歴史のかけら
83平八郎ら徳川家の重臣たちは、家康の招集によって浜松城へと集められた。 「聞いたか、平八郎?」 登城し、詰間に顔を出した平八郎に向け、朋輩の榊原康政が話しかけてきた。 「なんでも例の猿関白殿が、殿さまの元に縁談を持ち込んできたらしい」 「縁談?」 話を聞いた平八郎は、仰天した。秀吉が、自らの妹を家康に嫁さしめようとしている、という のである。 「秀吉に、妹などあったのか?」 「どうもあるらしい。しかし、話によると40の坂をとうに越えた姥だそうだ」 「いや・・・この際そんなことは良いが、しかし・・・・」
天下人たる秀吉が、家康を自分の義弟にするというのが重大であった。
このとき、この外交の天才がひねり出した手が、 「我が妹を、徳川殿に嫁さしめる」 というものであった。
秀吉には旭姫という異父妹がある。尾張中村の貧農の家に生まれ、百姓の妻になっていたもの
が、秀吉の出世と共に武家の世界に連れてこられ、その夫も侍になっていた。 (家康が上洛して来ないのは、1つにはわしが家康を殺すと思っているせいであろう)
と、秀吉は見抜いている。
家康は、この縁談を受けた。
これは、秀吉にとっても大きな誤算であった。
秀吉は、ついに自分の政略の失敗を悟らざるを得なくなった。このまま家康を放置していて
は、「天下統一」などと叫んでみたところで絵に描いた餅に過ぎないのである。 (・・・家康・・・・家康・・・・!)
秀吉は、「天下統一」という大目標のために、すべてを捨てねばならぬと覚悟した。天下人と
しての体面、男としてのプライド、豊臣政権の名誉や威信――これらすべてを捨て去ってしまわ
ない限り、家康という男を引き出すことはできないと思った。 「九州征伐につき、いろいろと相談したきことがある。急ぎ上洛なされよ」
と、秀吉は家康に言い送った。 「我が母 大政所が、旭姫に会いたがっておるゆえ、そちらへ下向する。よろしくお取り計らい くだされ」 と言い添えた。
秀吉の老母 大政所は、10月18日、三河の岡崎へ到着した。
家康は、その全身が天秤の如くに政治的バランス感覚に優れた男である。 家康は、ついに上洛を決意した。
「秀吉は、上洛にかこつけて殿を害し奉る魂胆に相違ない」
という観測が三河者たちにとっての常識であり、家康自身も、誰よりも濃厚にその疑いを
持ち続けていた。
平八郎は、家康と共にある。西上軍の宰領と家康の警備とを任されていたのである。
大阪の繁栄というのは、この田舎者たちにとって驚愕の一言に尽きた。 一行は、城内でもっとも大きな敷地を持つ豊臣秀長(秀吉の実弟)の屋敷を宿舎としてあて がわれ、そこで一泊し、明朝 登城することになった。 (なにかあるとすれば、今宵・・・・) 平八郎は、1万の軍勢を臨戦態勢で待機させ、これに半数ずつ交互の睡眠を取らせ、さらに 宿舎のまわりには多数の篝火を焚いて夜襲を警戒させた。もし万が一、秀吉が大軍を差し向けて この屋敷を包囲するようなことがあれば、死ぬまで戦って時間を稼ぎ、なんとしても家康を守り 通し、ここから落とすと決意した。
(すわ、大事か!) 慌てて玄関まで駆けつけた平八郎が見たものは、3人の小姓を従えた猿顔の小男と、困惑顔で それを取り囲んでいる三河兵たちの姿であった。 「おお、ぬしは本多平八郎だな!」 金襴の派手すぎる着物を着たその男は、平八郎に向けてなんとも言えぬ人懐っこさで笑いかけ、 「わしは殿下じゃ。殿下じゃ」
と、大声でまくし立てた。 「いやいや、大納言殿(家康)が大阪に入ってくだされたと聞き、なんとも懐かしゅうなってな。 会いとうて会いとうて明日を待ちかねた。して、こうして参った次第じゃわい。早う取り次げ。 大納言殿の元へ案内せよ」 はしゃぐ子供のように無邪気さを丸出しにして、秀吉は笑っている。 (・・・なんと大胆な――!!)
敵陣と言っていい徳川勢の宿舎に、わずか3人の小姓を供に連れただけの身軽さで現れた秀吉
のこの放胆さというのはどうであろう。隠れもない天下人である秀吉の命というのは、この瞬間、間違いなく平八郎が握っているのである。平八郎が号令を下せば、あたりの三河兵たちは一斉に
抜刀して丸腰の秀吉へと殺到し、瞬く間にその首を挙げることができる。 「暫時! 暫時お待ちくだされませ。すぐ主に取り次がせていただきまする!」 秀吉の前を辞した平八郎は、廊下を飛ぶように走りながら非常に奇妙で複雑な敗北感を感じて いた。
話を聞いた家康は、自ら立ってすぐさま秀吉を玄関まで出迎え、手を取るようにして奥の一室
へと招じ入れた。 “人たらし”と言われたほどの外交の天才である秀吉という男は、対人接触には名人芸としか 言いようのない呼吸を会得している。ほとんど呆然とする家康を前に、 「かつて武田勝頼殿と戦うた『長篠』以来、実に久しく徳川殿とお会いすることがかなわなん だ。その懐かしさのあまり、今宵は様々に物語などつかまつりたいと、こうして参った次第で ござるよ」 と、陽気に笑いながら自ら持参した弁当の包みを開き、酒器を出し、盃に酒を注いだ。 「まずは、毒見」
秀吉は続けざまに3杯を飲み、肴を自らの箸でつまみあげて口に放り込んだ。 「頂戴つかまつる」
と秀吉の盃を受け、その酒を喉の奥に流し込んだ。 「ささ、おぬしらも飲め」 と、その一室に膝を詰めて座っている徳川家の重臣たちにも酒を振舞った。
秀吉は、さまざまに昔話を語った。それは信長が少壮期の頃の話であり、家康の青春時代と
言っていい昔のことであり、金ヶ崎での殿戦の思い出であり、徳川勢が大活躍した『姉川』の話
であったりした。秀吉の話の上手さというのは天性のものであり、口ひとつで人を楽しませるこ
とにこれだけ長けた男もいない。
和んでしまった自分を省みて、家康は快い敗北感を感じていた。
この夜、家康は珍しく酔った。 夜も更け、秀吉が帰り際のことである。 「徳川殿、実は、そこもとに、明日、ひとつ頼みがある。聞いてくだされるか」 秀吉は家康の肩を抱くようにして耳元で小声で言った。 「ご承知の通り、それがしは関白などど申しても、元は水飲み百姓。奴僕より身を起こし、総見 院様(信長)に取り立てていただいて立身し、今日のようになり申しましたが、しかし、それがし の家臣というのは、これみな元の同僚朋輩でござって、それがしを主君として敬う心なぞはさら さら持ってはござらん。そこで、頼みというのは・・・」 と、秀吉はさらに声を落として続けた。 「明日、諸大名がおる前で対面つかまつるわけでござるが、それがしは背が折れるほどに反り 返って尊大の体(てい)を作りまする。どうか、お気を悪くなされるな。そこで、徳川殿には、でき るだけ慇懃に礼をしてくださらぬか。徳川殿でさえ、あれほどにこの秀吉に対して辞を低うして おる、となれば、諸人はそれを見てあらためてこの秀吉が天下人であることに思い至り、その尊 貴さに気付き、明日よりはきっとそれがしを敬うように相成りましょう。このこと、どうか頼み 参らせる」 秀吉は、頭を下げた。 家康は、弾かれたように笑った。声を殺し、肩を震わせて笑った。 (なんと無邪気な男であることか――!) 秀吉は、このことの了解をとりたいがために、この場の座を設けたのである。根回しの達人と 言えばそれまでだが、この秀吉の言葉で、家康の自尊心は大いに満足させられ、それどころかあ れほど嫌っていた秀吉という男に、家康は親しみと好意さえ持った。 「心得てござる」 家康は心から言った。 「拙者が大阪まで出向き、殿下に拝謁つかまつるにおいては、いかようにも殿下の御為になるよ う取り計らい申す。ご懸念は、もはや無用でござる」
この瞬間、家康は秀吉の家来になった。
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