歴史のかけら
合戦師
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天正14年(1586)10月の末に家康を臣従させた秀吉は、翌天正15年正月に西国の大名を中心とす
る10万を越える征伐軍を九州へと送り、さらに3月、自ら2万5千の兵を引き連れて大阪を出陣
した。秀吉が動員した兵力というのは先遣隊を含めると総勢15万以上にも上る空前の規模で、
強悍で鳴った薩摩の島津氏もさすがに為すすべがなく、秀吉の出馬からわずか1月で降伏し
た。
この九州平定によって秀吉の天下というのはほぼ固まり、残る勢力は関東の北条氏と、伊達氏
をはじめとする奥羽の諸大名のみとなった。
秀吉の武威を知った北条氏、伊達氏らの大名たちはそれぞれに恭順の意を示し、一時天下に平
穏が訪れたのだが、北条氏が反旗を翻したため、秀吉はこれを機に、「天下統一」への作業を
再開する。
秀吉が22万を越す天下の大軍を率いて北条氏を攻めたのが、天正18年である。「小田原篭城」
の名で知られるこの北条攻めで、奥羽の大名たちは争って秀吉の元に馳せ参じ、臣従を誓ったた
め、北条氏の滅亡をもって秀吉の「天下統一」は完成する。
家康が秀吉に臣従してから、わずか4年後のことであった。
家康は、この北条攻めでは先鋒を命じられ、徳川勢は各地で軍功を挙げた。
ちなみに平八郎は、徳川勢の先鋒を務め、抜群の活躍をしている。
秀吉は、その恩賞として北条氏の旧領である関東八州240万石をそのまま家康に与えた。
これは、家康と徳川軍団を近畿から遠ざけ、土着性が非常に強い三河者たちを故郷から離れさ
せ、未開の関東に追いやるための秀吉の巧妙で高等な政策から出たことなのだが、家康は唯々と
してその命を受け、手塩に掛けて丹精した東海五ヶ国を捨て、関東へと赴いた。
ひとたび秀吉に従うと決めたからには、家康はどこまでも従順だった。
この国替えを機に、家康は家臣団の再編成と、これまでの軍功の論功行賞を行った。
平八郎は、上総(千葉県)の大多喜で十万石を与えられ、大名となった。またこれに先んじて、天正16年に従五位下 中務大輔(なかつかさのたゆう)に叙任されている。
この頃、徳川家の家老として長年にわたって家康を支え続けた酒井忠次は老齢を理由に隠居し
ており、石川数正はすでに徳川家を去っている。自然、平八郎は重臣筆頭のような立場となり、
榊原康政、井伊直政と共に“徳川三傑”と称されるようになっていた。
大多喜という地で為政者となった平八郎が、どういう施策をしたかということは、残念ながら
筆者は多くを知らない。事跡としては大多喜城という要害堅固な近世城郭を築き、城下町を整備
したことが知られるが、個別の施策についてはもっと多くを学んでから語るべきであると思って
いるので、ここでは触れないことにしたい。
ただ、平八郎の遺書を見ると、
「およそ心というものは、物に左右され、移ろいやすきものなれば、いたずらに士道の外を
見聞せず、武芸文学などをするにしても、常に忠義を心掛け、天下の難を救おうと志すべきで
ある」
という意味の言葉がある。
為政者としての平八郎が、自分に厳しく、清廉で高い志を持っていたことが窺えるように
思う。
平八郎はこの天正18年(1590)で、43歳になる。大多喜という土地の領主として、そして家康が
もっとも信頼を置く軍事参謀として、忙しく日々を送っていたに違いない。
その年の8月のことである。
東北平定とその戦後処理のため宇都宮まで来ていた秀吉から、「急ぎ来るように」と、平八郎
個人に向けて呼び出しが掛かった。
何事かとわずかの家臣を連れて出向いてみると、
「此度の北条征伐での数々の働き、天晴れであった」
秀吉は平八郎を諸将の前で褒め、特に褒美をくれるという。
「これなるは・・・」
と秀吉が小姓に持ってこさせたのは、古びた兜であった。
「源義経の忠臣であった佐藤 四郎兵衛尉 忠信の兜である」
秀吉は、例の人懐っこい笑顔で言った。
「わしは広く人物を見てきたが、当代の武勇の者と言えば、西では立花宗茂、東では、
本多平八郎こそが無双の者と思うた。そして平八郎よ、武勇と無類の忠義を兼ね備えたるそち
こそ、この“佐藤忠信の兜”を持つに相応しい」
秀吉は手ずから、その兜を平八郎へ贈った。
天下人からのこれほどの褒賞である。これに血が騒がぬ者は戦国武者ではないであろう。
さしもの平八郎も上気し、晴れがましい気持ちでその褒美を頂戴した。
その後、秀吉は平八郎を茶に招いた。
亭主は、秀吉本人である。
茶道 千利休 直伝の手前で茶をたて、それを平八郎に振舞った。
「わしはな、姉川でも長久手でも、そちを見た」
秀吉は、往時を懐かしむように目を細めて言った。
「長久手では、川辺で馬をたてるぬしを見て、あれこそ真の侍よ、古今独歩の勇士よ、武士の
中の武士よと思うたものじゃ」
「恐れ入りまする」
平八郎は頭を下げた。
秀吉は、人を煽ることに掛けては天才的な男である。この手で何人もの男たちの心を蕩けさ
せ、自分に従わせ、ついには天下を取った。そして天下を取ってからの秀吉は、この手で他の
大名の家臣を自分の直臣に引き抜くということをやっている。
徒手空拳から身を起こした秀吉の最大の悩みは、その家臣団が脆弱なことであった。
普通、大名の家臣というのは、多くの一族や郎党による血族集団がその中枢を担っている。血
を分けた兄弟というのは主君にとって強力なブレーンになるし、妻の実家やその兄弟というのも
同様に主君を補佐する重職に就くのが一般的である。同じ一族であるからこそ、何より裏切らな
いという安心感があるのであろう。さらに、何代も続いた家であればそこには譜代の家臣とい
うものがあり、これは祖父や曽祖父の代からその家に仕えている者たちで、忠誠に厚く、信頼が
置ける。
しかし、一代で成り上がった秀吉には、それらの人材がない。
秀吉の兄弟といえば実弟の秀長がいるだけであり、秀吉自身もこれほど好色な男でありなが
ら子がない。妻 ねねの実家の浅野家と、秀吉の遠縁にあたる福島正則、加藤清正ら数人を除け
ば、秀吉には一族と呼べるほどの人間がなく、譜代と呼べるような家臣もいないのである。
そこで秀吉は、有能な人材を見つけると、他家に仕えている者でもそれを引き抜き、領地を
与えて自分の直臣にするということを積極的にやっている。個人的に恩を売り、その恩によって
豊臣政権を安定させようと心を砕いていたのであろう。有名なところでは、毛利氏から小早川隆
景、上杉氏から直江兼継、大友氏から立花宗茂などが引き抜かれ、秀吉の直臣になっている。
秀吉は、その引き抜きの手で、徳川家から平八郎を奪い去ろうとした。
「そちのような有能の士はなかなかにおらぬ。これを天下の為に役に立てたいのだ」
と、秀吉はあくまで平八郎を煽り、
「そちはいま、大多喜で10万石を領しておるやに聞く。それとは別に、わしからもどこぞの土地
で10万石を与えて遣わそうと思う。徳川殿にはわしから話を通しておくゆえ、気楽に受け取るが
よいぞ」
と、好意を丸出しにした笑顔で言った。
平八郎は、迷わなかった。
「殿下の仰せ、侍にとって名誉の極み。これほど有難きことはございませぬ。されど、誠に
かたじけないことではござりまするが、我が本多家は父祖代々徳川のお家に仕えて参った譜代の
身。不肖この平八郎も、徳川家の武士として死ぬことを忠孝の道と心得て今日までやって参りま
した。なにとぞ、拙者の志を察してくだされますよう・・・」
やんわりと、秀吉の申し入れを断わった。
「・・・・そうか・・いや、それでこそ、本多平八郎よな」
秀吉は強いて無理を通そうとはせず、
「この秀吉には、そちのごとき譜代と呼べるような家臣がおらぬ。徳川殿は、得をしておられる
ことよ」
と、ほんの少しだけ寂しげに笑った。
さて、それからの秀吉である。
天下を取った後の秀吉は、少壮期の彼とは別人のような愚者になった。
古今東西の英雄の多くがそうであるように、過剰な自信と自己陶酔がどこまでも肥大化し、そ
れに老耄が重なって、心の抑制が利かなくなってしまったのであろうか。関白を甥の秀次に譲
り、太閤となってからの秀吉は、若い頃では考えられないような愚行を平気でするようになって
いった。
関白 秀次を自刃に追い込み、その妻妾と子30数人をことごとく斬首したこともそうだし、
2度も朝鮮へ出兵し、異国の民に塗炭の苦しみを味あわせたこともそうだし、まったく不要な
城郭を次々と普請し、その莫大な費用を朝鮮出兵で疲弊している諸大名に押し付け、万民から
税を絞り上げたのもそれであろう。
秀吉が創り上げた豊臣政権は、秀吉の散財で潤った京、大阪の町に住む人々を除けば、すでに
全国の人心を失ってしまっていた。
家康は、こういう世の状況を静かに見つめていた。
秀吉に臣従し、その家来となってからの家康は、秀吉その人に対しては信服もし、その政権の
ために挺身もしてきたが、秀吉の老耄が激しくなり、その死期が予想できるころになって、
多くのことを考えるようになっていた。
それは、主に秀吉が死んだ後のことである。
家康は確かに秀吉個人の家来にはなったが、秀吉が死んだ後も秀吉の遺児の家来でいなければ
ならない道理はないであろう。天下とはそもそも持ち回りであり、現に信長が奪い取った天下は、
その死後、信長の遺児が相続することはなく、実力で秀吉がさらい取ってしまっている。
そう考えれば、秀吉の死後、天下が自動的に秀吉の遺児に移るというのはむしろ不自然で、
秀吉が死んだ瞬間、天下でもっとも大きな器量と実力を持つ者こそが、これを受け継ぐべきで
あろう。
天下とは、そうしたものであるはずである。
家康は、この大望を一言も周りに漏らしはしなかったが、自分こそが秀吉に次ぐ器量の持ち主
であり、秀吉の死後、自分こそが天下を引き継ぐ資格を有する人間であるということは自覚して
いた。
そして加えるなら、この戦がなくなってしまった世で自分が天下を取るには、天下に騒乱を
起こさせねばならず、騒乱を起こすためには巨大な陰謀が必要であるということも解ってい
た。
秀吉の家来になって10年――
家康の政略能力は、成長し続けていたのである。
秀吉は、2度目の朝鮮出兵の最中、慶長3年(1598)8月に61歳で死ぬ。
露と置き 露と消えぬる我が身かな 浪華のことは夢のまた夢
という有名な辞世を詠んだとき、家康は57歳。平八郎は51歳になっていた。
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