歴史のかけら


合戦師

85

 秀吉が死んでから、家康は変わった――と言う者がある。
 それまでの篤実、実直、律儀といった仮面を捨て、腹黒い本性を現した、というのである。

 しかし、筆者は必ずしもそうは思わない。
 家康は常に現実主義者であり、秀吉の生存当時は家来としてそれに尽くしたし、秀吉が死んだ 後は、天下を取るために積極的に動いたというだけのことである。ただ、世に戦が絶えた慶長の 時代に天下を取るためには世に騒乱を起こさねばならず、騒乱を起こすためには巨大な陰謀を 巡らさねばならず、その陰謀のあざとさ、往時の秀吉にも匹敵する政略の怜悧さと周到さのため、 家康という男に対する印象は、後世に大きく暗い陰を残すことになった。
 秀吉には、陽気さとひょうきんさがあった。同じ陰謀を弄するにしても、秀吉がやれば、それ は秀吉が持つ明るい個性によって暗さが消え、印象が薄まり、結果として秀吉は「陰謀の人」と は世間から記憶されなかった。
 しかし、家康は、陰気ではないにせよ秀吉ほどの陽気さはなく、洒落や諧謔や冗談が通じるよ うな軽さがなく、光を放つほどの明るい個性も持ち合わせていない。どちらかと言えば地味で陰 湿で重厚というのが世間が持つ家康観であり、それは多分に家康個人の――あるいは三河者という 人間たちにとってはごく一般的な――個性によるものなのだが、それがそのまま家康に 対する印象となって後世に残ることになった。
 その意味では、家康という男は多少損をしていると言うべきなのかもしれないが、当の家康 本人は、天下を取るという目的のために、後世、自分がどのように印象されることになるか、と いったことは、どうでも良かったに違いない。
 家康は、どこまでも現実主義者なのである。


 家康は、豊臣家を内部分裂させ、その双方を戦わせ、世に未曾有の大戦を起こそうとした。そ して自らその片方に乗り、乗ることによって豊臣家の諸大名を自分の家来同然にし、そのまま徳 川家を頂点とする新政権を作り出そうとした。
 このとき、この巨大な陰謀のために選ばれたのが石田三成を中心とする豊臣家の文吏派諸侯で あり、これと犬猿の仲であった加藤清正、福島正則らを代表とする武断派の大名たちだった。
 家康は巧みに武断派の諸侯を手なずけ、文吏派の諸侯を追い詰め、戦が暴発するように仕向け、 同時に中立の諸侯に近づき、この多くを味方に抱き込んだ。

 秀吉が死んだとき、世間では、この後の天下を取るのは実力ナンバー1の家康である、という 雰囲気がすでに濃厚にあり、諸侯は自家保存のために呼びもせぬうちから家康に接近しようとし、 この昵懇を得ようとし、媚を売る者が多かった。
 家康は、世間を動かしているものが、「正義」でも「忠義」でもなく、「損得利害」であ り、「自己保存の本能」であるということを良く知っている。家康は彼らに安全の保証をしてや るだけでよく、味方は面白いように増えていった。

 平八郎は、井伊直政と共に東軍の武断派武将たちの軍監役を家康から仰せつかり、「関ヶ原」に おける決戦の前哨戦の段階では、家康が到着するまでの全軍のまとめ役を任された。これは、平八 郎が野戦攻城だけの将であったわけではないということの何よりの証拠であろう。平八郎には人を 斡旋したり調停したりする才があり、人をまとめる才もあり、何より武断派の荒くれ大名たちか ら一目も二目も置かせるだけの重厚な存在感と輝かしい戦歴があった。

 「関ヶ原」の大戦は、慶長5年(1600)の9月15日に勃発する。
 東西合わせて17万の軍兵が野戦で戦うという日本史上未曾有の大戦だったわけだが、この戦 は、家康にとってはすでに天下取りのための巨大なセレモニーに過ぎなかった。
 東軍の旗頭になった家康は、西軍についた諸侯の7割近くをあらかじめ内応させており、寝返り ができない者でも多くは不戦の約束をしており、驚くべきことに西軍の旗頭である毛利軍からさえ も不戦の約束を取り付けていた。
 勝敗は、戦う前から決まっていたのである。

 とは言え、合戦というのは最後は博打であり、結果が決まってしまうまでは、実際にどう転ぶ かなどは誰にも解らない。家康はそのことを誰よりも知っており、最後の最後までこの合戦に不 安を持っていた。
 勝てば天下を取れるが、万が一負ければ、これまで人生を賭けて積み上げ、築いてきたものが 一瞬で崩れ去るかもしれない、という博打である。不安を感じない人間はいないであろう。

 この9月15日、美濃 関ヶ原の桃配山に本陣を据えた家康の不安は、自軍の後方――南宮山に 陣取っている毛利軍の向背であった。
 不戦の約束通り、毛利軍が動かなければ、絶対に負けることはない。しかし、もし毛利軍が 兵を動かし、徳川勢の背後から襲い掛かってくれば、おそらく全軍が崩壊し、家康は負けざる を得ない。
 もちろん、毛利軍を統括している吉川広家からは不戦の誓紙と人質をとっているし、前線で合 戦が始まってからも南宮山の部隊は動く気配を見せていない。しかし、家康の背後にいる彼らが、 家康の命運を握っているという現実にふと気付き、戦国武者らしく変心し、家康を背後から刺 し殺してしまおうと槍を伸ばしてこないとは誰にも言い切れないのである。
 家康はこのことがどうにも不安であり、実際の戦が始まってもその不安がぬぐえず、疑念が 捨て切れず、本陣に座っていても少しも落ち着くことができなかった。

 このとき、家康はつと本陣を出、数騎の近従を連れただけで前方の平八郎の陣へと現れた。

 平八郎は驚き、何事かと思ったが、家康の用事というのは、

「南宮山の連中は、大丈夫か?」

 ということを平八郎の口から聞きたかっただけであった。
 平八郎は、もちろん家康以上には南宮山の毛利軍の動向など知らない。平八郎が持っている 情報はすべて家康へと報告済みであり、むしろ家康が持っている情報の方が多かったであろう。
 それが解っていながらも、全軍の総大将たるその人が、合戦の最中に本陣を抜け出してまで 平八郎の元へわざわざ足を運んで来たというのは、それだけ平八郎の合戦の勘を信頼し切って いるからであり、この状況ではそれ以外に頼れるものがなかったからであろう。

 平八郎は、

「ご懸念、ご無用でござりまする!」

 と断言し、その理由を二言三言、家康に説明してやった。
 それはもちろん家康自身もよく解っている理由ではあったのだが、平八郎の口からそれを聞く ことで家康はようやく安堵し、本陣へ帰っていった。


 9万を数えた西軍の軍兵の中で東軍と実際に戦ったのは、石田三成隊と宇喜多秀家隊、小西行 長隊、大谷吉継隊の4隊のみであり、その人数は合わせても3万に満たなかった。ところが、この 4隊が死に物狂いで戦ったために緒戦の戦況はむしろ西軍に良く、予想外に振るわない戦況に家康 は狼狽し、不安と焦りをかきたてられた。
 家康はしきりに爪を噛み、じりじりしながら戦況の推移を見守り続けたが、開戦から2時間が経 つ頃にはさすがの西軍も力尽きた。1万6千の小早川秀秋隊の寝返りを契機に戦況は逆転し、圧 倒的な東軍の兵力の前に為すすべもなく敗北し、壊走を余儀なくされた。

 この「関ヶ原」では、豊臣家の諸侯同士を家康が戦わせたため、徳川本隊は合戦の終盤まで 出番がなかった。
 平八郎が5百の手勢を率いて馬を出したのは、敵の敗勢がもはや決定的になったころであっ た。
 10万石を領する平八郎の兵力というのは3千5百ほどにも上ったが、この「関ヶ原」では、 平八郎は兵のほとんどを長男の忠政に預けていた。合戦そのものがなくなりつつあった時代で ある。数少ない実戦の場で、我が子に兵の指揮などを学ばせようとしたのであろう。

 平八郎は、家康の三男であり二代将軍となる秀忠から拝領したという名馬“三国黒”に跨 り、歴戦を共にした“蜻蛉切”を振り回して鬼神のように暴れ狂い、宇喜多隊、島津隊などと 激突した。ちなみにこの平八郎隊には、「関ヶ原」が初陣となる平八郎の次男 忠朝も参加して いる。
 平八郎隊の戦場での奮戦は凄まじく、わずか5百の兵が討ち取った首級は、実に90余にも上 ったという。

 戦後、諸将が家康の陣屋に詰めかけ、戦勝を寿いでいると、そこにやってきた豊臣家随一の 猛将 福島正則が、目の当たりにした平八郎隊の戦いぶりを褒め讃えた。

「わしも長く戦場を往来しておりまするが、ご家中の本多 中務(平八郎)殿の戦振りは、見事と しか申しようがござらなんだ。その采配の振りよう、兵が手足の如くに動き申す様は、さすが 名にし負う本多 中務よ、と、それがし感服つかまつった!」

 福島正則という男は、この時代きっての荒大名として知られた豪放磊落な男で、お世辞が言 えるような小ざかしい人物ではない。
 これに対して平八郎は、

「いやなに、敵があまりにも弱すぎただけでござるよ」

 と笑って答えたという。
 事実、戦国の過酷な戦場を誰よりも知っている平八郎から見れば、いかに合戦の規模が大きく はあっても、しょせん勝敗の見えた戦いである。大したことはなかったのであろう。

 この「関ヶ原」をもって、家康は天下を取った。


 少々、戦後の余談を書きたい。
 信州の小大名 真田氏の話である。

 真田家の真田昌幸、幸村 親子は、この乱で西軍に加担し、わずか2千5百の兵をもって徳川 家の別働隊3万8千を信州上田で1週間にわたって足止めし、主力決戦に間に合わなくするとい う奇功を挙げた。このため家康は、関ヶ原の主力決戦では徳川勢の半分を失うハメになり、戦力 が大いに減じられたのである。
 もともとこの真田家というのは、家康が信濃を手に入れたころから徳川家とはいざこざを繰り 返しており、当主の真田昌幸という策謀家を家康は心から嫌っていた。
 「関ヶ原」が済み、戦後の処理と論功行賞や各大名の処罰を決めていた家康は、この機会に 徳川家に楯突く真田家を潰してしまおうとし、真田昌幸、幸村 親子を殺そうとした。

 ところで、真田昌幸には次男の幸村の他に嫡男の信之という息子がある。
 信之は、真田家が徳川家に臣従するときに徳川家に出された人質で、その人柄も実直で優れて いたので、家康はことのほか気に入っていた。家康は、真田家と徳川家の絆を深めるため、平八 郎の長女 小松姫を自分の養女としてこの真田信之と娶わせてさえいるのである。
 つまり平八郎にとってみれば、真田信之というのは娘婿であり、真田昌幸は娘の舅ということ になる。
 平八郎は、真田昌幸という腹の解らない男はどうにも好きになれなかったが、実直で利発な 娘婿のことは心から可愛がっており、徳川家の重臣筆頭という立場で何くれとなく世話を焼い てやっていた。

 この真田信之は、これまでの徳川家との縁を思い、今度の乱では終始東軍に加勢し、家康と 徳川家のために働いた。ところが、父親の真田昌幸と弟の幸村が家康に対して大いに反抗して しまったため、どうにも困り果てていた。
 家康にこれだけ堂々と敵対し、しかも徳川勢の兵力を半減させるという大失態(西軍から見れ ば素晴らしい軍功だが)をやってしまった以上、当然 死罪であろう。しかし、信之としては親兄 弟の命だけはなんとしても救いたい。

 信之は、苦悩の末、平八郎にこのことを相談した。
 話を聞いた平八郎は、肉親を想う信之の心情に打たれ、共に家康へ両名の助命を嘆願してやる ことを約束した。

 これに大迷惑したのが、他ならぬ家康だった。
 家康は、たびたび苦渋を飲まされる真田昌幸という男を、今後のためにもここで殺してしま いたい。頑として平八郎の助命嘆願を受け入れなかった。

「なんとしても助命をお許し願えませぬか!?」

「ならぬと言うたら、ならぬ!」

「無理は承知いたしており申す。されど、この平八郎の生涯の功に代えて、なにとぞ格別のご 慈悲をお願い申し上げまする!」

「平八郎、くどい!」

「殿!」

「真田昌幸は、なんとしても生かしておいてはならぬのだ!」

「ならば!」

 と、言葉が激してしまったのか、平八郎は敢然と啖呵を切った。

「どうにもお聞き入れくださらぬというなら、殿と一戦つかまつるまで! 我ら真田親子と共に 上田城に篭り、力の限り殿と戦い、潔く討ち死にさせていただきまするによって、すぐさま討ち 手の軍をお出しなされませ!」

 平八郎のこの剣幕は、家康どころか共に助命嘆願に来ていた真田信之をも唖然とさせた。平八 郎がここまで家康に反抗したことというのは、筆者の知る限り、後にも先にもない。
 家康は、苦虫を噛み潰したような顔で沈黙せざるを得なかった。

 結局、真田親子は一命を助けられ、高野山への配流という寛大な措置が決まった。

 平八郎は、「関ヶ原」の一戦をもって、世から戦がなくなると思っていたのであろう。危険な 人物であると知りつつ真田親子の助命をここまで真摯に請合ってやったのは、徳川の天下が決ま り、世から戦が絶えると思ったからこそであるとしか、筆者には考えられない。
 しかし後年、家康は、このとき命を助けた真田幸村に「大阪の陣」においてさんざんに苦しめられ る。そのことを思えば、これは平八郎の出すぎであったかもしれない。


 「関ヶ原」の翌年、平八郎は、伊勢の桑名へ転封となった。
 桑名は、天下の要地である。東海道の重要拠点であり、近畿地方の東の玄関にあたる。海を渡 れば尾張名古屋へと通じ、鈴鹿峠を越えればすぐさま上方へ出られ、木曽川をさかのぼれば岐阜 を経て北陸へも往くことができる。
 家康は、上方への警戒のために平八郎を桑名に置いた。
 置くにあたって家康は、「関ヶ原」の勲功を加味し、平八郎の領土を加増しようとした。
 しかし、平八郎は受けなかった。

「それがし、さしたる働きも致しておりませぬゆえ、殿のご好意に甘えるわけには参りませぬ」

 と、いかに家康が勧めようとも加増を受けようとしない。
 やむを得ず家康は、平八郎の次男 忠朝に大多喜で5万石を与え、平八郎には桑名で10万石を 与えた。

 家康は、平八郎を、徳川家の第一の重臣と思っていたようである。
 榊原康政、井伊直政と共に家康を補佐し、天下の政道に参加するよう申し付けている。

 桑名に入った平八郎は、後に「慶長の町割り」と呼ばれることになる町作りを断行する。
 それまでの桑名は、東海道の要衝として、木曽川筋の物資の集積地として、また伊勢湾貿易の 中継地として格別の賑わいを見せてはいたものの、あくまで自然発生的にできた集落を中心とし た雑駁な町であった。
 平八郎は、桑名の住民を一時立ち退かせ、町中の家屋敷を壊して新しく道路を引き、また町 中を通っていた町屋川の流れを現在の川筋に変えさせ、屋敷地をすべて区割りし直した。桑名城 を中心とする本格的な城下町を作り上げ、武士町、商人町、寺町などを置き、職人町、油町、紺 屋町、伝馬町、舟町など、あらゆる商工業者を集める町を作り、城下町の外郭は堀をもって囲わ せた。
 この大工事は、実に3年の月日を要したが、現在に残る港町桑名の姿は、平八郎のこの町割り によるところが大きい。


 慶長8年(1603)2月、家康は征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開いた。
 名実共に、天下人となったわけである。
 平八郎は、この頃になると、自分の果たすべき役割が終わったことを感じ始めていた。世から 戦がなくなれば、「合戦師」の出番などはそもそもないであろう。家康の元へ出仕することも徐 々に少なくなり、翌年には眼病を理由に隠居願いさえ出している。

 しかし、家康は平八郎の隠居を許さなかった。

「63になるわしがまだこうして頑張っておるに、わしより若いお前の隠居など認められる か!」

 話にならぬほどの剣幕で、平八郎のこの願いを蹴った。
 家康が老いると共に、家康の下で働き続け、共に戦い続けた有能な武将たちも老いた。実戦 経験の豊かな頼れる男たちが一人減り、二人減りといった具合に隠居したり死んだりしてゆく中 で、家臣筆頭にして無類の合戦師である平八郎までが家康の元を去ってしまえば、徳川家の武威 というものはどこまでも軽くなってしまうであろう。それに、何より家康は、平八郎を失うこと が寂しかったのである。
 家康はたびたび平八郎に見舞いの使者を遣わし、その健康を気遣ったが、隠居の願いだけはな かなか許そうとはしなかった。

 平八郎の隠居がようやく認められたのは、最初の隠居願いから実に6年後の慶長14年(1609)で あった。
 将軍職はすでに家康から秀忠へと移り、徳川政権の基盤がそこそこ安定し、世が静まりを見せ 始めたからであろう。家康は、ついに平八郎の隠居願いを聞き届けてやった。
 平八朗は家督を長男の忠政に譲り、ようやく自由気ままの身となった。


 それからの平八郎は、子の忠政を大殿という立場で監督しながら、丹精を込めて作った城下 町を歩いたり、好きな彫刻をしたりしながらゆったりと時間を過ごしていたようである。

 この頃、平八郎は、長年共に戦い続けた愛用の“蜻蛉切”の柄を、3尺ほど切り取って短く している。
 なぜそのようなことをなさるのです、と尋ねる者に、平八郎はこう語ったという。

「槍というのは、自分の力に合ったものを使うのが良いのだ。わしも老い、若いころほどの力は ない。今のわしには、このくらいでちょうど良い」

 ただいたずらに強力や武勇を誇ることなく、驕ることも慢心することもなかった平八郎の人 柄が偲ばれる逸話だと思う。


 隠居が許されてから1年ほど経ったある日、平八郎がいつものように庭を見ながら縁側で仏 像を彫っていると、どうした手元の狂いか、小刀がすべって指先をほんの少し切った。
 その傷からにじみ出てくる鮮血を呆然と眺めていた平八郎は、

「どうやらわしは、今年あたりに死ぬらしい」

 と、苦笑混じりに呟いたという。
 あらゆる傷を受け付けなかったこの身体も老い、ついに神仏の加護さえも消えてしまったのだと、 悟ったのであろう。
 平八郎は、自らのこの予言の通り、この年の10月18日に63歳で死んだ。
 この逸話は、いかにも平八郎らしい。


 平八郎は、死に臨んで訓戒を込めた遺書を残している。

「侍は、別に敵の首を取れずとも、手柄が樹てられずとも良い。侍とは、ただ難事に臨んで退かず、 主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守る者のことを言うのだ」

 という一文に、この男の生き様のすべてが詰まっているように思う。


 平八郎の墓は、晩年を過ごした桑名の浄土寺にある。
 その法名は、西岸寺殿前中書長誉良信大居士。






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