歴史のかけら
合戦師
82
「小牧・長久手の合戦」から、2年近い歳月が流れた。
家康は、相変わらず独立姿勢を崩さない。
(あきれた男だ・・・・)
秀吉は、大阪城の天守閣から東の空を眺め、そう思った。
家康という男の執拗さというのは、まったく驚嘆するほかない。
秀吉の創り上げた政権は、この2年の間に強靭な地盤とさらに強大な実力とを持つようにな
っていた。同盟相手だった中国の毛利氏、越後の上杉氏がその傘下に入り、家康と共闘を約束
して秀吉に敵対していた越中の佐々成政、四国の長曾我部元親は、すでに戦に破れ、降伏してし
まっている。さらに言えば、この2年の間に秀吉の下にいる者どもにも、秀吉を主君として仰い
でゆく気分が出来上がっている。
秀吉は、朝廷を動かして豊臣の姓を創始させ、自ら従一位関白の位に座り、さらに太政大臣
になることで名実共に人臣の頂点に立った。秀吉の政権というのは、その意味では日本史上未
曾有の尊貴さが加えられており、もはや秀吉の天下人の座は揺るがぬものになったと言ってい
い。
しかし家康は、それでもまったく態度を変えようとはしなかった。
秀吉は、この期間に何度も家康へ外交使を送り、その感情を蕩けさせようとし、自分に対して
好意をもってもらうよう務めたが、どれほどの効果もなかった。
秀吉は常に下手に出、適当な理由を設けては自ら辞を低くして、
「どうか一度、上方に遊びに来てくだされ」
と家康に言い送っている。
「臣従」などと言っても、形式としては家康が秀吉の元に出向いて拝謁するというだけのこと
で、ようは家康が大阪に出てきてさえくれればそれで良いのである。秀吉はなんとしてもこの
通過儀礼を穏便に済ませてしまいたいのだが、しかし家康は、慇懃に返事こそ送ってくるもの
の、「病気である」とか「多忙である」とかいった理由をつけて、いっこうに腰を上げる気配を
見せない。
(だからこそ、あの男は偉いのだ・・・)
とも、秀吉は思う。
家康は、もはやその軍事力を増強させることはできない。家康の版図というのは東海5ヶ国の
みであり、東には大北条氏が盤居し、北は秀吉傘下の上杉氏がおり、三河より西は秀吉の勢力で
ある以上、領国を増やす余地がないのである。つまり、家康の勢力というのは2年前からまっ
たく変わってはいない。
しかし、秀吉の勢力は2年前とは比べ物にならないほど強大である。
これと戦うことが無駄であるというのはもはや明白であり、いかなる勢力も秀吉に敵いはしな
いのだが、家康はそれを十分に解っていながら、あくまでも独立姿勢を堅持し続けている。
この間、家康がしたことと言えば、後方の北条氏との同盟を蜜にすることと、東海5ヶ国の
内治に専念することのみであった。
これは、あくまで対秀吉戦を想定した行動であろう。
僻地の勢力がそれをするならば、まだしも解る。
中央から遠い地方勢力は、秀吉の政権をまだまだ過小に評価しており、関東以北の大名たちは
まだ秀吉をほとんど意識さえしていないようであり、九州をほぼ統一しつつある島津氏などは、
あからさまにこれを軽視している。
しかし、これは、
(連中が田舎者だからだ・・・)
と、秀吉は高をくくっている。
ようは秀吉がどれほどの力を持っているかを連中が知らぬだけであり、四国の長曾我部元親が
そうであったように、秀吉が握る天下の兵の強大さを実感した時点で、彼らは目が覚めたように
降伏してくるであろう。
しかし、家康だけは、それらの田舎者たちとは決定的に違っている。
家康は、織田家とそれを相続した秀吉の実力を誰よりも知っており、知った上でなお秀吉に擦
り寄ろうとしてこないのである。これは、不遜とか無知とかいう言葉で片付けるわけにはいかな
いであろう。
(まったく厄介なヤツ・・・)
ため息の出るような気分でそれを思った。
秀吉ほどの実力を持っていれば、本来ならば征伐をちらつかせて相手を脅迫し、向こうから泣
きついてくるように仕向ければいいようなものなのだが、しかし秀吉は、これまで家康にだけは
脅しの手を使おうとはしなかった。
家康は、かつて戦国最強を誇った武田信玄の圧迫を十年にわたって耐えた男であり、「信玄
西上」のときには絶対に負けると解っている状況でこれに決戦を挑み、惨敗してなお屈しなか
ったという恐るべき履歴を持っている。
(あの男には、脅しは通じぬ)
というのは秀吉はよく知っており、下手に家康を窮地に追い込めば、滅亡を覚悟して腹を括り、
領国を焦土にしてでも死ぬまで徹底抗戦をするであろう。そうなれば戦が泥沼の長期戦になって
しまうことは必至であり、秀吉にとってまったく面白くない。
秀吉は、近々のうちに九州征伐を発動するつもりでいた。
薩摩(鹿児島県)から興った島津氏が九州全土を統一するほどの勢いを示しており、それに抗し
きれない豊後(大分県)の大友氏が秀吉に泣きついてきているのである。島津氏の勢いというのは
火のように盛んで、薩摩隼人と呼ばれるその兵は噂によると鬼のように強いらしい。これを征伐
するために、秀吉は20万近い規模の大軍勢を率いて自ら親征し、圧倒的な兵力で敵の戦意を喪失
させてしまおうと考えているのだが、それをするためには、東方の家康との冷戦状態を早急にな
んとかしなければならない。
秀吉は、焦り始めていた。
年が変わって天正14年(1586)の正月、家康の元へ何度目かの外交使が来た。
信長の弟であり今は僧籍にある織田長益(有楽斎)という人物と、かつて家康と共に秀吉と戦っ
た信雄の家老 滝川雄利、さらに信雄の家臣であった土方雄久という三人である。
彼らは婉曲に秀吉の傘下に入ることの有用さを説き、家康がこのまま独立を堅持することの
危険さと無益さを説いた。
家康は、彼らを丁重に持て成しはするものの、話が秀吉の話題になると急に表情を硬くし、
不機嫌な風をつくって相手の口を噤ませた。その態度があまりに露骨であるため、外交使たちも
閉口し、いっこうに交渉は捗らなかった。
秀吉がいかに焦っていたかというのは、この正月だけで、外交使が三回も家康のいる岡崎を訪
れていることでも解る。彼らはほとんど休む間もなく大阪と三河を往復しているようなものであ
った。
三度目の外交使が訪れたとき、たまたま家康は三河の吉良郷というところで鷹狩をしている
ところであった。
家康は、
「私は鷹狩をしているときは、合戦のときのように心気が昂ぶるので、客には会わぬことにし
ている。しかし、強いて会いたいということであれば、狩り場まで出向いて来られよ」
と彼らに言い送った。
天下人からの正式な外交使節に対して、これほど礼を失した態度もないであろう。
外交を任された滝川雄利らも、今回ばかりはかなりの覚悟をしていたらしい。狩場で家康と
対面するや、これまでよりはるかに強い口調で、
「上洛のことでござる」
と、ずけりと本題に入った。
「わしは、総見院様(信長)がご存命のころ、上方に招かれ、京、堺などの見物も致しておる。
今さら上方なぞ恋しいとは思わぬ」
家康は、腕に鷹をとめたまま言った。
滝川雄利も、引き下がらない。
「殿下(関白になった秀吉)のお心がいかに広うおわすとはいえ、こうたびたび上洛を拒みなされ
ては、ついにはお怒り遊ばされるかもしれず、そうなれば、徳川殿にとってもお為になりますま
い」
「お為とは何ぞ」
「殿下は徳川殿のことを思えばこそ、こうして再三上洛をお勧め申し上げておるのです。ひとた
び殿下がお怒りになれば、天下の大軍を率いてこの三河へ攻めて参るやもしれませぬぞ」
と、露骨に恫喝した。
これを聞いた家康は、激怒した。
「汝は、長久手の一戦を忘れたるか!」
使者を睨み据え、家康は昂然と言い放った。
「羽柴殿が下向なさるというのなら、わしは五ヶ国の兵を率いてお出迎えをいたすのみじゃ。羽
柴殿の勢がいかに多しといえど、この三河の地理を知るわけではござるまい。しかし我が勢は、
草木の一本までことごとくそれを諳んじている。いずれが勝つか、お試しなさるがよろしかろ
う」
家康のこの勢いに、さすがに使者たちは言葉を失い、すごすごと引き下がっていった。
徳川家の人々にとって、天下人たる秀吉を向こうにまわしての家康の毅然とした態度というの
は、これ以上ない痛快事だった。彼らは口々に快哉を叫び、家康の勇気と気骨を褒め称え、家中
の士気は沸き立つように盛り上がった。
しかしこれは、多分に家康の演技であった。
強大な秀吉相手に少しでも弱腰な態度を見せれば、そのことによって家臣団が動揺し、生き残
るために家康を見限り、秀吉に誼を通じるような輩が出てこぬとも限らない。今の家康が恐れる
のは秀吉よりもむしろ家臣団の内部崩壊であり、家康としては家臣の統帥上、強硬な姿
勢を内外に演技しておくことが必要だったのである。
家康は、「英雄」でなければならなかった。
しかし、家康の本音ということで言えば、戦って秀吉に勝てるとは思っていないし、戦いたい
とも思ってはいない。
この時期の家康の心境というのは、非常に複雑であった。
家康は、秀吉との決戦を覚悟しながらも、一方では外交上の妥協点を模索していた。妥協点と
いうのは、家康の名誉が損なわれない形での秀吉への臣従であり、豊臣政権下での格別の待遇で
ある。
しかし家康は、自分が上洛すれば、秀吉が自分を殺すかもしれないという強い疑惑をも同時
にもっている。秀吉というのは、家康や三河者たちにとって「得体の知れない策謀家」といった
側面があり、信長の遺児を破滅させ、織田家を乗っ取って天下を握った秀吉のその腹黒さを知っ
ている家康にすれば、これを信用する気にはどうしてもなれないのである。
強硬姿勢を堅持したまま座して待っていれば、いつかは秀吉が征伐に乗り出すであろうし、そ
うなれば徳川家は破滅せざるを得ないであろう。しかし、秀吉に臣従したところで家康が謀殺さ
れたのではやはり破滅である。
家康は、動こうにも動けない状況に追い詰められていた。
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