歴史のかけら


合戦師

83

 天正14年(1586)の5月。
 平八郎ら徳川家の重臣たちは、家康の招集によって浜松城へと集められた。

「聞いたか、平八郎?」

 登城し、詰間に顔を出した平八郎に向け、朋輩の榊原康政が話しかけてきた。

「なんでも例の猿関白殿が、殿さまの元に縁談を持ち込んできたらしい」

「縁談?」

 話を聞いた平八郎は、仰天した。秀吉が、自らの妹を家康に嫁さしめようとしている、という のである。

「秀吉に、妹などあったのか?」

「どうもあるらしい。しかし、話によると40の坂をとうに越えた姥だそうだ」

「いや・・・この際そんなことは良いが、しかし・・・・」

 天下人たる秀吉が、家康を自分の義弟にするというのが重大であった。
 これは、家康を平和裡に味方に抱き込もうとする秀吉が打った驚天動地の一手と言うべきで あろう。


 大阪へと帰ってきた外交使たちの報告を聞き、家康の様子を知った秀吉は、このあたりが外交 上の切所であると思ったらしい。
 秀吉は、家康のあの強気な態度を、己の弱腰を隠すためのパフォーマンスと見た。だとすれ ば、いよいよ家康が手詰まりを感じ始めているということである。家康をこれ以上追い込むこと ができない以上、秀吉とすればここは自分から大きく折れてやるほかない。

 このとき、この外交の天才がひねり出した手が、

「我が妹を、徳川殿に嫁さしめる」

 というものであった。

 秀吉には旭姫という異父妹がある。尾張中村の貧農の家に生まれ、百姓の妻になっていたもの が、秀吉の出世と共に武家の世界に連れてこられ、その夫も侍になっていた。
 秀吉は、この旭姫を離縁させ、家康の正室として送り込もうと考えた。
 つまり、人質である。
 天下人である秀吉の側から、ごく地方的な覇者に過ぎない家康へ、肉親を人質として送る。通常 なら考えられないことであり、考えられないどころか話がまったく逆なのだが、秀吉はここまで 折れた。

(家康が上洛して来ないのは、1つにはわしが家康を殺すと思っているせいであろう)

 と、秀吉は見抜いている。
 秀吉の義理の弟という破格の待遇を家康に与え、その生命を保証してやれば、いかにあの男が 頑固といえども大阪へ出てくる気になるに違いない。


 浜松では、秀吉が持ち込んだこの縁談に対して議論が百出した。
 このあからさまな政略結婚が、家康を抱きこむための秀吉の謀略であることは疑いないとこ ろであり、秀吉に対する警戒感と嫌悪感から縁談そのものに反対する者も多かったが、話が縁談 という男女間の問題であるだけに、結局は当事者である家康の心のままに、というところで重臣 の意見は落ち着いた。

 家康は、この縁談を受けた。
 しかし、誰もが驚いたこの男の執拗さというのは、それでもなお秀吉に臣従しようとしないこ とであった。家康は旭姫を人質として丁重に遇したが、しかし、それだけのことだった。婚儀が 終わり、使者が上洛を勧めても、家康はついに浜松を動かなかったのである。

 これは、秀吉にとっても大きな誤算であった。
 秀吉は、この政略によって家康を臣従させることができると信じ込んでおり、その前提に 立ってその後の九州征伐の絵を描いていたのだが、家康の度を越えた頑固さのために、またして もその戦略に齟齬が生じていた。
 しかし、九州の情勢はすでに静観を許さないほどに切迫してしまっている。秀吉としても、家 康への手当てはこの婚儀の成立でひとまず満足せざるを得ず、そのままいそいそと九州征伐に取 り掛かった。
 ところが、近畿を空にしては家康が攻め込んでくるかもしれないという不安を抱えている秀吉 は、このままの状態では九州に大軍勢を出せない。中国の毛利氏や四国の大名を中心とした軍勢 を小出しにするしかできないのだが、本隊を派遣できない以上、強悍で鳴った薩摩の島津兵 を押さえ込むことなどできるはずもない。
 戦況はまったく奮わず、秀吉の繰り出した先遣隊は各地で破られ、苛立ちだけを募らせつ つ半年の月日が経過した。

 秀吉は、ついに自分の政略の失敗を悟らざるを得なくなった。このまま家康を放置していて は、「天下統一」などと叫んでみたところで絵に描いた餅に過ぎないのである。
 しかし、逆に言えば、家康さえ味方に抱きこむことができれば、天下は取ったも同然であっ た。東方の安全を確保し、九州征伐を完了させれば、もはや日本の6割までが秀吉のものという ことになり、残りの勢力などは語るに足りない。

(・・・家康・・・・家康・・・・!)

 秀吉は、「天下統一」という大目標のために、すべてを捨てねばならぬと覚悟した。天下人と しての体面、男としてのプライド、豊臣政権の名誉や威信――これらすべてを捨て去ってしまわ ない限り、家康という男を引き出すことはできないと思った。
 そして、最後のカードを切った。
 自分の母親を、家康の元に人質として送ったのである。
 天下人であり、朝廷の支配者である関白 秀吉が、その実の母親を一地方の覇者に向かって人質 に出す。日本史上、こんな離れ業をやってのけたのは後にも先にも秀吉ただ一人であろう。秀吉 の親孝行というのは天下に隠れもないことであり、いわばこれが秀吉にとっての譲歩の限界で あった。
 これでもし家康が上洛しないならば、あとはもう戦争しかない。

「九州征伐につき、いろいろと相談したきことがある。急ぎ上洛なされよ」

 と、秀吉は家康に言い送った。
 さらに、

「我が母 大政所が、旭姫に会いたがっておるゆえ、そちらへ下向する。よろしくお取り計らい くだされ」

 と言い添えた。

 秀吉の老母 大政所は、10月18日、三河の岡崎へ到着した。
 これを出迎えた家康は、断を下さねばならないときが来たと思った。

 家康は、その全身が天秤の如くに政治的バランス感覚に優れた男である。
 秀吉が、自分の生母を人質として浜松へ寄越し、それが本物であると解ったとき、ここが政治 的駆け引きの限界であると悟っていた。秀吉はすでにこれ以上不可能というほどの譲歩をしてお り、これでなお家康が態度を変えなければ、秀吉は九州征伐を中止にしてでも本気で家康を滅 ぼそうとするであろう。
 そうなれば、滅亡しかない。

 家康は、ついに上洛を決意した。


 天正14(1586)年10月20日、家康は、1万の軍勢を引きつれて三河を出発した。
 しかし、大阪へ出向くことは決めたものの、家康も三河者たちも、秀吉という人間を信用す る気にはまだとうていなれていない。

「秀吉は、上洛にかこつけて殿を害し奉る魂胆に相違ない」

 という観測が三河者たちにとっての常識であり、家康自身も、誰よりも濃厚にその疑いを 持ち続けていた。
 家康は、だからこの西上に完全武装した1万もの軍勢を引きつれて来たし、国許の酒井忠次、 井伊直政にそれぞれ1万の軍勢を預け、不測の事態が起こった場合にすぐさま駆けつけるよう 指示しておいた。

 平八郎は、家康と共にある。西上軍の宰領と家康の警備とを任されていたのである。
 家康拝領の“蜻蛉切”を抱えた槍持ちを従え、漆黒の具足に愛用の鹿角の兜といういでたちの 平八郎は、5百の手勢と共に全軍の中央で堂々と馬をうたせて往く。
 一行は、東海道をとって京へ入り、26日、無事 大阪へと到着した。

 大阪の繁栄というのは、この田舎者たちにとって驚愕の一言に尽きた。
 大阪は、もともと淀川の水運と大阪湾とによって日本経済の中心としての立地条件は十分に備 えていたのだが、数年前までは石山本願寺の寺領とその寺町があるだけの場所であった。この地に 最初に眼を付けたのは信長であり、秀吉は、その信長の着眼を引き継ぐ形でこの地を日本経済の 中枢にしようと考えたらしい。
 秀吉は、経済の府 大阪のために堺周辺の商人たちを強制的に移住させ、多くの寺社を勧請し、 さらにありとあらゆる職人たちを受け入れて巨大で機能的な町を作り上げた。こういった町作り は秀吉のもっとも得意とする分野の1つであり、大阪はわずか数年で日本有数の人口を抱える大 都市へと発展していた。
 同時に秀吉は、天正11年からこの大阪石山の地に城を築き始めている。西国の30を越す大名た ちに手伝いを命じ、実に15年もの歳月を費やして途方もない規模で完成することになる大阪城 というのは、城域が2km四方にもおよぶアジア最大の城郭であり、難攻不落の巨城なのだが、 しかし、平八郎らが訪れた天正14年のこの時期は、まだ本丸の部分のみが出来上がっているに 過ぎなかった。

 一行は、城内でもっとも大きな敷地を持つ豊臣秀長(秀吉の実弟)の屋敷を宿舎としてあて がわれ、そこで一泊し、明朝 登城することになった。

(なにかあるとすれば、今宵・・・・)

 平八郎は、1万の軍勢を臨戦態勢で待機させ、これに半数ずつ交互の睡眠を取らせ、さらに 宿舎のまわりには多数の篝火を焚いて夜襲を警戒させた。もし万が一、秀吉が大軍を差し向けて この屋敷を包囲するようなことがあれば、死ぬまで戦って時間を稼ぎ、なんとしても家康を守り 通し、ここから落とすと決意した。


 その日の夜半――
 家康の寝所の傍で控える平八郎の耳に、突如人が慌て騒ぐ声が飛び込んで来た。

(すわ、大事か!)

 慌てて玄関まで駆けつけた平八郎が見たものは、3人の小姓を従えた猿顔の小男と、困惑顔で それを取り囲んでいる三河兵たちの姿であった。

「おお、ぬしは本多平八郎だな!」

 金襴の派手すぎる着物を着たその男は、平八郎に向けてなんとも言えぬ人懐っこさで笑いかけ、

「わしは殿下じゃ。殿下じゃ」

 と、大声でまくし立てた。
 さしもの平八郎も絶句し、我が目を疑った。
 この男は、あの秀吉その人ではないか――!

「いやいや、大納言殿(家康)が大阪に入ってくだされたと聞き、なんとも懐かしゅうなってな。 会いとうて会いとうて明日を待ちかねた。して、こうして参った次第じゃわい。早う取り次げ。 大納言殿の元へ案内せよ」

 はしゃぐ子供のように無邪気さを丸出しにして、秀吉は笑っている。

(・・・なんと大胆な――!!)

 敵陣と言っていい徳川勢の宿舎に、わずか3人の小姓を供に連れただけの身軽さで現れた秀吉 のこの放胆さというのはどうであろう。隠れもない天下人である秀吉の命というのは、この瞬間、間違いなく平八郎が握っているのである。平八郎が号令を下せば、あたりの三河兵たちは一斉に 抜刀して丸腰の秀吉へと殺到し、瞬く間にその首を挙げることができる。
 しかし、さしもの平八郎も、秀吉のこの桁外れの行動には狼狽し、仰天し切っていた。この男 を殺す――そういう毒気のようなものが、すでに抜け去ってしまっている。

「暫時! 暫時お待ちくだされませ。すぐ主に取り次がせていただきまする!」

 秀吉の前を辞した平八郎は、廊下を飛ぶように走りながら非常に奇妙で複雑な敗北感を感じて いた。

 話を聞いた家康は、自ら立ってすぐさま秀吉を玄関まで出迎え、手を取るようにして奥の一室 へと招じ入れた。
 秀吉の来訪を誰より驚いたのは、他ならぬ家康であったであろう。家康は着座してもまだ驚き が醒めず、目の前にいる秀吉を信じられず、悪い夢でも見ているような錯覚をもった。

 “人たらし”と言われたほどの外交の天才である秀吉という男は、対人接触には名人芸としか 言いようのない呼吸を会得している。ほとんど呆然とする家康を前に、

「かつて武田勝頼殿と戦うた『長篠』以来、実に久しく徳川殿とお会いすることがかなわなん だ。その懐かしさのあまり、今宵は様々に物語などつかまつりたいと、こうして参った次第で ござるよ」

 と、陽気に笑いながら自ら持参した弁当の包みを開き、酒器を出し、盃に酒を注いだ。

「まずは、毒見」

 秀吉は続けざまに3杯を飲み、肴を自らの箸でつまみあげて口に放り込んだ。
 家康も、この頃になるとようやく肝が据わって、

「頂戴つかまつる」

 と秀吉の盃を受け、その酒を喉の奥に流し込んだ。
 それを見た秀吉は陽気に笑い、

「ささ、おぬしらも飲め」

 と、その一室に膝を詰めて座っている徳川家の重臣たちにも酒を振舞った。

 秀吉は、さまざまに昔話を語った。それは信長が少壮期の頃の話であり、家康の青春時代と 言っていい昔のことであり、金ヶ崎での殿戦の思い出であり、徳川勢が大活躍した『姉川』の話 であったりした。秀吉の話の上手さというのは天性のものであり、口ひとつで人を楽しませるこ とにこれだけ長けた男もいない。
 いつしか座も和み、緊張が緩み、人々の顔からも強張りが消え、口元が自然に緩んでしまうよ うな陽気さと明るさが部屋に行き渡っていった。

 和んでしまった自分を省みて、家康は快い敗北感を感じていた。
 負けた、と思った。
 自分の前で顔を真っ赤にして座っているこの5尺にも満たない猿顔の小男が、桁外れに巨大な 器量を備えているということをまざまざと知らされた。それが、天下人の器量というものなので あろう。
 家康は、今の自分にこの秀吉ほどの器量が備わっていないことを自覚していた。

 この夜、家康は珍しく酔った。
 飲まねばならなかったのであろう。
 秀吉はもともと酒がたいして飲めぬ性質の男なのだが、この夜は芸か本気か、足元が覚束ない ほどに酔っていた。

 夜も更け、秀吉が帰り際のことである。

「徳川殿、実は、そこもとに、明日、ひとつ頼みがある。聞いてくだされるか」

 秀吉は家康の肩を抱くようにして耳元で小声で言った。

「ご承知の通り、それがしは関白などど申しても、元は水飲み百姓。奴僕より身を起こし、総見 院様(信長)に取り立てていただいて立身し、今日のようになり申しましたが、しかし、それがし の家臣というのは、これみな元の同僚朋輩でござって、それがしを主君として敬う心なぞはさら さら持ってはござらん。そこで、頼みというのは・・・」

 と、秀吉はさらに声を落として続けた。

「明日、諸大名がおる前で対面つかまつるわけでござるが、それがしは背が折れるほどに反り 返って尊大の体(てい)を作りまする。どうか、お気を悪くなされるな。そこで、徳川殿には、でき るだけ慇懃に礼をしてくださらぬか。徳川殿でさえ、あれほどにこの秀吉に対して辞を低うして おる、となれば、諸人はそれを見てあらためてこの秀吉が天下人であることに思い至り、その尊 貴さに気付き、明日よりはきっとそれがしを敬うように相成りましょう。このこと、どうか頼み 参らせる」

 秀吉は、頭を下げた。

 家康は、弾かれたように笑った。声を殺し、肩を震わせて笑った。

(なんと無邪気な男であることか――!)

 秀吉は、このことの了解をとりたいがために、この場の座を設けたのである。根回しの達人と 言えばそれまでだが、この秀吉の言葉で、家康の自尊心は大いに満足させられ、それどころかあ れほど嫌っていた秀吉という男に、家康は親しみと好意さえ持った。

「心得てござる」

 家康は心から言った。

「拙者が大阪まで出向き、殿下に拝謁つかまつるにおいては、いかようにも殿下の御為になるよ う取り計らい申す。ご懸念は、もはや無用でござる」

 この瞬間、家康は秀吉の家来になった。
 平八郎は、家康のその言葉を、名状しがたい感慨と共に聞いた。


 翌日、家康は諸大名の前で、秀吉が書いた筋の通りの狂言を演じた。
 この家康の狂言で、秀吉の天下が決まった。




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