、家康の予想を超えて凄まじかった。
 寺院側はすぐさま門徒に大動員を掛け、三河各地の門徒に蜂起を呼びかけ、たちまち数千人 という武装集団を作り上げた。しかも驚くべきことに、鳥居・阿部・榊原・酒井・伊奈など、 家康の家臣団の中枢を担うような連中や、家康と同じ松平一族の中からもこの動員に応じる 者が続出し、家康に敵対してしまったのである。

「岡崎の殿さまとあなたの縁(えにし)は一代限り!」

 と、本願寺の僧たちは説いた。

「しかし、阿弥陀如来とあなたの縁は未来永劫続くのです。仏を守るこの戦いに参じなければ、 仏罰はてきめんに下り、必ず、お浄土へ逝くこと、かなわなくなるでしょう」

 強固な団結力と比類ない忠誠心で他国にまで知られた三河の武士たちといえども、極楽 往生をしたいと願う者ならば、僧が説くこの新しい「原理」には靡かざるをえなかった。
 慌てた家康は、やむなく本願寺側に使者を送り、要求を撤回することで和睦しようとし た。しかし、一揆という異常事態に狂い立った本願寺側の武士たちが、家康の使者を切り殺 し、その首を家康に送り返すという前代未聞の蛮行をやってしまった。

「たとえ敵の将であっても、使者は殺さぬのが軍陣の作法ではないか!」

 さすがの家康も、この本願寺側の増長には激怒した。

「もはや許さぬ!! 三河から一向宗の坊主どもを根絶やしにしてやるわ!!」

 家康は、徹底抗戦の腹を決め、主立つ本願寺寺院に対して砦を設け、これと戦う構えを見せ た。しかし、事態はそれだけで収まらなかった。
 家康の急激な膨張政策に不満を抱いていた地侍や国人、さらに家康に屈服して息を潜めてい た元今川家の被官たちがこの門徒一揆に呼応し、三河全土を真っ二つに割った大戦の様相を 見せ始めたのである。


 三河中が、火のついたような騒ぎになった。
 平八郎は、宗家の“平八郎”の名で自邸に一族とその全家臣を集めると、漆黒の鎧に 鹿角の兜、家康拝領の“蜻蛉切”を携えた姿で一同の前に立った。

「母者、よろしいな?」

 背後に立つ小夜は、無言で平八郎に頷いてみせた。

「我が本多家は、先祖以来、熱心な一向門徒であった! しかし、わしは今日より、門徒であ ることを捨てる!」

 一座が、一瞬静寂に包まれた。戦場でさえ動じることのない屈強な男たちも、平八郎のあま りの決断に呆然としたようであった。

「わしは、死を恐れぬ。地獄も恐れぬ。三河者が恐れるは、ただ殿さまの下知(命令)のみ ぞ!」

 気迫を込めて大喝した。

「わしは今日より、殿さまが信心なさる浄土宗に宗旨替えをいたす。みなも、信心はそれぞ れにあろう。このことは、無理強いいたさぬ。しかし、この先も門徒であらんと思う者は、 今この場で本多家を去れ!!」

 一揆騒動が起こって以来、平八郎は小夜と、このことは話し合い続けていた。
 父祖以来の信心を守るか、殿さまの元で忠義を全うするか――
 平八郎にすれば考えるまでもないことであったが、すべての人の心が同じでないであろう ことは、少年の平八郎にもよく理解できていた。

「鍋! ・・いや、平八郎殿! よう申された!!」

 はったと膝を打ったのは叔父の忠真であった。

「本多の“平八郎”が申すこと、我ら本多党に否やがあろうか! わしも今日より門徒は捨 てた! たとえ地獄までも、己が三河武士であることを貫いてやるわい!」

 平八郎の気迫と、忠真のこの一言が、一座の雰囲気を決めた。
 この後、平八郎の本多党は、結局1人も一向宗に靡かず、もっとも苛烈に一揆勢と戦うこ とになる。しかしこの戦いは、いわば味方同士の、壮絶な血の流し合いでしかないというこ とを、平八郎はよく知っていた。

 そして、平八郎にとってもっとも恐れていたことが、現実になりつつある。

 本多一族からも、この一揆に加担する家が出たのである。




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