歴史のかけら
合戦師
10
「知恵第一の弥八郎」
と呼ばれた人物が、岡崎にいる。
本多 弥八郎 正信――後に家康の参謀となり、家臣というよりは友のようになって、家康の
寝所にまで出入りを許された男である。
三河には、本多姓が多いということは以前も触れた。
弥八郎の本多家は小身で、三河の中でも飛びぬけて貧しかった。その日食うものにも困り、
味噌や塩などは懇意の大久保家からしょっちゅう恵んでもらうような有様で、弥八郎自身、
食い扶持を減らすために寺に入れられたことさえある。
しかし、弥八郎の人物というのはわりあい早くから知られ、徳川家の重鎮であった大久保
忠世などからはことに可愛がられていた。
性質は、聡明にして潔癖。幼い頃から、これと決めたことに対しては一歩も引かぬ気概が
あり、曲がったことや間違ったことが大嫌いであった。
寺に出されていたとき、弥八郎は、
「せっかく寺におるのだから、学問でも身につけてやろう」
と発起して、寺にあった漢籍、本邦や中国の軍記物語などを通読し、瞬く間に暗唱してし
まうほどの学才を見せた。読んだものをそのまま血肉にしてしまうような吸収力で、仏教に
も優れた理解力を示し、たちまち寺の中で評判になった。これに驚いた寺の住職が、「この
ような秀才はそう出るものではない。将来必ず徳川家の役に立つ男である」と、わざわざ家
康まで推挙したほどであった。
しかし、戦場でなんの武功もない男を、いきなり側近に迎えるわけにもいかない。
鷹狩が好きだった家康は、さしあたって弥八郎に「鷹匠」になるよう命じ、4歳年上の
この沈毅な風貌を持つ男を、しばらく近くで使ってみることにしていた。
当然、平八郎も、同じ本多一族の一人として、弥八郎のことは知っている。
弥八郎は、平八郎の10歳年長になる。直接的に接触をする機会はほとんどなかったが、間接
的な話はよく聞いていた。しかし、良い印象はない。
「あれは、鷹匠ではないか」
と、いつもどこかで馬鹿にしていた。
それというのも、弥八郎は知恵ほどに運動神経が発達しなかったのか武勇には疎く、戦場
で華々しい活躍をしたということが1度もなかったのである。戦場での武功を至上の忠義の形
であると思っている平八郎には、どうしても弥八郎を軽視してしまう部分があった。
「知恵など、いかに優れたところでなんになろう。知恵は、殿さまが働かせれば良いものだ。
武士とは、殿さまの下知(命令)に従って死ねるかどうかで決まるのだ」
多分に師である忠真の影響が強いが、平八郎は弥八郎を歯牙にもかけていなかった。
「弥八郎の本多家が一揆側についた!」
という話を聞いたとき、だから平八郎は意外な感じさえしたものである。
一揆というのは、領主に対してもっとも重い犯罪であった。討たれるにしても捕まる
にしても、行き着く先には一家と郎党の「死」しかない。
「学問などをなぶって、知恵の魔境に堕ちたか。坊主などに誑かされおって・・・!」
平八郎は、主君のために文字通り命を捨てて働き続けてきた「本多一族」というものに
誇りを持っていた。だからこそ、この本多一族から「殿さまに歯向かう者が出た」ということ
が、感情的に許せなかったのである。
しかし、当の弥八郎の思案は、そんな次元を超越していた。
(一向宗の理想を押し進めれば、この世に楽土を創ることになるのではないか)
と、弥八郎は考えている。
一向宗には、殿様も農民も、武士も商人もない。あるのは、阿弥陀如来と「自分」との関係
だけなのである。この理想の元に国づくりができれば、中世的な階級社会を超越した、万民が
平等な社会に行き着くということになる。
そしてこの想像は、決して弥八郎の飛躍ではない。
現に加賀では、この時代、守護の富樫氏が一向宗の一揆勢力によって滅ぼされ、一国がまる
まる共和国化していた。そこでは一向宗の僧侶と地侍たちによって合議制で国が運営されてお
り、大名と農民という縦の関係ではなく、人々の横の繋がりによって国が保たれている。
(三河を、加賀のようにできるやもしれぬ・・・)
弥八郎は、家康にはなんの恨みもない。しかし、同じ命を賭けるなら、大名同士の領土争い
ではなく、一向宗がもたらすかもしれない理想の世界の実現のためであるほうが、より男らし
く、より素晴らしいのではないか――
この決断が、弥八郎を一揆側へ走らせた。
弥八郎の本多党は一揆勢から歓迎され、弥八郎は、ごく自然に、一揆軍の参謀役のよう
な位置に就いた。寺院側の誰もが弥八郎の知恵者ぶりを知っていたし、岡崎に住む武士の
誰もが弥八郎の潔癖で無私な気性を知っていたからであろう。
平八郎は、皮肉にも、同族の弥八郎が指揮する軍隊と戦わねばならなくなったのである。
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